(旧ブログより転載)
意味のないものは良い。
意味のわからないものも良い。
下らないものも良い。
しかし社会が提示する「人間様の偉大なるものの見方」とやら。
そのフィルターを通すなら話しは変わる。その色眼鏡で透かすなら話しは変わる。
それは世界を歪曲する。
つまらなく。
意味のないものを無価値に解釈し。
意味のわからないものを混乱に解釈し。
下らないものを虚しさに解釈する。
バカ気たことだよ。
楽しいバカじゃない。
全てをつまらなくしてゆくただのバカだ。
俺はそんなんよりバナナの方がいい。
バナナ食ってる方がいい。
バナナを365日3650本食い倒してバナナの皮をボンボン投げまくってバナナの皮で滑って冷凍バナナに頭をぶつけバナナのあの世でバナナダンスしていた方がマシだ。
そしてバナナ姫とバナナのお城でバナナな三日月を見ながらバナナな幸せをロックするのだ。
バナナバナナって…意味がわからないだろう?
恐れるな。安心しろ。
意味なんてないから。
バナナバナナ言ってる俺自身も全く意味わかってないから。
俺という個人自体そもそもあんまり意味ないから。
意味なんて超えてしまえ。
いや、超える必要はない。俺たちは既に意味も価値も超えている。
俺たちは存在だ。
俺たちは意味ではなく、また価値でもない。概念でもない。
俺たちは意識、存在だ。
肉体でもマインドでもなく、その双方の存在に気づいている気づき、存在だ。
意識の自覚に対する知覚を超えた認識、気づき、空なる存在だ。
不可知なる生命の躍動。不可知なる神秘。
どんなに苦しもうがどんなに楽しもうが"究極の死"が訪れる時、全ては初めから無かったことになる。
つまり究極的には幸せも不幸もどらちも無駄に終わる。
何も残りはしないのだから、これを無駄と言わずして何という?
精々、一時の夢としか言えないだろう。事実、全ては夢の様に消え去るのだ。
いや、夢ならば目覚めた後に記憶が残る。
しかし、人生とやらは一旦終わってしまえば記憶すら残らない。記憶を認識する主体である自我がそもそも消え去る。
勿論、その記憶は宇宙の総合データバンクのようなところに保管されはするが、自我の視野で見るならば全ては永続しない。
あなたの記憶に依存するものは何か?あなたの知る全ては完全に記憶に依存している。逆に言えばあなたが記憶以外に知れるものは何もない。
あなたの自我意識が完全消滅する時、その時は「無」さえも存在し得ない無の彼方に顕現の全ては消え去る。
ならば人生は夢よりさらに実在性の不確かな話しでしかないとも解釈できる。事実、確かに全ては不確かなのだ。どのみち全てはどの様にも解釈できる。
全ては意識の元で一体だ。そこにマインドが勝手にマインドの中に、境界線や分離や距離を推測し、定義付けをし、価値や意味を投影し出すのだ。
幸せも不幸も究極的には、無意味で無価値で無駄なものだ。
しかし、それでもなお…それでもなお幸福以上に価値と意味があるものはない。
ならば無駄に幸せでいればよかろう。意味も価値もなく、幸せでいればよかろう。無駄な不幸、無駄な幸福。どちらでも好きな方を選べばいい。
さぁ今、少しだけ微笑もう。
微笑む為に意味や理由は必要ない。
そもそもだ。
そんなに頭いいのか?人類は。
何かの意味や理由や条件を完全に理解し完全に掌握できるほど…頭はいいのか?人間てやつは。
自分の生きる星の環境を自分達で壊してゆく様な生き物が…果たしてそこまで頭がいいと言えるだろうかね?
意味や理由、条件に束縛されることが無益な苦しみを生み出すのだ。意味や価値を楽しむ事と囚われる事は似て非なるものだ。
無邪気に楽しむのは悪くはない。しかし、苦しむのは良い悪い以前に単純に苦しいだけだろう。
マインドが苦しみの理由に固執し、意識の焦点を絶えず苦しみに集中させて苦しみを掴んで離さない時、それが問題になるのだ。
どえらい問題になる。人によってはそれで自殺さえしてしまう。
しかし・・・それもまた一興という事だな。