本格小説(上) 水村美苗  p572


“それなのにまたあの日が六さんの家の玄関のまえにだけ亡霊のように蘇りました”


冨美子の女中先の宇多川家には、敷地内に母屋の他に二軒の貸家があった。その一軒に六さんという宇多川家の車夫が住んでいる。六さんには満州から引き上げてきた三十代の甥がいる。甥は妻もいて子供も三人いるが、職が見つからない。今は下関にある妻の実家で暮らしているが、六さんの住んでいる東京に住むことができれば、仕事もみつかる。だから一緒に住まわせて欲しい。

甥のその要求を受け、甥一家が六さんの家にやってきた場面。


甥一家は、まるで乞食の集団のようだった。戦争が終わって十年以上たっている。戦後の凄まじい日々は実感として遠くなりつつあるのに、甥一家の風貌はまるで戦後の凄まじい日々のただ中にあるようだったということ。


“亡霊のように蘇りました”という表現が面白いと思ったので付箋を貼りました。