無視してるようで、そこには絶対的な無私が? | zeduoのブログ

無視してるようで、そこには絶対的な無私が?

存在するもの全てが自分で
宇宙すら自分だとするなら、
この自分はなんだろう?
この自分である必要なんて有るのか?と、
少し損得勘定で捉えてみたら、
なぜか悲しいような切ないような感情が湧いてきた。
それは「あらいぐまラスカル」の最終回の、
主人公とラスカルの最後の別れのシーンを見たときに
俺が受けた感情にそっくりだった。

主人公はラスカルを自然に帰すと
さよならを言ってその場から離れる。
愛しい対象であるラスカルを背にし、
その方向を一切振り向かず、
悲しみを堪えて泣きながらその場から全力で去る・・・・・・

俺はそのシーンの主人公を頭の中で自分に置き換えることによって
さっき湧いた感情を確認しようとした。

主人公になった俺は、
背にした愛しい対象をあっさり振り返って見てしまった。
その瞬間ラスカルのシーンは終わってしまった。
何故なら主人公は振り返らないし、
何より振り返った先にみたものが、
俺だったから・・・・・・

俺は自分を愛していたのか?
無私の愛を自分自身に向けていたのか??

初めての感覚だった。
客観的に自分を捉えたのではなく
離れようとして受けた感覚だった。
長年連れ添ってきた愛着だろうか?
いや、生まれたときからずっとそう思っていたのかもしれない。
これが確かなら、いつか俺が死にたいと思ったあれは、
この愛おしい存在に対して死ねと言っていたことになる。
只一人の一番の理解者に死ねと言われた。
俺が死にたいと思ったときに湧いてきた悲しみの感情の根源が
ここにあったのか?・・・・・・
ふと子を持つ親の感情が分かった気がして、
その感情が今までの自分を勝手に振り返った。
俺はこの子(自分)を甘やかした。
この子の本当の幸せが分かってなかった。
只可愛かった・・・・・・

そこにはモンスターペアレントよりも酷いエゴが見えた。
可愛くて仕方なくて甘やかして育てて、
その結果生きていくのが困難になり
死ぬことによってその苦しみから逃れようとした。
殺すことによってその苦しみから解放してやろうとした。
愚か・・・・・・
「殺さないで殺さないで」と泣いた。
もっと生きたいもっと笑いたいもっと喜びたいもっと・・・・・・

自分自身に「ごめんなさい」を言ったら、泣きそうになった。