先哲の言葉に「為すべき事を為さず、為すべからざる事を為せり」というのがあるが、これは強い反省の言葉である。自分は過去においてどんな行為をしたかということを反省した場合、大抵の人は神様に向って恥じることがあると思う。

天地万有の実相を正しく見て、神様の御意に順応し、人生の理想に向って躊躇なく精進することが何より肝要であるが、

 

太田錦城という人の言葉に「人臨終に当り一日半日の命を延ばす能はず、この一身自由なるべきものなし、天に任せ、命に任せずんばある可らず」人間の最後は遂にここに到達する。人間には自由はない、絶対の不自由を達観するところに絶対の自由がある。焦ることなく人事を尽して天命に順うのみであると考えた時に初めて安心が出来る。

 

信仰即ち生活というこの達観した恍惚境を以って「白雲流水に任ずる」自然の心を現実界に生かして勇往邁進するというのが正しき人の勤めである。グリーンという人は「満足する心は王冠なり、王国なり」といった。人は出世してみたい、多くの者を支配してみたいと思う。しかしその立場になった時は、決して幸福ではない。そのような心持は、安心立命の境において初めて味わい得るところのものである。

 

再言する迄もなく宗教とは大宇宙の真理を信仰する教えである。それ故、我々は信仰を真理の上に立たしめたい。「我々の自覚と時代的聡明理の上に立脚して真に安心立命し得る大道であるところの絶対的真理を示せ!」それが我々の叫びだ。

 

世には無神論を唱え、宗教否定論、宗教無用論、運命否定論等をなすものがあるが、それらの説論は無知無識の稚言か、一顧の価値もなき論外阿蒙の愚論であることを知らねばならない。一体宗教とは宇宙の真理を信仰する教えであるから、宇宙の真理に二つとない以上、本来的には世界にただの一宗教でよい訳である。

 

しかし前にも述べたように国異なり、歴史異なり、民族異なる世界に色々の宗教を有することは否めない事実であるが、日本の如き一民族の一島国に同じ祖師の仏教が、百何十派に分かれているのは一考を要することであり、祖師の真意もおのずから支離滅裂に乱れ去る憂いあり、

 

 

七百年前時の傑僧日蓮上人が同じ流れの各宗を罵倒し、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊など最大級の罵言を残された如きはその当時に於いてはそれ相当の理由のあったことであろうが、今日大所高所より見れば一片の疑問なしとしないのである。

 

また唯神の道という日本独特の神道は一本でよい筈であるのに、これまた数十派に分かれているのはどういう訳であろうか。勿論人間の濫造した教派原理は必ずしも真理のみと言えず利害もあろう私情もあろう、しかし利害や感情で真理の教えを閑却したものは、少なくとも宗教とは言えないのである。過去の宗教中には時代意識に遠ざかり或いは現代科学と背馳するものもあり、新興宗教の中にも科学と相容れない幼稚なもの、或いは不純なものもある。それらは真の宗教としての価値なきものであって真の宗教は形而上下に亘り科学、哲学の一切を包摂するだけの力がなくてはならない。この点において科学者も真の宗教を理解して敢てこれを嘲らず、寧ろみずから思索して科学の堂奥は神に接続して宗教と渾融するものであることを達観するだけの雅量を必要とする。

 

 

即ち真理の闡明‐それが現代の宗教に課せられた至高の使命であらねばならない。淫祠邪教は愚夫愚婦に任せておけばよい。苟くも自覚と識見と科学的眼光のある現代人を指導するには、一切の方便や政策を排して真っ直ぐに宗教の頂点へ、最高峰に人を導入するもので無くてはならない。

 

 

一面的真理とは何か、それは宗教なら宗教にだけしか通用しない真理である。全面的真理とは宗教にも、科学にも、道徳にも、政治経済その他あらゆるものに通用する真理である。この真理を道と謂い宇宙、天地、万有、人生を貫いて、たった一つしかない絶対的なものである。人はこの亡びぬものに冥合しなければ安心立命は出来ない。永遠の生命に融合して永遠の生命につながなければ、人生の意義は無価値である

 

★そして真の宗教とは!

 

何人も無関心でいられない、即ちすべての人に入信の門が開かれていること。

入信すれば必ず心身共に救済される真実の道を示教するものなること。

その救済道は学問知識の裏付けを必要とすること。

その学問知識には当然根底ある哲理がなくてはならぬこと。以上の4条件が揃って始めて宗教と言い得るのであってこの4条件の備わらざるものは不完全な教えであり、淫祠邪教と言われても弁解の辞がないのである。

信仰は理論でなく必ずしも合理的主張を必要とするものではない。俗に鰯の頭も信心からと言うが鰯の頭、猿の頭を神、仏と考えて信仰はできない。恐らく誰にでも鰯の頭と思ったら信仰心が起こらぬことと思う。  

 

また、もし鰯の頭ということを知りながら尚かつ信仰できる人ならば鰯の頭の必要もないことになる。おおよそ物事の理屈は何処までも理屈を生んで行くこととなり、結局理屈が理屈を破ることになるが、世の人は案外無知識で信じて正しいことか正しくないことかも考えないで妄信、迷信に陥っているものが多い。

 

そういう風に低級なものに迷う人は、どっちかというと自己本位、利己思想の人に多いのである。例えば神、仏に縋って得をしようとか、欲張ったことをしようという人に多い。こういう人はとかく騙されやすい。

 

殊に新興宗教と称されるもの、類似宗教などはろくに教義なども持たず神懸りだの狂人じみた教祖より興って段々大きくなったものもあるが教理らしい教理もなく後から色んな理屈を付け加えて世人を惑わしているというような状態である。

 

4/1~4/15

 

 華やかさを装った
謀略が接近中。表面で
判断すると失敗に終る。 

 善行や努力は報わ
れるが、隠してきた悪
事は露見することに。

 逸る心を自制し計
画の見直しを。改革に
乗り出すには時期早々。 

 成功者は、機を捉
える能力に優れている
もの。果報は寝て待て。 

 人との和合を心が
け、思う存分活躍して
自信と信用が育つ時。 
 
 労を惜しまない。
今まで築いた信頼関係
が今後を支えてくれる。 

 

 

 これまでの過ちを
改めて。そして、人の
話に耳を傾けるように。 
 
 目上からの引き立
てを受けるが、そのた
めに妬まれることあり。
 
 謙虚であれば、進
んで必要な後押しをし
てくれる人物も現れる。

 天空に、雷が鳴り
響き、どえらげなぁ運
気の嵐が吹き荒れる。

 物事の真意をとら
えれば安全。自分の利
益だけを考えないで。 

 明るい話題中心で
運気安定。猜疑心から
言葉の裏を探らないで。

 

私が常に・人(ちゅじん)であれ、・心(ちゅしん)を得よというのは、・心(ちゅしん)は無限の宇宙に繋がっているが故に人と人との・心は相互に連絡し相互の人から国家更に世界人類に連絡して行く。如何なる財産家、権力家、偉人傑士といえども独りこの世に暮らし、独りこの世に立って行けるものではない。どんなものでも相より相まつのが当然である。

 

金持ちが俺は人の世話にはならない、自分は自分だけで自由勝手にやれるんだと思ったら大間違いで、朝夕食べる一椀の飯、一本の大根、一尾の魚を求めるにも社会に交渉がある。如何なることも親の恩、社会隣人の恩、国家の恩、世界の恩に浴せずして生活をなし得るものはない。

 

 

これを考えざるものは、どんな地位の高い人でも真の偉い人ということは出来ないのである。こういうことを考えたならば自分一人の自分であると独断してわがままをすることは許されない筈である。ソクラテスの言葉に「汝自らを知れ」というのがある。勿論これは個人的の自己反省の言葉であるが、我々がこの言葉を解釈する時は自己の社会なり国家なりにおける立場を考えて見ろという意味にもなる。

 

故に「汝自らを知れ」の次に「我一人の我に非ざることを悟れ」と付け加えたらハッキリ分かる。わがまま勝手をするということは統一体系たる神様の御心に反するということを知ったならば、逃避的行為この世の中を逃げ去ろうということの不可であるのは言うを待たない。

 

 

独善主義、独り善ければよいということも神意に反するのは当然である。自己満足の超然主義も国家社会には有害である。「鹿を追う者は山を見ず」という例えがあるが、蓄財家であるとか拝金家などは金銭の欲に酔い、宗教家は宗教に酔ってしまう。教義の中毒を起す。全く無批判に陥ってしまう。これは酒飲みの酔っ払い以上に弊害がある。宗教は人生のための宗教である。運命学もまた人生のための運命学でなくてはならない。生活のないところに宗教の必要も無ければ運命学の必要もない。

 

 

宗教や運命学を生活と別々に考えるのは愚の骨頂であるが、さすがに運命学を生活と別々とは考えるものはないけれども、「日常生活これ宗教」という観念に徹底した人は少ない。宗教生活をするということは決して別な生活に入るということではなく、宗教生活を意識するものは何も日常生活を根本から変える必要は全くない、生活即ち宗教でなければならないのである。

この世には、我こそ悟りを開いたものとして脱俗を衒(てら)うものもあるが、脱俗を衒うということは益々俗に入っているものと考えることができる。俗事に終始して俗を離れ得る人、これが本当の脱俗の人である。日常の仕事を為しつつ俗を離れ得る人、これが真の脱俗の人である。

 

 

身自ら神仏に奉仕しつつ尚かつ俗情を離れ得ないものは常人よりも遥かに劣れる俗臭者と見ることができる。だからといって脱俗という言葉をはき違え、実際生活とかけ離れたり、遠ざかることを俗念厭離(ぞくねんおんり)と考えるのは大間違いである。

 

 

生きた教え、明朗な教え、積極勇奮(せっきょくゆうふん)の教え、実際生活そのものが当庵の教えとなる。一体神の道はそういう風に現実教であるから深みが乏しいという事を言う人があるが、当庵は過去の因を無視せず、未来の果を否まず三世を肯定している。

 

 

悠久の生命を認め、霊魂の不滅を確認するのみならず、死を以って死となさぬ哲学的の徹底さを説いている。現世は決して仮の世ではない。過去より繋がって来て、未来に繋がって行く所の真実の神の世界の一過程である。この現世を真実の世界と確認肯定する所に積極的な光明が輝くのである。

 

いわゆる世渡り宗教、営利教団というものが近来非常に多い。しかしこれは今日ばかりでなく、昔にも多くそういうことがあって、慧心僧都(えしんそうず)の母などは、後の世を渡す橋ぞと思いしに、世渡る僧となるぞ悲しきと詠んで慧心僧都(えしんそうず)を戒められた歌などもある。

 

また政治上その他、色々のことから政略的に人を信仰に誘った時代もあった。七福神というと福を授けて下さる神様として何処でもこれを祭るが、これは徳川家康が国を治める手段方便から出ていることを知ったならば七福神信仰の欲深連(よくふかれん)も少しは興ざめとなるだろう。

 

徳川家康が豊臣家を滅して天下を取った。そしてお気に入りの懐刀ともいうべき天海僧正にどうしたら人心をうまく率いて行くことができるかと尋ねたら天海僧正が仁王経護国品にある、「七難即滅、七福即生」というお経の文句から考え出した。それが七福神の起源である。

 

七福とは1、寿命を延ばす、2、裕福になる、3、人望を得る、4、清廉潔白で、5、愛嬌がある、6、威光がある、7、度量があるという風に七つの特色を挙げたものである。ところがこの神様の名前が先ず寿老人(じゅろうじん)、これは中国宋(そう)の元祐中の人で南極に輝く老人星を寿命の星様として信仰するところから出たもの。大黒天は大国主命。福禄寿は中国の宋の嘉祐中(かゆうちゅう)の道士というが実は大酒飲みの坊主。

 

 

恵比寿様は少名彦命(すくなひこのみこと)、弁財天は金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の智慧具足(ちえぐそく)の神。毘沙門天(びしゃもんてん)は仏法四天王(ぶっぽうしてんのう)の多聞天(たもんてん)。布袋和尚は中国の梁(りょう)の頃の長汀子(ちょうていし)、それを採ったもの。

 

この七福神は日本の神様が二人、インドの神様が二人、中国の神様が三人、これを取り合わせたもので、別にこの神様を信仰して福が授かるということはないけれども、「これを拝むと仕合せになるぞ」と家康公がこう言い出したので今日までエライ繁昌である。七福神を拝まなければ一生貧乏に暮らさなければならないという位にまで考えられている。これなどは淫祀邪教(いんしじゃきょう)を奨励したという一つの証拠である。

 

世の中の人は信仰という言葉を誤解したり、迷信視している者が多いのは非常な間違いで、それは信仰の意義を知らないからである。これより少し信仰という問題について述べることにする。信仰といえば直ちに宗教を連想し、しかも真の宗教の意義を知らず、迷信的宗教を宗教だと思って「自分は宗教を信じない、俺は無宗教だ」と自慢するような人が出て来るのである。

 

無信仰というのも間違いであれば、無宗教ということも非常な間違いである。何故かと言うと、信仰とは宇宙間唯一至上の霊元を認識し、その霊元と我が心霊との感応道交により生活上に光輝あらしめることであって、本来宗教ということは、根本の教え、最も大いなる道の教えという意味であって、言葉を換えて言えば、天地の大法に基く教えというのが宗教である。

 

人間は言うまでもなく天地を離れて寸分の生存もない。生まれるも死ぬも唯天地自然のままである。その天地自然のままの人間にも個性があり意欲があり迷いがあり、悩みがあるからこの人間に天地の大道を教えて開悟せしめ、安心立命せしめるという宗教の必要なことは言うまでもないことである。

 

「宗教とは虐げられたる階級の嘆息だ」こういう言葉があるが、それは淫祠邪教というような迷信に対する言葉である。虐げられた階級の嘆息だということは、困ったら神頼みに行くというのが誤解されたものである。虐げられた階級にしても、恵まれた階級にしても、生を天地の間に託しているところの人間、天地間に生息する者は、天地の道における悟りなくして安立は出来ない。

 

ならば宗教や信仰の有る無しに拘わらず、どんな人間も天地の範囲を脱することは出来ず、天地の法則を離れることは不可能であって、自分勝手に「俺は無宗教だ無信仰だ」と言っているのは、ただ当人に自覚がないだけのことで、自覚がないから私には宗教は無用だ、信仰は嫌いだと言っているだけのことである。

 

健康な人は自分に心臓のあることも、肺のあることもあまり気にしてはいない。それで俺は心臓も肺も要らないということと同じで無識者の言うことである。要するに信仰ということは超人間の宇宙絶対の真理を直感的に敬仰するということである。真理とは神のことである。神を求める心は赤児が母を求める心と同じだ。知る知らぬに限らず人間は宇宙真理の間に抱擁されている。その宇宙絶対の真理を神格として人に教えて行くのが宗教である。

 

科学というのは人間の知覚にあるところの形而下の理を知ることであるが、この科学に対して哲学というものは形而上の道を究める学問である。その科学や哲学の究境したところの理を直信し、理信し、敬仰するというのが信仰である。

 

 

平らな丘の水平に均した地面に2メートル程の棒を立てます。この棒を中心とて、適宜の距離に円を描きます。やがて太陽が昇り始めると太陽の反対側つまり西側に棒の影が生じます。影は最初は長く尾を引いておりますが太陽がドンドン昇っていくと影は段々と短くなっていき、その影はある一定の時間が経つと円周上のある一点と交差する瞬間がやってきます。その時、交差点に点を付けます。この点が・(ちゅ)であります。・(ちゅ)は地球上に初めて記された宇宙の発現点であって、太陽の恵み、当庵では『天津・ちゅ神』として崇め奉祭しております。さらに太陽が中天高く昇るにつれて影は短くなっていき、一番短い時が正午となります。午後、影は短くなり、先に印した・(ちゅ)の反対側の円周上に影が接触した瞬間に印をつけます。そしてこの二点を連絡した直線を引くと正に一の字が誕生したことになります。一と一を足して二、三つ足して三、四つ足して四が出来ました。一は東西、十は東西南北を表しており、一の上下を貫く縦線は子午線を示しているのです。

 

 

人間の生活において一番有害なものは消極的の表徴である恐怖の念である。日々の生活に恐怖心が起こるようであれば、これはちと問題だ。恐怖心とは心配であり、疑惑であり、内気であり、不活発であり、臆病であり、優柔不断であり、意気消沈である。ショボーンえーん

 

これを総括すれば「精神的ドラキュラ」であって、このような恐怖心ないし、すべての消極的情緒は大業を成すのに何よりも有害であり、有用なる努力を麻痺させてしまうものであり、絶好のチャンスを取り逃がすものであり、巧妙に案出された計画を阻害するものであり、この恐怖心を持つ者は世に出ることは到底不可能である。チューえー

 

恐怖心は正に人類に付きまとう妖怪であって、幾万という人間の尊き生命を破滅に導きつつあるものである。心配・・・が一度人間の心に巣を作ると、消極的の要素が心を占領し、精神的に悲観懊悩、肉体的に病弱短命となって、遂に人間界の落伍者とならざるを得ない。ムキーゲッソリ

 

人間の精力の大部分を消耗しながら何もすることなく一生を終わることは悲惨である。この心配・・・その大部分は実際に起こり得るものだろうか、易では物窮まれば必ず通ずと教えるように、天は我々に堪え難き苦痛を与えるものではなく、どんな大事件であっても、必ず一方に逃げ道があるのであって、物事はそれらの人が想像し恐怖する程に重大なものではない。びっくりマークむかつき

 

1日の苦労は1日を以って足れとするのに、明日のこと、明後日のこと、その先々と苦労に苦労を積み重ねては到底堪えられるものではない。神は人々に間断なく精力を供給して、日々襲い来るところの各種の問題と闘い、これを征服し得るように備えてあるのに、愚かな人は実際に起こっては来ない想像より生み出した架空の心配のために恐怖心を助長し、尊き精力を浪費して精神的破産をしてしまう人が多く存在することは本当に嘆かわしいことである。 完了