継信少年は、
黄泉に消えようとする杉目の姉の腕を
静かに現世に引き寄せた。

継信の指が、
霧のようにほどけかけた杉目の姉の手を
かろうじて捉えた。 

「ちょっと待って!
まだ、終わってないだろう」
低く、しかし確かな声音だった。

杉目の姉の輪郭が、ゆらりと揺れ、
まるで水面に映る月のように不安定で、
それでも美しく、
「終わっているわよ」と
かすかに笑った。
その笑みはどこか諦めに似ていた。
「いいや、終わってない」
義経が一歩前に出る。

その気配だけで、
場の空気が張り詰めた。
「そうだ、殿の仰せの通り」
弁慶が続けた。
「語られていないその先がある事を、
お前も承知なはずだ」

杉目の姉は、
戸惑ったように身体までぐらりと揺らした。

継信は、もう一度、杉目の姉を支えながら、
遠目から心配そうに成り行きを見守っていた、
桜の大樹の下にいた大谷一郎氏に目配せをした。

大谷一郎氏は慌てながら駆け寄って、
まるで商売人のように両手を揉み、
眉尻を下げ、和かに陽気な大声で皆を誘った。

「それでは!」
大谷一郎氏は咳き込んだ。
「それではこれから大宴会を準備しておりますから、
オラほの奥の院の月宮殿にお進みください」

大谷一郎氏の声と、
高く上げた手の合図ひとつで
瞬く間に黒塗りの車が整列した。
車窓はレースのカーテンで
内部が見えなくなっている。
杉目の姉が告げる。

「北の方がお見えです」

郷が?
と義経が小さく叫ぶと、
白い着物姿の小柄な女性が車から降りてきた。

その清らかさに、
皆が息を呑む。

郷とは、頼朝の命により義経に嫁ぎ、
頼朝と義経が対立したのちも
義経の逃避行に従い、最期を共にした妻だ。

郷が子供を抱えて車から降りると、
義経はひしと抱きしめた。

「陸奥国の藤原秀衡様を頼り、
郷と子らを伴い奥州に赴いたあの冬山、
降り頻る雪の中を一行で
山伏と稚児の姿に身をやつして、
本当に苦労をかけた」

「苦労など、忘れ申しました」

優しく微笑んで郷は、
無心に笑う子供の頬を撫でる義経を見て
思わず涙を流していた。

「僅か2年の平泉暮らし、
平和で豊かな日々でしたね」

桜の樹々が風に揺れ髪に花びらを降らせた。

ささ、殿を立ち話させるなど
滅相もない、疲れでしょうから、と
郷は義経をねぎらい、
一行は、隊列を組み、
太夫黒を先頭に、
桜の香りの中をゆるゆると車を走らせた。

車の中で、
禅蝶の横に継信少年が、

「秀衡様の後、
頼朝の命を受けた藤原泰衡様が、
従兵数百騎で
義経が暮らす衣川館を襲撃したんだよ。

義経様は持仏堂に入り、
22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち
自害した、
と言われているけど」

「けれども?」

「真実は、霊能力でわかる?」

と言って、
継信少年は、
美しい顎を上に向けて艶やかに笑った。