9/16~9/30

 

子 区切りをつけてペ

ースの調整を。朗らか

 な気持ちを取り戻して。

 

丑 正論も通らず思い

通りにならない時。柔

軟に穏やかに対処して。 

 

寅 運気上昇中。不安

要素に目を向けず、ス

ピーディーな対応を。

 

 卯 言うべき事を言い、

するべき事をして実力

を周囲に証明する時。

 

 辰 精力的に動いて吉。

されど、息切れのしな

 い範囲で頑張ればよし。

 

巳 今、行動を起こさ

なければ、誰かがその

 幸運を手にすることに。 

 

 

午 まずは疲れた心と

体を癒やして、それか

 ら次のことを考えよう。

 

未 今は大胆な行動を

せず、自分のためにす

 べき仕事に専念努力を。

 

申 一時の感情でない

 ことを真剣に伝えれば、

 相手の心は次第に動く。

 

酉 わけもなく、人を

疑ったりせず、むしろ

 信頼して任せた方が吉。

 

戌 自信はなくとも、

毅然とした態度で臨め 

ば自然と道が開ける。 

 

亥 機が熟すのを楽し

みに待つほどの余裕が

 あればきっと好転する。

 

私たちの周りの人たち、例えば親族や友人たちを見ると、その人たちが有している思想や考え方、また性格や気質には相当の違いがありますが、これは過去の幾多の前生で体験してきた経験の違いに原因しています。私たち人間は、たび重なる再生によって今生に生まれ出ているわけですが、今生に出生する際の地位・環境・境遇は前生・前々生およびそれ以前の生から持ち越してきた心の思い(想念)によって決定されます。つまり私たちは、持ち越してきた心の思い(想念)に相応する環境や境遇を、意識してまたは無意識のうちに選んで生まれてきます。四柱推命に例えると星と人の性格・気質とには対応関係がありますが、星が人の性格や気質を決めるのではなく、人の性格や気質がその星の下に誕生する時日を決めるのです。したがって持ち越してきた想念に改良を加えることなくそのまま発露させている人々については星や生年月日時などを手がかりにして今生における一生を大体知ることができます。これが占いが当たる理由です。

 

 

しかし持ち越してきた想念に積極的な改良を加える人々については出生の際に方向づけられていた運勢が大きく変更されるため、占いが当たらなくなります。持ち越してきた想念を「業」と言いかえるならば、業の流れるままに生きている人については占いが当たり、業を修正しつつ生きている人については占いが当たらないということになります。このことから言えば、占いで悪い卦が出たからといって悲しむことはありません。なぜなら、自分の努力によって運勢を展開するところの想念のうちの悪い部分をなくせば、その部分に相当する悪い結果が出てこなくなるか、出てきても相当に縮小されて出てくるということになります。逆に占いで良い卦が出たからといっても喜んでばかりはいられません。なぜなら悪い思いを出し続ければ、その分だけ悪い結果が増えることになるからです。したがって九星気学やその他の占いに一喜一憂することはないのです。なぜならどのような運勢であろうとも、常に善をなし悪を排斥してさえいれば、好転していくことは間違いありません。

 

 

そもそも私たちが物質世界に下りてきて、そこでの体験を迫られるということは、私たちの魂がまだ未熟で未発達であるということを示しています。もし魂が発達の極みに達したならば、もはや物質世界への下生は不必要となります。したがって物質世界へ下りているということは、魂が完全に発達しきっておらず、物質界での体験学習によってさらに引き出すべき、あるいは匡正すべきものが残っていることを意味しています。このことはどの星の下に生まれた人も長所と短所の両方を有していて、全部が長所だけという人が見当たらないことからも明らかです。

 

 

人々はそれぞれの星の下にそれぞれの特性に応じ発達していくようになっています。そしてそれを促進させるものは善を行い悪を排斥することなのです。以上でおわかりのとおり自分の運勢を決するのもやはり自分の想念なのです。運命を変えるのは難しいなどと思っているからその思いのとおり難しい状況が出てくるのです。運命なんて自分の意思で思いどおりに変えることができるというような積極的な考えをいつも持っていて下さい。

 

 

09/01~09/15

 

子 マイペースで現状

維持。喜びも増え、充

      実感を味わえる時期。 !!

 

丑 人の世話に明け暮

れるが、刺々しい態度

           で対応してはいけない。しょんぼり

 

寅 水鳥が美しい羽を

   はばたかせて飛び立つ。

      結婚、恋愛は特に吉。 ラブラブ

 

卯 成功と失敗が紙一

重。新規な行動は、時

             機の見極めが特に重要。 しょんぼり

 

辰 実力さえあれば余

裕で発展。されど怠け

          心には気いつけなはれ。ぼけー

 

巳 姑息な裏工作や小

賢しい取り繕いは墓穴

             を掘る。自然体が一番。 驚き

 

 

午 我慢!峠を越えれ

ば万事一段落。口は災

            いの元。軽口はアカン。 えー?

 

未 優しさ、素直さ、

従順さを大切にして、

             受け身に徹すれば大吉。 ウインク

 

申 努力のわりに低迷

していた成績は上昇。

        順調だったことは下降。アップ 

 

酉 警戒心が強いと味

方も敵に見える。損を

  しないように見極めて。叫び 

 

戌 今は一段でも階段

  を上るのが先決。さぁ、 

    陽の目を見る日も近い。ゲラゲラ

 

亥 ポジティブな助言

にだけ耳を傾ければ、

   凶も吉に転ずるはず。笑い泣き

 

 

地球以外の星や次元から来た魂を持つ人々をスターシードと呼び、特定の使命を持って地球に生まれてきたとされています。スターシードは遺伝ではありません。したがって家族全員「地球魂」の人で、自分一人だけが「宇宙魂」を持つスターシードである可能性は十分にあります。そのような環境で育ったために、家族にも理解されず、社会や学校からも浮いた存在となって、心に傷を負った人達が多数います。あなたは「地球魂」を持った人?「宇宙魂」を持った人?鑑定してみませんか。

 

この鑑定を行うと、スターシードか否か、またあなたの魂の総転生回数が判明します。そして、自分がスターシードであることがわかったら、次に地球で幸せに暮らしていくための方法を知ることができます。

 

※鑑定に必要なもの、上半身の写真、生年月日と姓名

 

鑑定料お一人様1万円

 

 

魂が進化し、一旦人間段階に至った以降は、人間は人間として再生し、下段階の動物に生まれ変わることはないが、ごく稀な例外として、人間としての意識を持ったまま動物の肉体につながれ、その動物の肉体を通して物質界で生活させられることがある。これは、人間としての尊厳を忘れ、あまりにも動物的な本能と欲望の赴くままに生きてきた人に課せられるものであり、短い目で見れば一種の罰のように見えるが、長い目で見れば、これも進化の一過程であると言える。

 

というのは、このことによって人間として生まれ変わることのありがたさが分かり、この次は人間としての自由を得たい、そのためには人間らしい生き方をしなければならないと決意するからである。原始仏教の中には、場合によっては人間が畜生(動物)として生まれ変わるという考えがあるが、そのように単純に動物へ生まれ変わるということはない。しかし、上に述べたようなことは、極めて稀ではあるが、ないことはない。

そうなると、彼は、人間としての意識を持ち、人間としての能力を持っているのに、その動物の肉体を支配することも、その動物の肉体を通して人間の有する自由性を表現することもできなくなる。彼ができることと言えば、その動物の範囲内のことだけであり、またその動物の受ける苦痛はすべて感じさせられる。このことは人間である彼にとっては大変な苦しみである。

例えば、犬につながれたとしよう。彼には人間としての意識も能力もあるが、それを表す、または発揮する媒体がない。彼は周囲の人たちが話していることは全部分るが、それに対する意思表示はできない。必死の思いで自分の意思を伝えようとしても、口から出てくるのはワンワンとかウーとかいう言葉だけである。そして自由は極端に狭められ、与えられた食べ物を食べることと一日に一回散歩に連れて行ってもらえ

ることくらいしかない。

彼は、正に話すことを禁じられた刑務所に入れられたようなものである。一時的とはいえ、正常な進化の流れから外され、人間としての自覚はありながら、このような境遇に落ちた彼の苦悩は察するにあまりあるものがある。しかしそれは実は彼の過ちを正すカルマの働きによるものであり、それによって彼は遅ればせながら正常な進化の流れの中に戻ることができるのである。

 

人間は肉体(A体)、B体、C体、D体を有し、物質界(この世)B界、C界、D界に同時に存在しているのであるが、通常の人々はこのことが分らず、人間には肉体しかなく、また世界は物質界(この世)しかないと思っている。どうしてそのような認識になるのかというと、それは意識の中心が肉体と物質界(この世)にあるとともに、他の体、他の界層に対する意識が眠っている(発達していない)からである。通常の人々、つまりまだ発達途上にある人々は、意識が十分に発達していないために一番外側の体と界層しか認識することができない。このために肉体及び肉体脳を真の自分と思い込み、かつ物質界だけが唯一の世界であると思うのである。ところが死んで肉体がなくなり物質界を去ると、今度はB体、B界層が一番外側の体、界層となるため、B体、B界層に意識の中心が移らざるをえなくなる。そうなると、いやおうなくB界層を認識せざるをえなくなり、ここで初めて物質界(この世)以外の世界が存在することを知るのである。

 

魂が発達している人は、意識が発達し拡大しているので、物質界にあっても他の界層の存在を認識できるし、また肉体以外にも媒体があることを知ることができる。魂が発達していくと、意識の中心が上層に上がっていくとともに、媒体も発達していく。媒体の発達はB体、C体、D体の順に進む。そして魂が十分に発達したとき、われわれは、真の自分が実は極めて高貴な存在であったこと、そしてその本拠地は高位の界層であること、肉体・B体・C体・D体は単なる媒体(乗り物)にすぎないこと、物質界・B界・C界が下層界であることなどを如実に知ることになる。魂の本拠地はD界層であるが、進化の初期の段階ではD界層の精妙な波動を感じることができないために、D界層が実在し、かつそこが本拠地であることを意識することができない。進化の初期の段階にある魂が意識できる界層は、鈍重で粗雑な波動が渦巻く物質界(この世)しかない。そこで魂は生きていることを明確に意識しうる唯一の場所である物質界に下りてくるのである。

 

その段階の魂にとってはそこ(物質界)が一番落ち着く場所なのである。しかし魂は必ず発達するように創られているので、発達が進むにつれて本拠地であるD界層の存在が明瞭になってくる。魂の発達は徐々にではあるが着実に進む。したがって最初は物質界の鈍重で粗雑な波動にしか感応しないが、次にはより精妙なB界層の波動に、さらに発達するとさらにより精妙なC界層の波動に感応するようになり、意識の中心が段々と上がっていく。そしてついに意識の中心がD界層にまで上がった時、われわれは真の自分を発見する。そしてこのとき以降、再生(生まれ変わり)は止む。

 

 

われわれは、全知全能で、愛・善そのものである神から創り出された神の分身であり神の子である。したがってわれわれの中には神の能力及び性質のすべてが詰まっている。ただ、神はこれらの能力と性質を潜在させたまま、われわれを外に出した。それはわれわれ自らの力によってそれらの能力と性質を開花させるためであった。そのために神はわれわれに自由意志を与えた。われわれはこの自由意志と自由行為力を駆使して自らの力によって潜在している神の能力と神性を開顕していくように創られているのである。われわれは、無知なる事物や事象にぶつかることによってそれらに対する知を獲得していく。

 

 

また、われわれは無知から生じた悪や自由意志の誤用から生じた悪を体験することによって、何が善であるか何が愛であるかを知っていく。さらにわれわれは意思を強化することによって創造力を強めていく。そして、われわれが長い長い修行により、すべてを知り、すべての能力を開発し、愛・善の本質を知り尽くし、かつすべてのことにつき愛・善しかなしえないようになった時、修行の旅は終了し、生まれ故郷の懐かしい神の家へ戻るのである。神は立派に成長して戻ってきたわれわれを見て大いに喜ぶとともに、われわれに神の仕事の後継者たるに相応しい力と資格があることを認め、宇宙のある範囲の創造と進化をわれわれに委ねるのである。そして神はさらに無限に創造を続けていくのである。

 

 

霊界では親和の法則が強く作用するので、同じ思想や考え方を有する者たちが寄り集まって一つのグループを形成し、その中で生活するようになっている。物質界では、一つのグループの中に様々な性格の人達がいるが、霊界ではこのようなことはありえない。したがってわれわれが死ぬと、自己の精神傾向と同じ精神傾向を有するグループの中に入っていくことになる。地上で夫婦、親子、友人の関係にあったとしても、精神傾向や魂の発達程度が違っていると、霊界では一緒に暮らすことができない。

 

 

そして悪い精神傾向を有している人は悪いグループの中に入らざるをえない。悪い精神傾向を持つ人々がいるところの環境はその人々の心持ちに応じた悪いものとなっているから全体的に陰湿で暗くまともな神経の持ち主であれば一刻も早く抜け出たくなるようなところである。ところがそこにいる人々はあまりまともな神経の持ち主ではなく、またそこの環境が自分の心持ちに合っているので、そんなに不快には感じないのである。それがまた地獄の恐ろしいところでもある。なぜなら、常に不快に感じるようになっていれば、一刻も早くそこから抜けだそうという気になるが、不快に感じないとすればそのような劣悪な環境から逃げ出ようという気持ちがなかなか起きないために、相当の長時間にわたって魂(善性)の発達が停滞することになるからである。地獄には、高位の界層住人すなわち高級霊(魂の発達者)が頻繁に訪れている。その目的は、地獄の住民を正常な進化の流れに戻すことである。ところが地獄の住人は、自分のいるところがそんなに悪いところであるとは思っていないために、高級霊が、ここはまともなところではないよ本当に素晴らしい世界は別のところにあるよと説く一方で、地獄のボスがそんな奴の言うことは嘘だ、ココの方が天国だと主張する場面に出会うと悲しいことに、高級霊の方を変わった奴だとか地獄に引きずり込もうとする悪い奴だと思ってしまうのである。

 

 

しかし、少数ではあるがある者は高級霊の話に頷きついて行こうとする。するとボスらは自分たちが自由に支配でき、またいつでもいじめたり苦しめたりする邪喜を満たすことができる仲間が減るのを嫌がるのと、自分たちが味わえない幸福に近づくのを嫉妬する心からその者が高級霊に従うのを邪魔しようとする。またボスの配下にある平の仲間たちも仲間が一人減るためにその分だけボスから受ける圧力や苦痛が増えるのを嫌がるのと上と同じ嫉妬の心から、やっきになって妨害する。そのためその気が失せてそこに残ると言い出す者も出てくる。しかし高級霊としては、「はいそうですか」と言う訳にはいかず、さらに説得を試みるが地獄霊といえども自由意志は尊重されるのでどうしても行かないと言う者を無理矢理に連れて行くことはできず説得により自発的に行く決意を固めた者しか連れて行けないことになっているのである。

 

 

地獄に長年住んでいると、どうもここは何かおかしいところではないか、いつまでもこういうことをしていていいのだろうかという気持ちが生じてくる。というのは、人間は元々善性そのものであるので、長年にわたって善性にそぐわない生活を続けていると必ず違和感が生じてくるからである。そのような時に高級霊が訪れてくると、その話を信じ、つき従おうという気になる。また高級霊が来なくても、違和感が段々大きくなってくると、そのグループの精神傾向と違ってくるので、それが一定値に達した時、自然にそのグループから離れることになる。そのような人は、他の仲間から見ると、いつのまにかいなくなったように見える。どこに行ったのかというと、変化した精神傾向と同じ精神傾向を有する人々がいるところへ行ったのである。

 

 

このように霊界のどこに住むかは、心の持ち方一つで決まる。したがって善い心や性格を持てば善いところで生活できるし、悪い心や性格を持てば悪いところで生活しなければならない。悪いところ、つまり地獄は結構広く、また下の上から下の下まであるが、そこに住んでいる人々に共通する性格は自己中心性である。自分中心の精神傾向にもピンからキリまであり、最悪のものは残虐性(平気で他人にひどい苦痛を与える)、下の上のものは無関心(他人の苦しみを見ても知らん顔をする)である。このような地獄に住みたくないと思う人は、自分の心の中から自己中心的な考えをなくすことである。自己中心的な考ええは自分と他人とが別々のものであるという全く間違った意識から生じてくる。地獄という苦しい病院に入らないためには、常に自分と他人とは一体であるという普遍の正しい意識を持ち続けることが必要である。

 

 

 

 

霊界では、地上よりはるかに多くの人々が生活している。そしてそれぞれがみな、完成へ向けて進化しているのであるが、進化の程度は実にさまざまである。この人々を進化の程度によって大まかに区分すれば、低級霊(未発達部分の方が多い人)、中級霊(未発達部分と発達部分が同じくらいの人)、高級霊(発達部分の方が多い人)となる。

 

魂の高低を分ける指標は、愛の大小であるから、愛つまり自他一体の意識が少ない人が低級、多い人が高級ということになる。自分のことしか考えないような人は、低級霊の中でも最低の部類に属し、自分のことなど、ほとんど考えないで他人に尽すような人は、高級霊の仲でも最高の部類に属する。

 

 

最高の部類に属する高級霊は、われわれ凡人よりはるかに神に近い人であるので、我々から見るとまるで神のように見える。そこでこの高級霊こそが神であると言い出す人が出てくるが、高級霊はあくまでも神から発せられた人霊であって神そのものではない。本当に神と呼ばれるお方は、お一方しかおられないが、神のように見える高級霊は相当数おられる。

 

世界には数多くの宗教があり、それぞれがそれぞれの神を設定し、信奉しているが、その神のほとんどは高級霊である。高級霊は神の代理者とでも言うべき人であるが、神そのものではなく、多種類ある神の属性のうちどれかの属性を特徴的に有している発達した人霊である。

 

したがって高級霊の思想や考え方は一様ではなく、それぞれが特性を有している。しかしその特性はどれもが神の性質に属する優れたものであり、かつその違いは、単に高級霊の資質や好み、使命や役割の違いから生じるものであるから、特性の間に優劣の差や本質的な差は全くない。

 

ところが普通の人々は、このようなことが分らないために、うちの宗教の方が正しいとか偉いとか、あの宗教の教えは間違っているとか邪教だとか言って互いに無益な争いをするのである。この宗教でなければ救われないという宗教はない。宗教は、唯一の本源の神から派遣されたそれぞれの特有を有する高級霊の教えであるから、それぞれが良いのである。

 

一般の人々が神と崇めている高級霊は全く争わないのに、それを信奉している人々が争うのはどうみてもおかしいことである。大体において、ある宗教が存在するということは、その宗教の教えを必要とする人々、つまり魂のより良き発達のためにはその宗教の教えが最も適している人々がいるということであるから、あの宗教はよくないなどと言うことはできないのである。自分にとっては自分の信奉する宗教が、その人たちにとってはその人たちの信奉する宗教がそれぞれに良いのである。

 

なお、これはほんの一部であろうが、宗教の中には、高級霊ではなく低級霊を神と崇めている宗教もある。これは人々の中に悪をばらまくものであるから、これが本当の邪教と呼ばれるものであり、近づかないようにしなければならない。ある宗教が邪教であるか否かを見分けるには、その教えが自他を別のものと教えているか、自他を同じものと教えているかによればよい。個人的な低級な欲望をかき立てるような教え、自己中心的な考えを植えつける教え、他人と比較して優劣を競わせる教えなどは、まぎれもない邪教である。

 

 

正しい宗教とは、自他を同等一体と観る教え、過度の物質的肉体的欲望を持つことを戒める教え、自分のことよりもまず他人のことを考えることを勧める教えなどを基本に据える宗教である。

 

 

人間はいずれは誰でもゴールに到達するのだが、進化過程においては各人の力のいかんによって差が出てくる。また人間は必ず進歩する者なので、進化過程で一旦開顕した資質が埋もれることはないし、一旦獲得した特質が失われることもない。したがってある者が長い期間にわたって努力して開発した資質や特質は、その後失われることなく、その後の再生(生まれ変わり)の際に持ち越されることになる。

 

これが生まれつきの能力に差がある理由である。「継続は力なり」という言葉があるように、才能のある人々は、過去の何回もの人生(生まれ変わり)において必死の努力をしてその能力を開発してきた人々なのです。一般の人々はこのことが判らないために、才能ある人を見て、単に運がいい人だとか恵まれた人だとしか思わないのだが、実は才能あ人々は、その段階に至るまで長期にわたって本当に涙ぐましい努力をしてきた。正に「継続は力なり」である。

 

 

わたしが受けた相談の中の一例だが、「私は絵が好きで芸術家になろうとし必死に努力しました。しかし残念ながら美術の才能がありません。そのことを人生の大半を過ぎたところで気づきました。私の人生は失敗だったのでしょうか」と嘆いておられた。わたしは彼女に伝えた、決して失敗ではないと。というのは今生中に成功という結果が出なかったとしても、この方は着実に美術の才能を身につけたと言えるからだ。

 

この方が失望することなく、これからも努力を続けていったならば、必ず次生(生まれ変わり)または次々生(生まれ変わり)において花開くことだろう。人間の魂は神から発出せられた後、完成に向かって徐々に進化していくのであるが、その進化の程度は各人の努力の程度に相応する。したがって同時期にスタートしたとしても、進化度には差がつく。また異なった時機にスタートしたとしても先発の者が怠けていれば、努力する後発の者に抜かれてしまうこともある。

 

 

また、今生で初めて成功した人というのは、もう少しのところで花開く段階に至っていたと言えましょう。しかしその段階に至るまでは、まことに涙ぐましい努力があったであろう。ある天才は、ある過去世において相当の努力をしたが、その才能はその人生では花開かなかった。しかし彼はくじけることなく、次の人生(生まれ変わり)でもその次の人生(生まれ変わり)でも努力を怠らなかった。

 

その結果その才能は強化され、そして遂に現人生で見事に花開いたのだ。この例から得られる教訓は「努力は決して無駄にならない」ということである。仮にある人があることに努力したがその人生において成功しなかったとしても、その人はその努力に相当する分だけ才能を切り開いたのだから、その後の人生(生まれ変わり)においても努力を続けるならば、その才能は必ず満開に至るだろう。