ケネディ大統領暗殺事件 ~オズワルド編~ その2 | ウソのような曖昧な話。

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書いていきます。

都市伝説、陰謀説、UFO、UMA、宇宙人、
レプティリアン、フリーメイソン、イルミナティ、
など(笑)

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前回に引き続きまして、

オズワルドについてです音譜

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今回はオズワルドという
人物像について書きます。

リー・ハーヴィー・オズワルド (Lee Harvey Oswald)
1939年10月18日ニュ-オルリンズに生まれ。

出生当時既に父親は死亡しており、
母親のマルガリータ・クラベリーは、
彼を2人の兄弟(兄のロバート、
腹違いの兄、ジョン・ピック)と共に育てた。

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(左からロバート、リー、ジョン・ピック)

四歳でダラスに移りその後
ニューヨークで中学に入学し、
卒業前に家族と共に再び
ニューオリンズに戻り中学を終えた。

子供の頃のオズワルドは、
内向的で気性の激しい性格だった。
彼は14歳の時、兄のジョン・ピックが
沿岸警備隊に入隊し、
ニューヨークに一家で移動した際、
義理の妹(ピックの妹)をナイフで脅し、
その義理の母を顔を殴りつけた事もあった。

17歳になったオズワルドは、
海兵隊に入隊した。

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入隊後、彼は平均以上の知能指数を買われ
情報畑を歩んだ。日本の厚木基地に
配属になった時からレーダー部隊に配属され、
ロシア語の授業を受けさせられ始める、
いわゆる対ソ諜報部員としての教育である。

ところが彼は1959年9月突然ソ連に渡った、

そして到着早々、再びアメリカに
戻る意志のないことを表明、
市民権の放棄を文書で提出、
自分が、レーダー勤務で知り得た極秘情報を
ソ連に提供する用意があること、
最終目的はソ連への亡命であると宣言した。

この日から、8ヶ月後、1960年5月1日
U2スパイ飛行機がソ連領内で撃墜される
といった事件が発生する。その時撃墜された
飛行機のフランシス・パワーズは
その著書のなかでオズワルドにふれて、
撃墜とオズワルドの流したレーダーの
極秘情報とは、深いつながりがあると断言している。

ソビエト連邦崩壊後に一般の目に触れる事になった、
当時のKGBの文書によると、オズワルドが
ミンスクに滞在していた13ヶ月間の間、
KGBは彼を監視対象下に置き、
詳細な活動報告書を作成している。

オズワルドのKGBでのファイル番号は
31451、コードネームはレノイ、
ロシア語で、”口が達者な奴”の意味だった。

それらの報告書によると、当初は
米国のスパイと疑われていたが、
やがて彼が純粋な共産主義信仰者の
アメリカの若者である事が
明らかになっていった事が判明している。

しかし、ソビエト生活が長引くにつれ、
その官僚的な体制や退屈な生活、
モスクワ大学への入学失敗などの
不満が徐々にオズワルドに蓄積されていった。

1961年、オズワルドは
ダンスパーティで、後の妻となる
19歳のマリーナに出会い
1ヶ月もしないうちに結婚した。

ダウンオズワルドの妻、マリーナダウン

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1961年12月25日、オズワルドは
ソビエト政府に対して、
出国ビザの申請を行い、受理されている。

しかし、今度は米国政府が、
オズワルドと妻のマリーナの入国を渋った。
そのため、さらなる書類処理のため、
米国の入国許可を得るまでに
6ヶ月もの期間がかかった。

続く。


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