一関からJR東北本線に乗り換えて平泉は2駅だ。
岩手県の平泉は5月初旬と言えば桜が満開に咲いたが今は温暖化で躑躅の花が蕾をつける時期に変わっていた。
駅の改札を出る瞬間、
弁慶は声を上げて天に向けて身体を大きく伸ばした。
「ウォホホホホーー!!」
胸をバンバンと握り拳で叩き始めた。
まるでゴリラのドラミングのようだ。
「うぉぉぉ、懐かしい、奥州の美味い風の匂いだ、鼻の穴が喜んでおる!」
と唸った。
すぐに、弁慶は身体を大振りしてから後ろを歩く義経に頭を下げ、
義経の足元に片足で跪き、自分の太腿に片脚を下ろさせ、草鞋を脱がせ、
足裏と足首を摩り、
「殿、お疲れは?」
と、義経の全身の体調を足裏からツボ押ししながら、上半身までくまなく点検しているようだった。
「そうだな、弁慶、
だいぶ美味しい風だな」
と真珠のように光る白い歯を見せて笑う義経、その髪が平泉の風にそよそよと靡く。義経が平泉の駅を歩く外に出ると、新緑の草木まで生き生きとして昼だと言うのに、朝露の残りの雫をもう一度、葉から滑り落とし、瑞々しい香りを放ち、翡翠のように煌々として麗しい錦絵のようだ。草木も花も麗しい義経を一目見ようと面を向けるようだった。
駅のロータリーは閑散として、人影まばらだった。
大谷一郎氏が迎えに出ると約束していたはず、と平泉駅を見回すと、私の携帯が高らかに鳴った。通話すると、大谷一郎氏が、「ばばっ禅蝶先生だべが?あっばやーっ!今、着いだっぺが?あれあれ、待ってけろやなっすー!ばっ!ばっ!」
と勝手に電話が切れてしまった。
切れる前に、
ガッガッガッガッと、遠くで音が聞こえた。
義経が、その携帯から聴こえる音に、
「なにっ?太夫黒か?」
と、叫んだ。
天女のような柔らかい顔が勇ましい若武者のように変わっていた。
弁慶も、
「殿!太夫黒と?」
立ち上がり背中から錫杖を手に取り棒振りし始めた。
祇園祭で見た事のある、綾傘鉾の禿の舞いのように俊敏だ。
弁慶が錫杖を力一杯に振り落としアスファルトにシャリン!!と大きな音を立てて突き立てると、
平泉駅の舗装された道路の遥か向こうから、ヒヒーンと嘶く黒い塊の点が見え始め、徐々に大きくなる。
その周りには陽炎のような噴煙が立ち込めている。
目の悪い私が眼鏡を触り直して目を凝らして見るが、見る見る大きくなる黒い塊の先頭は馬だった。馬の蹄は舗装されたアスファルトを強く蹴るが、脚は頑丈なのだろうか、首を横に降り、狂おしいようだった。対抗車もまばらで、馬の後ろから白い乗用車と軽トラ車の2台が追いかけて来る以外、見当たらない。
ヒヒーンッと嘶く馬が駆けてくる。
義経は、太夫黒!!と叫び、弁慶は、殿、私の背に!と地面に伏す、
弁慶!構わぬ!
とそのうずくまる弁慶の背に優しく手を触れ起こし、膝を屈伸させてかがんだかと思うと、途端に空を斬り、太陽を受けて両手を広げて跳んだ。羽○結弦氏のトリプルルッツか、内村○平氏のブレトシュナイダーかと目を疑う間に義経は鮮やかに宙を舞い、何度か美しく回転して、ストン!!と、馬の背に乗った。
義経の八艘飛びとはこの飛翔か、
向かって来る黒塗りの自家用車と軽トラの間を反対方向に急速度で擦り抜けて、黒い馬は雷鳴のようにガッガッガッと蹄の音を響かせ遠くに駆け抜けて行った。
アスファルトの粉塵が舞う中、棒立ちの私と大喜びしている弁慶の前に、軽トラが急停車した。
後ろから、黒塗りの車が後続して音を立てて停まった。ダダダッと黒いスーツの男達が1秒足りともと焦りもどかしい様に降りて来た。
軽トラのドアも慌てたように開き、
「ばーばっばっ!申し訳ねぇっごどだべすねぇ、禅蝶先生!」と大きなダミ声がした。
福々しい恵比寿さまのような中年の男性が現れた。丸々とした艶のある日焼けした顔に、髪は白髪混じり眉毛もボサボサで、愛嬌たっぷりだ。着ている服は全身ワークマンで、長靴には泥がふんだんに付いていた。
首には色褪せた平泉農協マークのタオルを巻いて、さらに腰にもどこぞの温泉地のマークのタオルを差し、麦わら帽子を太い首から背中に吊るした、大谷一郎氏が汗を拭き拭き出て来た。暑くもないのに癖か高血圧に違いない。
眉尻がやたら下がっていて、見たままの歳の頃は60代、しかし実年齢はまだ40代のはずだ。
「いややぁ、懐かすなや!禅蝶先生!」
「大谷一郎さん!」両手を握り手相の肉厚さを確かめ再会を大いに喜びながら大谷一郎氏は釈明した。
「いやいや、お迎えにあがっぺどしたっけっさ、これこの通りでがす。あやー、
今朝ねやぁ、水沢競馬の調教師さんが、おら家の厩舎に入れで、さっきまで人参かせで音無すがったのに、何のなんの、いっつもは大人しい馬ッコなのにっさ、急に鼻息荒グレで暴れ出してっさぁやぁ、あややー、お連れさんの何が大したご縁あった馬ッコだったんだべがなー」
弁慶が、
「あの馬は太夫黒の生まれ変わり、
おそらく血が繋がる子孫です、
藤原秀衡様から平氏打倒に平泉を出る時に賜った、名馬に違いありません」
と言ったその時、軽トラの助手席から、
「へぇ、偶然だね、あの馬は太夫黒と、今朝、僕が名前を変えて付けたんだ」と、白いセーラー服にマドラス柄の、栗色の巻毛の少年が現れた。
「あ、こりゃ、申す訳ねや、ちゃんと挨拶ばすっぺや、継信!」
大谷一郎氏は少年を叱ると振り向いてさらに眉尻を下げ、
「禅蝶先生、ハリウッドで生まれる時に連絡したべや、国際電話して名前付けで貰った、双子の片割れ兄貴の継信だっちゃー覚えでもらってだべがぁ?」
継信少年は父の一郎氏が紹介している最中に、栗毛色の美しい巻き髪を子犬が目を閉じ五月蝿そうにフリフリと首を振るようにして、はぁん、と溜め息をつき、一度かきあげて、美しい形の自分の顎に細い指を突き立てて気怠げに答えた。
「弟は忠信、今日はテニスの試合なんだ、僕だけお迎えで、ごめんなさい」
と、生来の流し目か、私を見つめる。
大谷一郎氏が、もっとちゃんとご挨拶せんか!と背中をどついている。
あん、痛いなぁ、とまた髪を掻き上げる、計算しているのか、
白いブラウスがやたらと短く、
綱信が腕を上げると白くきめ細かな肌と小さなエクボのような臍がチラリと見えるのだ。ビョルンアンドレセンそっくりな少年に、私の正直な脳は興奮し、つつーっと鼻血が出てしまった。
「何だや、禅蝶先生、疲れだのすかやぁ」
大谷一郎氏は後ろも振り向かず、後方の黒塗りの車の前に手で合図した。すると間髪入れず、
私と弁慶の周りにボディーガード達がティッシュケースを持ち俊敏に並ぶ。
その時、白バイのサイレンと共に、太夫黒と、高揚した笑顔の義経が、平泉駅のロータリーに戻って来た。
殿!と弁慶がダダッと走って傍に行くと、義経は、騎乗したまま、涙を目に溜めて、しばらく俯き悦びを噛み締めていた。
「長らくお待ちしておりました、
ようこそ平泉へ」
と急に大人びた言葉の抑揚で継信がゆうるりと駆け寄り、
「殿を楽しませたか?」
と興奮が続いている太夫黒の頬を優しく撫でた。
太谷一郎氏は義経を見て、
本物の義経さんだがすと!ばっばっ、あやや弁慶さんだよねぇ、ばばばっどうなってるんだべぇ?
と大層驚いたようだった。
その賑やかな会話を駅のロータリーの奥から眺めて、
「ようやく会えたな、この日を待っていたぞ、時空武者達よ」
と白バイから降りた1人の女性警官が腕を組んで、赤い唇を片側だけ皮肉を言いた気にニヤリと上げて嘲笑うように呟いていた。