ベルギーで24歳の「健康な」女性の安楽死が認められたという記事を見た。

「生きていれば生きる意味を見出せるかもしれないと考えられないだろうか」的なことが書かれている記事だった。

言いたいことはよくわかるけれども、しかし「かもしれない」と思えること自体、絶望した人間には不可能なことなのだ。

 

希望というのはそもそも、何か具体的な「いいこと」が起こる予感、確信のことを言うのではない。

漠然とした「かもしれない」そのものが、希望の核心にある。もっと言えば、人間を動かす根本的な力はこの「かもしれない」にある。

可能性、と言ってしまうと少し強い。ほんの些細な光が、差し込んでくる兆しが見えるかどうか、そういう変化を先取りする予感が、ぼくたちを生かしている。

 

兆しを察知できなくなるだけで、ぼくたちは簡単に絶望してしまう。希望と絶望はもともと同じもので、絶望の可能性は誰にとってもすぐそばにある。

「生きていればなにかあるかも」というのは正しい。けれども「生きていても何もない」も、ひとしく正しい。視角がほんのすこし違うだけだ。

もちろん何かのきっかけでそれは反転しうるのだけれども、そのきっかけへの感度がなくなっているのだから「なにかあるかも」などと思えるはずもない。

 

希望と絶望がある契機によっていつでも反転しうるものだとしたら、安楽死の適応範囲を拡大していった場合、人口は恐ろしく減ってしまうのだろうか。ぼくはあまり、そうは思わない。

もちろん数は増えるだろうけれども、死にたい人を踏みとどめているのは、自分の生きたい気持ちなどではなく、残される人の悲しみへの想像力だからだ。そのラインは、安楽死が制度化されても大きく上下することはないだろう。

 

穿った見方をすれば、死にたい人を残される人が自分たちが悲しみたくないから引きとどめているようにも見える。けれどもそれはそうじゃない。たぶんこれは大事なことなのだろうと思うのだけど、「死にたいのなら死なせてやるのが本人のため」という考え方は非常に危険だ。

「なにがあっても生きなければならない」も嫌だけれど、「本人の自由」といって合理化してしまうのは、おそらく間違っている。

ぼくらの命は、本質的にぼくらのものではない。だからといって、「思い通りにしちゃいけない」とか言うつもりはない。けれどもたぶん、あらゆる判断を宙吊りにしながら、ぼくらはぼくらのものではない自身の命について、相対しつづけること、そういう態度も、だいじなんじゃないかと思う。