日記 | zeduoのブログ

日記

俺は動物ものに弱い。
パトラッシュとかラスカルとか、まあそんなかんじの感動もの。

ちょっと前に、アメリカのニュースで、高速道路の真ん中で跳ねられた犬を(もう死んでいるように見えた)1匹の仲間の犬が行き交う車の中、勇敢にも救出に向かうという防犯カメラが偶然捕らえた映像が公開され、それが全米を感動の渦に巻き込んだ。
俺もそれには感動したわけだけど、俺の場合、これが犬じゃなくて人間だったら、ここまでの感動は無かった。
仮にこれを人間に置き換えてみると、救出したという良い結果には変わりはないけど、その過程において下心や野心といった類の、いわゆる人間の黒い部分をどうしても想像してしまうからだ。
この場合の人間と犬の決定的な違いは、嘘がつけるかつけないか。と言うところにある。
犬は嘘がつけないので、仲間を助けたいと思う気持ちがより純粋に近くなり、そこに共鳴できるものが生まれ、感動に繋がる。
人間は嘘がつけるので、仮に本人が純粋に助けたいと思っていたとしても、その嘘がつけるという前提からどうしても疑りの念が生じてしまい、それが濁りの原因になってしまう。

これは別に人間が汚い生き物だとかそういうことを言いたい訳ではなく、人間の可能性の広さから、見る人間しだいでは色んなものに変わっていくということがいいたい。
なので、その嘘がつけるという先入観を拭い去ることができれば、犬の時と同じように感動できる。
それは、その人間を良く知ること。つまり人間像を確立させる事。

袋に包んであるプレゼントを開封せずに中身を確認する時、袋を恐る恐る指で押さえて形をたどってみる。まず、だんだん大まかな形がわかってきて、押さえる強さの加減を知り、曲線をたどってみたりして、その個性を少しずつ掴んでいく。するとだんだん形が浮き彫りになってくるときがある。
人間像を知る時の感覚はこれに似ており、慎重に手探りをしているうちにだんだん見えてくるもので、これによってさっきの犬の例でしてみれば、この人ならあの状況で嘘は無いと確信の持てるものを探し出すことが出来れば、犬と同じ感動を生むことが出来る。
つまりその部分での信頼関係が大事な前提となるわけで、犬の場合は嘘がつけないとされていることから、その部分が省かれても違和感がないという事。