唯物本位、即ち物質不滅論を美事に覆したのは、かのラジウムの変化過程が明瞭になるに及んで絶対的になったのである。ラジウムとは非常に高価な元素で未来永劫変化なきものと考えられていたのが、段々研究されるに従い年一年と光を放って散失し、およそ1800年の間には全然消滅してしまうと言うことが分かった。

 

そうしてラジウムからエマナチオンと言うガスが放散され、そのガスは3日間にAと言う元素に変化する。それは僅かに3分間でBCと言う元素に変わりBCは1時間の後にはDと称する元素となり、そのDは50年の後にEという元素と変わりEは1週間にしてFという元素と変化しFは100日後には只の鉛となってしまうと言う訳である。

 

このラジウムの変化を発見したのはキュリー夫人であるが段々研究が進むに連れラジウムは今日化学の世界で知られている一番軽い水素元素の1800分の1という様な電子と化して、光を放ちつつ変化して行くということが物理と化学との両方面から明瞭にされたのである。

 

 

しかし、このような牢獄的学究もまた進歩の一階段だと考えれば敢えて咎めるには足りないが、とにかく数百年来最近までの科学の発達は物質論に帰着し、天地の基調は物質であり、その物質は永遠不滅であるというのが科学の定説で、既に天地の根本が物質である以上、われわれ人間の生活もまた物質を土台として考えねばならないと言う。

 

 

すなわち天上天下唯物本位となり、政治も、経済も、教育も、社会の動きも、人間の歴史も、悉く唯物本位の解釈を以って進むべきものと言う考えから、いわゆるマルクスの唯物史観となり、これこそ宇宙の真理なりと思い込み、従って形而上方面のことを悉く迷信なりと罵倒して、却って自ら深き科学の迷信に陥っていることを覚らない時代が、随分長かったのであるが、しかもこの唯物本位の考え方が根本から違っていると言うことを、科学者自らが発見して大狼狽するに至ったのは、天なり命なりである。勿論科学界の達眼者はとくにこの点に目覚めていたものもある。

 

 

かの堀内理学博士もその一人であるが日本のエジソンと称される大発明家故島津源蔵氏やまた青年発明家として有名な故小原常人氏も「科学に捉われていては真の発明は成功しない、世界を驚かすような大発明を成し遂げたのは大抵学問のない人である。まったく発明は自然の法則を直感する精神力から生まれるものである。」と述べておられる。必ずしも学問が邪魔になるとか、科学はダメだとかいう訳ではないが、確かに一面の真理を道破した言葉と称して差支えない。

 

 

 

 

 

 

6/16~6/30

 

 ノホホンと過ごす

のも、浮かれて騒ぐの

も終わりにしないと凶。 

 

 現状からはみ出さ

ないように家庭や仕事

の基礎固めに集中して。 

 

 人の行動に気持ち

を乱されると失敗する。

マイペースで現状維持。 

 

 順調が得難い時。

もしヤケを起こせば、

孤立無縁の泥沼状態に。 

 

 まさかの災いに御

用心。されど危機は、

最大の好機と捉えて吉。 

 

 謙虚な姿勢を保て

ば、次第に追い風が吹

く。それまでの辛抱。 

 

 

 初め物足りなく思

っても後で喜びを得る。

先入観を取り払って吉。 

 

 試練の多い時。す

るべき事を淡々と行い

日常を守ることが得策。

 

 穏やかな幸せに心

が温まる。時運に従い

人に従い、日々淡々と。 

 

 仕事のミスは、気

付いた時点で上司に助

けを求めて即解消を。

 

 四面楚歌のさなか

でも、協力者を得られ

る時。誠実さを保って。 

 

 自分の欠点を正面

から見つめて改善する

努力を。何かが変わる。

 

 

 

元来、科学と霊学とは相反する両面の如く考えられ、宗教家や道学者はとかく、唯心論に偏して科学的事実を軽視し、これを見て幼稚浅薄なりと嘲り、科学者は霊学や宗教方面を目して非科学的迷信なりと侮り、遂に宗教はアヘンなりなどと皮肉り到底水火相容れざるものの如く考えられて来たことは、結局両者共に自己の無識無智を自ずから表白したようなもので、当庵が説いてきたところの「霊学と科学とは本来同一体のものであり、たまたま形而上、形而下と区別されるともその根本力は一であり、遠からずして両者相寄り相通じて、真の宇宙の実体を理解するに至るだろう」との主張は、幸いにして近時科学者の方面からこれを立証してくれる時代に至ったことを科学者に 向って感謝するものである。

         

 

元来、科学の使命は天地の本質を明らかにして、われらの行くべき道を正しく導くということにあって、単なる人間生活上における利用厚生とか、衣食悦楽とかを向上させるに過ぎないような低級な目的ではない筈である。彼の天動説を覆して地動説を唱え一生ローマ法王から睨まれ、牢獄にまで投じられながら、自説をまげなかったガリレオは昔の科学界の勇者である。

 

またジョルダノ・ブルノーは「科学の見地より天地の間は神の力が動いて止まない」と唱え、遂に火あぶりの刑に処せられたのを見ても、科学は単なる利用厚生の為のみではなく、宇宙の真理を究めて、我々の往くべき道を探求するのを至上の目的としなければならない筈である。それなのに現代の科学者は多くを語らなくとも昔の科学界の勇者の前に慙死しなければならないような低級な利用厚生欲のみに没頭し、形而上学を否定し、敵視し、嘲罵しつつ自己の形而下学のみに囚われて、広大無邊なる大宇宙を自ずから好んで狭く窮屈に、まるで牢獄的学究にあくせくしているのは甚だ気の毒なことだ。

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名を惜しむということは我とわが人格を尊び、不滅の霊魂を尊ぶ所以であるが、この名を惜しむということも悟道の高い視点から見れば、尚一塵の染着を免れぬという仏教家などもあろう。もちろん名を残すということは相対的、有限的の話である。永世不朽の真理より見れば姓名尊重思想は未だ究竟とは言い表せない。

 

 

仏教の如来は名に拘泥せぬ「忍終不悔」の悟りこそ真の悟道であるには相違ないが、大悟して未悟に帰る所に真実の人生あることを知り、人生あるを知りて宗教の悟道を考えるものは姓名尊重の思想を十分理解されるであろう。

 

古来名詮自称(めいせんじしょう)という言葉があるが、これは自分勝手にいい加減なことを名乗っている場合に用いられているけれども、それは間違いで「名詮自性と書くのを本当とし「名義即ち実体」ということが名詮自性である。

 

 

名義即ち実体ということは、神様の御名即神霊(おんなそくしんれい)というのと同じことで、姓名即ちゅ神なりという言葉はここから出てくる。天津・神(あまつちゅしん)という大神様は即ち御神霊と別々に考えることは出来ない。神様の御名即御神霊(みなそくごしんれい)の厳存し給うことを思わねばならない御神名、即ち神霊と考えて少しも差支えない。

 

 

ただ空虚な御神名を設けて、これを御神霊と言うことはできないと共に御神名の外に御神霊はないという意味ではない。御神霊は絶対のものとして存在するが御神名に宿り給うたとき、これを区別することは出来ないという迄である。そこで、人の身体が滅びる時も、霊魂は宇宙の太霊、天津・神(あまつちゅしん)に融合してしまうが、人間の個霊はその名に宿って宇宙太霊と脈絡交通しているという意味が成り立ってくるのである。

 

 

従って名を祀るところに個霊がある。その個霊なるものは宇宙の太霊に連絡している。すなわち名と神霊との融合不二の理ある所以で、従ってその神の御名(おんな)を我が胸中に持つ人は、神となれる個霊と感応道交している訳である。墓があればその個霊は墓にもある。そして太霊と脈絡する。その墓に縁ある人の胸中に記憶する名前とその個霊とは常に感応道交している。ただし個霊は肉に生きず名に生きているからである。

易に風水渙、と言う卦があります。易を学ばれた方は、良く知っておられる卦です。易はその時の霊感が働く場合、色々解釈が異なってきます。例えば「薄霜踏んで堅氷至る」これは色々に取れます。

 

1、日常他人と和を欠く、つまり相手に愛情の足らない時に起こる卦で、大なる争事が起こる前兆にも取れるし、

 

 

2、交通事故に遭う前兆とも取れる、また大損するとも取れるし、

また、その事に努力していると、その事についての天才と言われるとも解せる。

 

3、塵も積もれば山となる、そのままいけば金ができますとも取れるから、易者は殊に霊感が必要です。

およそ人間の脳髄に強く、深く、かつ継続的に印象するものであっても、それが決してその人の精神肉体に何等影響を与えるものではないという学理的説明は如何にしても成り立たない。即ち、美花の印象は快暢の情を催わせ、醜汚の印象は不快の念を与えて食物の不味さを誘発し、恐怖の印象は悪夢と苦呻とを起こさせる理は常に我々の体験するところである。五感を通じる外的の印象すら如上の事実ありとすれば、脳髄に直接して銘刻され寸秒もその本体と別離することなく、継続的に生涯を代表する程強烈なる印象、何物にも増して深刻なる銘記を保つ姓名の暗示誘導力が、各人々々の精神肉体に何等の影響をも及ぼさないという理由は想像さえ出来ない筈である。

 

 

今、この事実を人類文化史上に発見し得ることも、また極めて興味ある事柄である。そもそも「名」という文字は「夕」と「口」との合字を以って成立している。即ち大昔、未だ燈火の発達がない時代においては、普通の家々では、夜でも燭をつけず、従って夕方から夜にかけては、家の中が暗くなり、親子夫婦でも、誰彼の見分けがつかないところから、互いに名を呼びかわして存在を知り、安全を図ったのであって、「名」の文字がこの歴史的事実をよく説明している。

 

 

また「夕暮」のことを、「たそがれ」(黄昏)という古語があるが、即ち「たそかれ」は「誰れ彼れ」という質問の詞が転じて夕闇の時刻を指す名詞と成ったもので「誰れ彼れ」と呼ばれれば、そこに答えるべき名が、当然現れる道理である。およそ灯りの不充分な原始時代において、最も恐ろしいものは敵の夜襲であった。故に一族郎党は、互いに名を呼び合うことにより、安全を保ち得たもので、もし「誰か」と訊ねられて即座に名を以って答えず、ぐずぐずしていれば、直ちに白刃が舞うか、矢が飛んだに違いない。誠に「姓名は生命なり」との逼迫なる感じは、原始時代において、今日より一層絶対不二の意味が強かったかも知れないのである。

 

 

されば、いかなる雑閙騒音の轟々たる巷においても、自己の名を呼ばれれば、雑音を排して百雷の如く響き、如何に紛雑なる細字羅列の間にあっても、自己の姓名のみは、ゴシックの太文字を以って大書してある如く、簡単に見出し得ることも、これは何れも姓名の霊感という外はない。昏々として、人事不省に陥った場合でも、大きく我が名を呼ばれると、たちまち意識を回復し、命脈の将に絶えなんとする場合ですら妻子眷族等から名を絶叫され、思わず息を吹き返す等、姓名が如何に脳裡深く、強く刻印されているかを物語るものであり、自己と姓名とは密接不可分、あたかも分身分霊の如く、二にして一なる存在である。

 

しかも姓名は生命でも、人のように眠らず休まず、不眠不休で我を代表し、寝ている間に百万の富をも作れば、知らぬ間に、砂利に着いたる素寒貧ともしてしまう恐るべき働きを有する。そうして「人は一代名は末代」という諺もあるように我の死後にも尚未来永劫に亘って、美名をも、また醜名をも流し、あたかも生きる人の如く、否それ以上に広く大きく、後世子孫に感化、影響を与え、人類の生存する限り、天地と倶(とも)に悠久不滅の存在を保つ実に『姓名』ほど世に霊にして偉なるものは無いのである。

 

このように人間の運命を、後天的に或いは幸福に導き或いは不幸に陥らす姓名のいわゆる暗示誘導の霊力は一体何によって生じるのであるか。それは、言語、文字の極北は『数』であるという哲理観に出発し言語の『意と霊』とを文字の『数と理』に訳する。即ち音を形に表現したものが文字であり、その文字を要約したものが『数』となり、文字の解釈は人によって相違しても、これを数に訳して啓示すれば、ここに始めて、全人共通、天下普遍の数理、即ち真理となり、姓名は宇宙の数理即ち真理と混和具合し、運命は自ずから宇宙の大流と合流せざるを得ないことが確信されるのである。

 

数・・・・ただこれ数の理を基調として天地万物の象を観る。そこに自ずから『運命』に対する新理念が生じるのである。或いは数は万物の根元にして、如何なるものでも数の支配を免れることを得ず、日月星辰は素より、鳥獣虫魚のような地上の生物、さては目に見えない電気や、大空に充ち満ちている空気に到るまで、悉く皆数の定律に基いた元素の離合集散の結果たるに過ぎない。数を以って律することの出来ないのはただ一つ霊のみであるが、これすらある物体に伴って顕れた場合には、また数の支配を受けることとなる。それ故、人間の霊を宿すところの肉体も数を以って律すること可能にして、人の『運命』が数理の霊力に支配されることも自ずから判然たるのである。

 

 

6/01~6/15

 周囲の協力がとて

も重要。遊びも仕事も

グループの和を大切に。

 

 実力を考えないで

手を出すと、苦労ばか

り多くて実りは少ない。

 

 強気な行動に出て

も大丈夫。運を味方に

付けて良い結果を得る。

 

 迷った時や失敗し

た時には、まず深呼吸。

それからよく考えて。

 

 秘めたことがバレ

てしまうかも知れない。

軽々しい言動は控えて。

 

 意外な人からのプ

レゼントには注意。た

だより高いものはない。

 

 雑事に手間取り、

もどかしさにイライラ

しても本業を守って吉。

 

 思いつきはあかん。

事前の情報収集は勿論、

生活を立て直すように。

 

 雑音は無視。目標

を黙々と進めるに吉。

向上心を忘れないこと。

 

 前進を妨げるもの

や気力を奪うものは、

何もかも取り除いて。 

 

 のんびりムードに

慣れて不用意な言動を

しがち。盗難に注意。

 

 身心共に疲労困憊。

まずは体調を整え協力

者を見つける努力を。

身体髪膚の因って発生する所以は、人為に似て人為に非ず、ただこれ自然の摂理により、求めずして生じ、望まずして形成され、或いは求めて生まれず、望んで得られざる理由を悟り、同時にその肉体精神を有するものが、求めずして吉凶禍福を醸成し、望まずして変化転移を来たすことも、これまた自然の摂理であることを悟り得るのである。

かかる自然の摂理を総称して「運命」というのであり、本コラム各所において述べているが、この「運命」の二字が、世の人の心を激しく揺り動かすこともまた当然にして、地に生きるすべてのものが、或いは富み或いは飢え、或いは病患に泣き、或いは健康を讃え、更にまた盛んなるも、衰えるも、強きも弱きも、長寿も短命もその悉くが皆この「運命」の言葉の中に握られているのである。

 

 

しかしながら運命という言葉は、その文字の示す如く命を運ぶことを意味するのであり、仮にいかなる不幸に陥っても、その不幸を嘆き悲しむ前に、一刻も速やかに不幸な境涯を切り開くべく奮い闘い、不幸を幸福へと自分の命を運び換える道を探さねばならず、或いはまた、如何に幸福な日々を送っている者でも、絶えず慎み戒めて、思わぬ凶変に予め備え、自分の命を磐石の動かぬ確かさにまで運び上げておくことが肝要なのである。しかし多くの場合、言うべくして行い難く、不幸に陥った場合、その不幸を切り開く道を探す努力を拂う前に嘆きの海に悲しみ沈み、また現在幸福の中にある者は、日頃の備えを忘れ、思わぬ凶禍に見舞われてから、始めて自分の不覚を後悔するのが人情の常である。かかる不幸に泣く者を幸福へと導き、或いは幸福に酔える者を戒めて、永く平安を保たせるべき方針として運命学が存在し、またここにその使命も有するのである。

 

 

今翻って世に行われているいわゆる俗流占いなるものを見るに、その種類こそ多いが、或いは仏滅、大安等など六曜と称するもの、一白、二黒の九星や、さては〇〇占い、〇〇占い等、荒唐無稽にして、学理より推し一として信じるに足らぬ、迷信的なものが多く、また後述するが、私が唱える姓名5格剖象法以外には真理に則した剖象法が無いにも拘らず、これより一歩進んだものとして七格剖象、八格剖象、九格剖象とあたかも剖象格を多くすれば可なるが如く考え、姓名をコマ切れにして、これに勝手な如何にももっともらしい理屈を並び立てて世間を迷わす輩が続出し、その識見の低劣なるため、世を救い、人を救うだけの力が無いのみならず、甚だしい者になると、人の運命の指導は第二とし、先ず私利を満たすという目的の手段として、運命学を看板にする者も多く、遺憾と言う外はないのであるが、しかしながらあらゆる科学の精髄と哲学の真理の上に立脚した当庵の姓名学の真価は幸いにも毫も傷つけられることなく、全くの絶対的権威を以って万人に安心立命を齎す唯一の正しい運命学として、遠く海外にまで絶大な信頼と感謝とを得ていることも、大方の人が斯学の真価を認識されたことによるものと言えよう。

 

国家生活の下における平和な暮らし健康長寿、これが一番幸福である。自分一人、或は一家族が幸福であればよいといって近所近辺の交際もせず、「行事があるから交際して下さい」と言っても嫌な顔をしたりする。そういうのは本当の幸福ではない。やはり社会生活、国家生活を理解した上における平安な生活、これが一番好いのである。

総て環境と調和し、社会、人生と調和し自身の言葉、行いを調和して行くという事については、本質と姓名の調和を必要とし、姓名を通じて社会に存在し国家の一員として立って行く上においては萬姓萬名と社会生活、国家生活の調和が生まれてくる。社会生活の単位は個人にあり、家庭生活の基調は夫婦にあり、国家生活の単位は一家にある。

 

これが悉くの調和を司るものは各自の姓名である。故に、もし本質と姓名との不調和があれば、あたかも木に竹を接いだような不調和な結果を生むこととなる。熱帯地方の木を寒帯地方に移植しても、そこには成長も繁茂もない。スーツに下駄を穿いても変なものだ。あたかも人生は水槽の中における鮒の如し、その水が平穏ならまだしも実際の社会は水槽における水を引っ掻き廻したように急速な勢いで回っているから、総てのものと調和を図って、水の動くがままに動いて行けば円満に行く、逆らおうとすれば波立ってきて、ここに色々の不幸が生じたり過ちが起こってくるのである。

 

人間はグルグル廻っている水槽の中に浮かんでいるようなものである。水中に漂う塵埃(じんあい)の大小が偉人となり、凡人となるだけで、悟ってみれば泡沫夢幻であろうが、しかも水槽の急旋回は現実である。従って水槽を急旋回すれば当然水の中に中心の渦が出来る。皿も廻せば中心が出来ると前に述べたけれど、この中心を認めるところ、すなわち・心(ちゅしん)をハッキリと認識するところに人間の安定があり幸福がある。

 

健康も長寿もその中に生じてくると共に、一切の運命学も、あるいは姓名の誘導力も総てこの中心を認めるところに出発している。私が子供の頃によく爺さん、婆さんからアヤされた事がある。「上がり目下がり目、グルっと廻ってニャンコの目」 ニャンコの目とはグルグル廻った中心のところ、すなわちこの言葉は中心を掴めよという教えであったと今思い合わされるのである。どんな事も中心を掴まなければ一生涯うだつが上がらない。中心があって総てを発現し、総てのものはその中心に向かうというのが宇宙の法則である。

 

親が子を愛するのも、子が親に孝行を尽すのも皆、天津・神(あまつちゅしん)の御命意である。こういう事を達観していった場合に千万、億の富よりも宇宙の神霊に通うところの立派な組織の名前を持つことが何よりも幸福である。宇宙真理に則したところの名前は・神(ちゅしん)の御神慮と同様である。その神の御意を自分の心に戴いて神我一体の気持ちになった時が・心・体(ちゅしんちゅたい)である。・心・体(ちゅしんちゅたい)は心身の中心確立する不動の姿である。不動の姿に立つものは、どんな事をやるにも直ぐに事の中心はどこにあるかという事がわかってくる。

 

万事万物の中心が明瞭となれば、世の中の事は単純に楽々と処理して行くことが出来る。どんなにコンガラがっている世相と言えども自分の心で、何処に中心根本があるかという事を考え、百本の釘を外れて打つよりも、一本の釘を急所へ打つような中心を掴めば錯綜したものも自然の力で解けて行く。人の運命を判断し、人を指導するものは先ず以ってそういうあらゆる事に中心点を掴むという事が大切である。中心を掴んだら、どうしたらそれが移動するか、解決するかを考える。ここに開運指導の大切なところがある。