およそ人間の脳髄に強く、深く、かつ継続的に印象するものであっても、それが決してその人の精神肉体に何等影響を与えるものではないという学理的説明は如何にしても成り立たない。即ち、美花の印象は快暢の情を催わせ、醜汚の印象は不快の念を与えて食物の不味さを誘発し、恐怖の印象は悪夢と苦呻とを起こさせる理は常に我々の体験するところである。五感を通じる外的の印象すら如上の事実ありとすれば、脳髄に直接して銘刻され寸秒もその本体と別離することなく、継続的に生涯を代表する程強烈なる印象、何物にも増して深刻なる銘記を保つ姓名の暗示誘導力が、各人々々の精神肉体に何等の影響をも及ぼさないという理由は想像さえ出来ない筈である。

今、この事実を人類文化史上に発見し得ることも、また極めて興味ある事柄である。そもそも「名」という文字は「夕」と「口」との合字を以って成立している。即ち大昔、未だ燈火の発達がない時代においては、普通の家々では、夜でも燭をつけず、従って夕方から夜にかけては、家の中が暗くなり、親子夫婦でも、誰彼の見分けがつかないところから、互いに名を呼びかわして存在を知り、安全を図ったのであって、「名」の文字がこの歴史的事実をよく説明している。

また「夕暮」のことを、「たそがれ」(黄昏)という古語があるが、即ち「たそかれ」は「誰れ彼れ」という質問の詞が転じて夕闇の時刻を指す名詞と成ったもので「誰れ彼れ」と呼ばれれば、そこに答えるべき名が、当然現れる道理である。およそ灯りの不充分な原始時代において、最も恐ろしいものは敵の夜襲であった。故に一族郎党は、互いに名を呼び合うことにより、安全を保ち得たもので、もし「誰か」と訊ねられて即座に名を以って答えず、ぐずぐずしていれば、直ちに白刃が舞うか、矢が飛んだに違いない。誠に「姓名は生命なり」との逼迫なる感じは、原始時代において、今日より一層絶対不二の意味が強かったかも知れないのである。

されば、いかなる雑閙騒音の轟々たる巷においても、自己の名を呼ばれれば、雑音を排して百雷の如く響き、如何に紛雑なる細字羅列の間にあっても、自己の姓名のみは、ゴシックの太文字を以って大書してある如く、簡単に見出し得ることも、これは何れも姓名の霊感という外はない。昏々として、人事不省に陥った場合でも、大きく我が名を呼ばれると、たちまち意識を回復し、命脈の将に絶えなんとする場合ですら妻子眷族等から名を絶叫され、思わず息を吹き返す等、姓名が如何に脳裡深く、強く刻印されているかを物語るものであり、自己と姓名とは密接不可分、あたかも分身分霊の如く、二にして一なる存在である。
しかも姓名は生命でも、人のように眠らず休まず、不眠不休で我を代表し、寝ている間に百万の富をも作れば、知らぬ間に、砂利に着いたる素寒貧ともしてしまう恐るべき働きを有する。そうして「人は一代名は末代」という諺もあるように我の死後にも尚未来永劫に亘って、美名をも、また醜名をも流し、あたかも生きる人の如く、否それ以上に広く大きく、後世子孫に感化、影響を与え、人類の生存する限り、天地と倶(とも)に悠久不滅の存在を保つ実に『姓名』ほど世に霊にして偉なるものは無いのである。
このように人間の運命を、後天的に或いは幸福に導き或いは不幸に陥らす姓名のいわゆる暗示誘導の霊力は一体何によって生じるのであるか。それは、言語、文字の極北は『数』であるという哲理観に出発し言語の『意と霊』とを文字の『数と理』に訳する。即ち音を形に表現したものが文字であり、その文字を要約したものが『数』となり、文字の解釈は人によって相違しても、これを数に訳して啓示すれば、ここに始めて、全人共通、天下普遍の数理、即ち真理となり、姓名は宇宙の数理即ち真理と混和具合し、運命は自ずから宇宙の大流と合流せざるを得ないことが確信されるのである。
数・・・・ただこれ数の理を基調として天地万物の象を観る。そこに自ずから『運命』に対する新理念が生じるのである。或いは数は万物の根元にして、如何なるものでも数の支配を免れることを得ず、日月星辰は素より、鳥獣虫魚のような地上の生物、さては目に見えない電気や、大空に充ち満ちている空気に到るまで、悉く皆数の定律に基いた元素の離合集散の結果たるに過ぎない。数を以って律することの出来ないのはただ一つ霊のみであるが、これすらある物体に伴って顕れた場合には、また数の支配を受けることとなる。それ故、人間の霊を宿すところの肉体も数を以って律すること可能にして、人の『運命』が数理の霊力に支配されることも自ずから判然たるのである。
