「簡単なテキストをやって、直ぐに終わったから私は別のテキストに取り組みたかったけど、先生が受け付けてくれない・・・」

 

 

 

と、だいぶ以前のことだけど、家で泣きながら自分に訴えてきた子供。

 

まあね、先生も忙しいから個別対応できないでしょ。

それに、クラス全体皆との歩調も合わせないとならないだろうし。

一人の我儘で、全体の足並みそろわなくなったら進捗管理もできなくなる。

 

ということなんだろうね。。。。。。

 

普段自宅で小学5,6年生のテキストに取り組んでるウチの子供は、幼稚園で取り組む5,6歳児用のテキストは面白くない、らしい。

むしろ、簡単すぎて取り組むのも苦痛・・・ということらしい(←言い過ぎ?苦笑)

まあ、そりゃそうだ。

5,6歳児用の市販のテキストは買いまくって、それらは3歳の時にほぼ終わらせている。

 

 

 

 

 

さて、

 

IQって単なる”そこだけ”の切り取りを数値化しただけだと思う。

 

だよね。

 

 

まあ、当たり前っちゃあ、当たり前すぎのことなんだけど、敢えて言いたい。

 

 

例えばウチの子供は高IQって数値が出て、たまたま物事に集中できることが得意で、そしてそれが先取りで勉強に結びついてるけど、それ以外は特に普通。

いや、苦手なこともあるし、万能なんかじゃない。

 

幼稚園で他の子供達を観察していると、それぞれ持ち味が違って、”こんなこともできるんだ!”とか、”え!すごいな”って驚かされることもしばしばあったりする。

 

 

もちろん、高IQで英才型であれば勉強もスポーツだって軽くやってのけちゃう子供もいるでしょう。それもその子の個性だものね。

 

 

色々な人がいるから社会が成り立っているわけで、皆同列じゃなく何かしらの凸凹の優劣があるのも当たり前だと思っている。

何も特徴がなくとも、それは偶々その子供の特性が顕著に表れることが無い環境や時代(?)なのかもしれないし、それにそれが大半当たり前だったりするわけでしょ。

皆が皆、とんでもなく個性的だったら疲れちゃう(笑)

 

 

ウチの子供、たまたまIQという数値化できる物差しがあって、今の時代にある勉強というものが本人の個性とマッチしただけのことで、じゃあすげえ天才!かというと、そうでもなくて、単なる努力型(笑)

それが少しだけ秀でて現れた個性の一つなのです。

例えば、走るのが速い!とか、今ならダンスが得意とか、そういう類と同じことです。

 

 

 

で、

 

 

 

走るの速い子は、自由時間で園庭で遊ぶ時とか、運動保育の時間とか、絵画が得意な子は図画工作時間とか、思いっきり自分の能力を出せる機会があるわけだが、

 

が、

 

勉強な得意な子は、何故か皆と歩調を合わせさせられるみたいな感じなのです。

 

 

でも、なぜ?

 

 

本人も、

 

”なぜ出来ることを毎回やらされるのか?”

 

と疑問を持っている。で、それを尋ねてきたら、

 

「うん、まあ、社会は一人の我儘で違う事は出来ない仕組みなんだよね」

 

としか答えようがない。

何なら、きっと今の年齢の幼児期に線を引くとか丸を描くとか脳と身体的な密接な動き云々で必要な訓練だから小学生のやる勉強だけじゃあ、ないんだよ・・・とかが理由の一つなんだろうけど。

 

 

いやいや、それなら家でも十分すぎるくらいに毎日やっていますって。

そりゃ、5歳児の身体能力で、頭では理解できていてもコンパス上手く使いこなせません。三角定規を組み合わせて使って平行線を描く、まあやり方を理解できていても思い通りに指動きません。

 

 

でも、身体能力に関するこれらって結局のところ、年齢と共に出来ることでしょ?

 

 

そもそもやっていないわけではないし。

ならね、なんでわざわざ分かり切っている指定された図形を描くとか、点と点を線で結びましょうとか、カゴの中には果物が幾つ入っているかな?数の分だけ丸を描きましょうとかをやらなければならないのか?

 

子供の”なんでやらなきゃならないの?、しかも直ぐに終わるのに待っていないとならないの?”と、疑問に思うのも理解できるし、それに対して子供を納得させられる回答もない。

 

 

うむ・・・・・・

 

 

幼稚園でこれだ。小学校に行ったら低学年のウチはどうする?

とりあえず、幼稚園の取り組むテキスト時間は、自宅で取り組んでるテキストを持参でやらせるとかはダメなんでしょうかね?

 

まあダメでしょうね、そんな特別は認めません!、皆と同じ様に取りくむことが大事なんです!って言うのが、日本の社会における一般的な解釈なんだよねえ。。。。。