信仰、聖典 2 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

私はヒンドゥーの神像をいくつか持っている。クリシュナ、ハヌマーン、ガネーシャの神像。

どれも頂き物。神像の方から私の手元にやって来た。求めずして得たものは神意に依る。勿論、求めて得たものも結局は神意に依るのだが。森羅万象の一切全ては神意、御心に依る。

クリシュナとハヌマーンの神像はそれぞれ当時やっていたバンドのメンバーから貰った。当時私がやっていたパンクバンドはライブ前に楽屋で精神統一のため般若心経を唱えたりする色んな意味でヤバイバンドだった。

とはいえメンバーは全員特定の宗教信者ではなかったし宗教法人自体基本的に嫌っていた。前にも書いたが本当の宗教とは私達の内にあるものだ。特定の宗教団体に属すること自体は勿論悪いことではないが、しかし現代にどれほど真っ当なサンガ(真理の探求者の集い)があるだろうか。下手に群れて本質を見失う位ならば独り歩んだ方がいい。

般若心経は無学な私が唯一暗唱できるお経だが、あれは比較的短い経典なので覚えるのに苦労はない。5分位時間を使って1日に二~三行づつ覚えれば数日で暗唱できるようになれる。

真言やマントラは更に短いから覚えるも何もなくすぐに実践できる。こういったマントラ、真言、経典などはいくつか心に備えておくと色々と良い。何が良いかと言えば何とも言い難いが、単純に精神統一や心を静めたり善からぬ激情を鎮めるツールとして有効なのだ。当人の信心次第では何かしら神通力的な効力や世俗的な恩恵も生まれるだろう。

私はいくつかの言語で唱えられた般若心経のCDを持っているがサンスクリット語の般若心経は子守唄のようで大変美しい。あれはもう歌だ。無垢で透明な水晶のようだ。コーランの朗読も歌のようであり大変美しい。コーランはアラビア独自の妖しい美しさと凛々しさがある。音楽が好きな人はそういった観点からも楽しめる。

日本で一般的に耳にするお経も木魚のビート感に流れ込んでくるラップのような詠唱にやはり独自のグルーヴがある。ヒンドゥーのバジャンやキルタン等も信仰云々抜きでも単純に歌として美しい。私はよくお風呂でガネーシャやクリシュナの歌をフンフン歌う。

心身が疲弊しよろめいた時は般若心経や真言がハマる。あの冷徹なまでに感情を感じさせない熱烈な冷静さが心をピシッと据えるのに大きな助けになる。

ガネーシャの神像は奇妙な入手の成り行きだった。昔友人と共に京都に野宿旅行へ行った時のことだ。丁度、縁日がやっていて友人がルドラクシャの数珠を出店で購入した。店主は外国人の男性で、従業員に関西のお姉さんが一人いた。

友人が数珠を買うと何故か従業員のお姉さんが「なんかオマケ付けてやればええやん」と店主に交渉し始めた。外国人の店主は中東系の人で気の優しい感じのおじさん。一方お姉さんは関西人の気っ風の良い姉御肌な感じ。

お姉さんに押された店主は「え?あっ、うん、わかったよオマケつけるよ」といった具合に折れた。店主が何をオマケに付けるか悩んでいるとお姉さんが「何悩んでん!何、これか?これか?あぁもうガネーシャでええやん!」と攻める。

お姉さんの関西人パワーは凄かった。しかし決して嫌味な感じではなかった。店主とのやり取りは夫婦漫才のようで微笑ましかった。しかし全てをお姉さんに決断されては男が廃ると踏んだのか店主はガネーシャの神像に更にピンクの布袋を付けてくれた。

そしてしばし考える店主。すると「(数珠を買った)お兄さんには悪いけどこのオマケはこっちのお兄さん(ぽっぽ)に」と言って何故か何も買わなかった私にオマケをプレゼントしてくれたのだった。ガネーシャの神像とサイケ柄の可愛い袋。私達は店主とお姉さんにハグをして別れた。

何故私にオマケをくれたのかその真意はわからない。店主がオマケを手渡してくれた時の優しい敬うような眼差しを今でもよく覚えている。

友人は数珠を買う時に「この値段は高いかな?」と私に聞いてきた。私は「お前が高いと思うなら高いし、安いと思うなら安い。それが高いのかどうかはお前が決めることだ」と答えた。お金で買えるものはお金で買えるのだから本質的には全て安いものだ。ムクティ(解脱)はこの世の全ての金銀財宝とお金を積んでも買えない。

そのやり取りを店主も聞いていたと思うが、このことがあったからオマケを私にくれたのかなと思っている。

そんなわけでこのガネーシャの神像には特に御心を感じている。ガネーシャ神は自分に合った神様であるとも思う。ガネーシャはお菓子好きだが、私もお菓子が好きだ。

ガネーシャは我が儘を通してシッディとブッディの二人の女神を妻にしているが、私も"絶対欲しい"となったものは基本的に絶対手に入れるために全身全霊を尽くす。

些細な欲望は「ま、機会があったらね♪」で済ますことが多い。手にしたことを想像しただけで満足してしまうことも少なくはない。その代わり「これはこの身に変えてでも!!」という熱望に関しては、私はただごとでは済まさない。

ガネーシャは智と芸術を司る神であったり、自分以上の師を持たない神とされている点など、色々と私の性に合っている。ガネーシャは仏教でいう歓喜天に該当するが私自身、本来的な性格は非常に歓喜的でもある。

しかし私はジニャーナ(知識)の気質にある人間だからガネーシャの神像は普通に飾ったり外出時にお守りとしてポケットに入れたりしている程度だった。

私がバクティ(信仰、信愛)の資質を育みたいと思いはじめた時、私はこのガネーシャ神像にきちんとお供え物をするようになった。水とお菓子。そしてきちんとガネーシャのマントラを唱えガネーシャ神を瞑想して。

そんな具合にバクティをきちんと意識し始めたのであった。それ以前も普通にヒンドゥーの神々は好きであったし、そもそもお稲荷様でも不動明王でも何でもそういった存在は霊的次元に実際に存在することはヴィチャーラ(探求)の過程で理解していた。

信じるもなにも例え信じなくとも既にそれらが存在しているのは当たり前の事実だ、と。しかし実際に行為と態度(礼拝等)で敬いを捧げ示すのはまた話が違うのである。それがバクティの道だ。

ヒンドゥーは多神教ではあるが厳密には一神教でもある。ギーターを読めばその微妙なニュアンスは理解できるだろう。クリシュナは唯一無二なる至高神(アッラーと同義)について語っているからだ。

クリシュナはこうも語る。「(唯一無二の至高神以外の)他の神々を礼拝する者も"誤った道"ではあるが確かに私を礼拝している。何故なら私はあらゆる祭祀の唯一の享受者であり、あらゆる祭祀を受ける唯一の神であるから。しかし彼等は私の本性を理解していないので再び地上の生活に戻る(=苦しみに戻る)」

ヒンドゥーもまたその究極的な真実においては一神教だ。では何故ヒンドゥーにはあんなに沢山の神々があるのかと言えば、それはヒンドゥーが究極的な真理だけでなく顕現の領域についても細かく表現しているからだろう。

ヒンドゥーにはマインドの様々な観点における宇宙の説明を無理矢理力業で敢行しているような勢いがある。その意味ではカオティックですらある。言葉、概念の次元で宇宙を様々な表現で説明すればするほど、それに応じて矛盾も生まれるものだがヒンドゥーは細かい矛盾などは気にせずガンガン表現する。正に宇宙的な色彩豊かな宗教だと個人的には思う。

神々もまた完全な存在ではないが故にヒンドゥーの神々には「本当に神なのかよ!?」と突っ込みたくなるような性格やエピソードがある。性格に癖があるのは他の神々や霊的存在でも同じだろうが、ヒンドゥーは特になんというか神々がロックな感じなのだ。

ギーターは顕現の領域における様々な事実を説明しつつ至高神についてもきちんと語っている。究極にして唯一無二の真実を欠いた宗教はそもそも宗教とは言えない。

クリシュナは宇宙の諸々の知識的説明をある程度しつつ至高神の存在こそ最上の真理であると説いている。その意味ではギーターの教えは多角的であるし、信仰と知識および全体のバランスがよいと思う。

昔は聖典一つ読むにもわざわざインドや中国に旅しなければならなかったわけだが現代は幸運にもあらゆる聖典が書店で入手できる。ネットで無料で読めもする。

宗教や宗派の違いに固執することなく自由に内なる導きに任せあらゆる宗教や聖典に触れてみることが大切だ。特定の一つの宗教を自分の中心に据えるとしても、信仰や探求における精進とは学校の選択科目のお勉強ではないのだから宗教や宗派の違いに惑わされることなく、真実そのものを熱望することが大切だ。特定の宗教団体の教義だけを生真面目にお勉強することが大切なのではなくあくまでも真実そのものが大切なのだ。

真実を扱った宗教は皆それぞれに特色があり、それぞれに特化した面があり、それぞれが究極であり特別でもある。そして信仰自体は皆同じだ。あからさまなカルトは例外だが真っ当なものは皆等しく同じ真理に基づいている。

そして私達にはそれぞれ精神的傾向性がある。その多様性に応じて真理の表現もまた多様であり、各人が惹かれるものも多様だ。

バクティの観点ではコーランは一つの究極であると私は言うが、その究極自体は別に真宗でも禅宗でもヒンドゥーでも見出だせるだろう。個人の精神的傾向性やどのような観点から見るのかでそれは人それぞれなのだ。

私はコーランが多神教を否定しているからといってそれでヒンドゥーの多神的側面の神々を邪神扱いしたりはしない。先に記した通りクリシュナが究極の真実を語っている部分はコーランと全く同じだからだ。そこに矛盾はないし宇宙の現れにおいては表面上必ず数多の神々や他の霊的存在は自動的についてくるからだ。

ただ絶対的な帰依と本質的な信仰は唯一、至高の実在・真実のみに捧げるべきではある。例えば…最愛の妻がいるなら夫は妻以外の女性に浮気するべきではない。しかし他の女性を全否定して憎む必要もない。妻以外の他の女性と仲良くすることは世界を生きてゆく上で大切だ。それと同時に最愛の妻さえいればいいと言える面もやはりあるだろう。

一神・多神のパラドックスはそれと似ている。どのみち事の本質を理解すればクリシュナが語った通りどの神々を信仰・礼拝しようとその全ては間接的ではあれど至高神に帰しているということがわかるだろう。神々自体は幻影にすぎないことを理解すればよいのである。

ただ浮気をした男が「一番は妻であるお前だけだ」と言ってみても浮気した事実に変わりはないのと同じで、心の表面上では真実を想っていても実際は偶像を想っているに過ぎない場合は少なくない。

自分の最愛の対象(友人、伴侶、我が子、物や財産etc)を崇拝するのが人の性ではあるが、その愛が対象そのものに向いているならばいくら美化しようと執着にすぎない。執着は執着であると識別すべきである。その識別知を持つことが執着を手放すことだ。

執着を掴む手を放すことが執着を手放すことだ。手を放したらその執着がパッと消え去るというわけではない。掴んだ物から手を放しても物自体は消え去らない。しかし手を放したならそれはもう手からは離れる。同じように執着を手放すならその執着(苦しみ)は単に自己の所有物ではなくなるのだ。

心身が存続する限りは表面上の執着が"完全無比"に消え去ることはない。仏陀は形成されたものは皆苦しみであり、生老病死は苦しみであると語ったが、それが真実の見地から見た場合の"顕現の事実"だ。

真実の見地に立てばそれらが苦しみでなくなるのならば仏陀は「それらは苦しみではない」と語ったことだろう。クリシュナも「生老病死の苦しみを知れ」と語った。それらは苦しみであることが事実だ。形成されたもの全て、そして生老病死は確かに苦しみなのである。

それを素直に理解し受容することが大切だ。でなければ私達は欲望の対象を愛であると偽証し、その対象を崇拝し続けるだろう。それは真実に反し、後にゲヘナ(地獄、苦しみ)へ転じる。全ては無常だからだ。


続く