科学は、心(精神)は肉体脳の生化学作用によって生じ、肉体脳の消滅によって消失すると主張する。したがって心が肉体と別個に存在することを認めない。心は肉体の従属物
であって、常に肉体とともに終始すると言う。この考え方からすれば、自分と他人の肉体は別個のものなので、自分の心と他人の心も別個のものであり、互いに関連し合うことはないということになる。しかし他人の心が苦しんだり悲しんだりしているのを見ると、自分の心も苦しくなったり悲しくなったりすることがあるが、科学ではこれをどう説明するのだろうか。というのは他人の心と自分の心が別のもので互いに関連し合うものでないとすれば、他人の心が痛んでも自分の心まで痛む理由は全くないと言うことになる。

このことは自分が他人の心を傷つけた場合も同様である。
なぜなら、自分の行為によって他人の心が傷ついたとしても、自分の心と他人の心が別個のものであるなら、自分の心まで痛む必要性はないからだ。しかし他人の心が痛んでいるのを見ると自分の心が痛むことがあるのは厳然とした事実である。 この点についてのスピリチュアリズムの見解は、人間はすべて神と呼ばれる第一者から創造された精神的実在であるとする。そして心はこの精神的実在(人間)の活動によって生じるものであるとする。各人間すなわち各精神的実在はすべて唯一の根源者たる神から生み出されたもので、元は一つであり、したがって精神的実在(人間)の発する心も根源では一体となっているとする。

この考え方からすれば、自分の心と他人の心は元々は一つのものから発せられたものなので根源ではつながっている、だから他人の心が痛むことによって自分の心が痛むのだということになる。冒頭で述べたように科学は、心(精神)は肉体脳の生化学作用によって生じ、肉体脳の消滅によって消失すると主張するが、しかしこのような考えを有する者も身内の者や親しい友人が死ぬと供養をする。これは無益な行動ではないのか。なぜなら、死者は死んだ時点で心を失っており、供養されていることを感じることができないのだから、わざわざ出費をして供養することは全く無駄なことだと思われるからだ。ある人は、供養は死者ではなく残された遺族の気持ちを慰めるためのものであると言う。

しかし、これでは何百年も前に亡くなり、慰める遺族がいない、またはどこにいるかわからない人をも供養する場合を説明できない。またある人は、供養は死者のためではなく自分を含めた関係者自身つまり生者のために行うのであると言う。しかし供養するということを素直に解釈すれば、死者の冥福(死後の幸福)を祈ることなのだから、死者の存在を抜きにした供養はありえない。供養は単に生者の自己満足のためにあるのではない。私たちが死者を供養するのは、私たちの心の奥底に、人間は肉体がなくなっても心(精神)は存続していてどこかで生きているという考えがあるからなのである。このような考えがあるからこそ、死者の幸福な生活を願って供養するという行為が出てくるのでしょう。

ではなぜ私たちは、そのような考えを有しているのだろうか。それは、実は、私たちが死んでも生きてきたことを実際に体験してきたからなのです。私たちは肉体が消滅しても精神的存在として霊界で生き続けることを何度も経験してきた。その経験の記憶が漠然とした形ではありますが潜在意識の中に残っており、それが「人間は死んでも生きている。ただ肉体という上着を脱いだだけで、個性や性格も変わらず習性も特徴も性癖もそっくりそのま残っている。だから死んでも無にはならない」という考えを押し出してくるのだ。このように供養は生きている死者の死後の幸福を願うものなのだが、もちろんこの供養は死者に届き、死者は大いに感謝する。そして死者の感謝の念も生者に届くが、残念なことに死者の世界と生きている人の世界とは波長及び振動数が違う。

波長、振動数が違いすぎると、お互いにコミュニケートできない。例えばラジオ波はテレビではキャッチできないし、テレビ波はラジオではキャッチできないが、これは双方の波長、振動数が違うからである。しかしラジオ波もテレビ波も厳然として存在している。仮にラジオ波しか感じとることができない人がいたとした場合、その人はテレビ波なんかは存在しないと考えると思うが、それは存在しないのではなく、存在するけれども感受する能力がないだけだということになる。要するに生者は鈍重な物質界にあり、感度の悪い感覚器官しか働かせていないために死者の感謝の念を感じ取ることができないのである。
