われわれは、物事及びその関係について考える時、通常は理性的に考えているが、時々突如として理性的な考えとは別個の、その由来を説明し難い考えや思いが浮かぶことがある。これをインスピレーションまたは直感という。

 

インスピレーションの中には、善悪判断の対象とならないものもある。これは霊界の諸領域において研究活動をしている中・高級霊から発せられるものであり、発明家や事業家が得る、発明上の、または事業上のヒントやアイディアはほとんどがこの部類のインスピレーションの助けを借りている。

 

また音楽家その他の芸術家が作品を作る際や科学者が原理や法則を発見する際にもこの部類のインスピレーションが大いに役立っている。したがってこのインスピレーションを捕らえることができれば、豊かな物質界生活を送ることができ、非常に有意義であるが、誰でも捕らえられるわけではない。

 

 

何故なら、霊界人がいくら優秀な思想や考えを発しても、物質界人の方にこれらを受け入れる下地がなければこれらのインスピレーションは素通りしてしまうだけだからである。したがってこれらのインスピレーションを受けたいと思うならば、各人の各分野において最大限の努力を続けることによって霊界人からの良き示唆を受け止めることができる下地を作っておく必要がある。

 

何の努力もしていない木に、インスピレーションという幸運の鳥が止ることはない。霊界人は、日々有用なインスピレーションをわれわれに送り続けている。この霊界人の良き協力を無駄にしないためには、努力を続けることはもちろんであるが、それとともに、インスピレーションを感じた時に直ちに書き留めておくことができるようなメモと筆記具を常に携帯しておくことも必要であろう。

 

 

2/1~2/15

 発想の転換を図っ
て。いつもと同じ調子
では視野を狭めるだけ。

 類焼に遭うことが
あるので注意が必要。
願いごと多くは調う。 

 安易に妥協せず、
貫き通すがよい。信ず
る道を固く守って吉。 
 
 人の上に立つ時が
きた。協力者も現れ、
正に前途有望な暗示。 
 
 次の段階に向けて
の準備に取りかかる時。
まずは、心を穏やかに。
 
 何事も焦らず周到
に準備を。転職は急が
ず今はスキルアップを。

 

 柔和を旨としてい
れば、後に人の助力を
得、難渋を打開できる。 
 
 時運に際会して、
志望の通達する時。婚
姻吉、移転吉、旅行吉。
 
 恋愛も交渉事も、
巧みな駆け引きが必要。
直球より変化球が良い。

 当たって砕けろの
心構えで行け。そうす
れば才能を発揮できる。 

 暫くは、進むもな
らず退くもならずとい
った窮地に苦しみそう。

 人を敬し、自分も
また敬される意がある。
婚姻無事。出産平安。

 

人間は肉体(A体)、B体、C体、D体を有し、物質界(この世)B界、C界、D界に同時に存在しているのであるが、通常の人々はこのことが分らず、人間には肉体しかなく、また世界は物質界(この世)しかないと思っている。どうしてそのような認識になるのかというと、それは意識の中心が肉体と物質界(この世)にあるとともに、他の体、他の界層に対する意識が眠っている(発達していない)からである。

 

 

通常の人々、つまりまだ発達途上にある人々は、意識が十分に発達していないために一番外側の体と界層しか認識することができない。このために肉体及び肉体脳を真の自分と思い込み、かつ物質界だけが唯一の世界であると思うのである。

 

 

ところが死んで肉体がなくなり物質界を去ると、今度はB体、B界層が一番外側の体、界層となるため、B体、B界層に意識の中心が移らざるをえなくなる。そうなると、いやおうなくB界層を認識せざるをえなくなり、ここで初めて物質界(この世)以外の世界が存在することを知るのである。

 

 

魂が発達している人は、意識が発達し拡大しているので、物質界にあっても他の界層の存在を認識できるし、また肉体以外にも媒体があることを知ることができる。魂が発達していくと、意識の中心が上層に上がっていくとともに、媒体も発達していく。媒体の発達はB体、C体、D体の順に進む。

 

 

そして魂が十分に発達したとき、われわれは、真の自分が実は極めて高貴な存在であったこと、そしてその本拠地は高位の界層であること、肉体・B体・C体・D体は単なる媒体(乗り物)にすぎないこと、物質界・B界・C界が下層界であることなどを如実に知ることになる。

 

 

魂の本拠地はD界層であるが、進化の初期の段階ではD界層の精妙な波動を感じることができないために、D界層が実在し、かつそこが本拠地であることを意識することができない。進化の初期の段階にある魂が意識できる界層は、鈍重で粗雑な波動が渦巻く物質界(この世)しかない。

 

 

そこで魂は生きていることを明確に意識しうる唯一の場所である物質界に下りてくるのである。その段階の魂にとってはそこ(物質界)が一番落ち着く場所なのである。しかし魂は必ず発達するように創られているので、発達が進むにつれて本拠地であるD界層の存在が明瞭になってくる。

 

 

魂の発達は徐々にではあるが着実に進む。したがって最初は

物質界の鈍重で粗雑な波動にしか感応しないが、次にはより精妙なB界層の波動に、さらに発達するとさらにより精妙なC界層の波動に感応するようになり、意識の中心が段々と上がっていく。そしてついに意識の中心がD界層にまで上がった時、われわれは真の自分を発見する。そしてこのとき以降、再生(生まれ変わり)は止む。

 

物質界(この世)へ入るのは魂の飛躍的な進化のためであるが、物質界(この世)では善悪を明確に判断することが困難になっているので悪に走りやすい。このため、物質界(この世)に入る者には、背後からその者を善に導く助言や助力をなす霊界人が付き添うことになっている。このような霊界人を守護霊と言う。守護霊は物質界人一人に一人ずつ付いている。そして誕生の時から死ぬ時まで常に守護しているが、守護される者が死んで霊界に戻った後も付き添うことが多い。守護霊の魂の進歩度は、守護される者のそれよりも高い。なぜなら、そうでなければ指導者として相応しくないからである。

 

ただ、守護される者の進歩度よりはるかに高い進歩度を有する霊はその者の守護霊にはならない。これは、ようやく物心がつき始めたばかりの子供の家庭教師に偉大な哲学博士などを選ばないのと同様である。守護霊の使命は守護される者を善導することであるから、守護される者が悪い思いを持ったり、悪い行いをすると、どうにかしてこれを止めさせようと必死になって努力するが、強制力までは行使しない。というのは、強制力の行使は守護される者の自由意志を阻害することになり許されないからである。

 

魂の発達は強制によってではなく自由意志によって達成されなければならない。われわれが自由な意思によって、何を思っても何を行っても、そのやること為すことのすべてが善なる行いとなり愛のある行いとなることが真の発達といわれるものなのである。守護霊は涙ぐましい努力にもかかわらず、被守護者が悪に負けた時は、悲しい思いで見つめるが、それでも守護霊はさらに努力を続ける。逆に被守護者が悪に打ち勝った時は、それこそ飛び上がって喜ぶ。この喜びは、生徒指導で成功を収めた先生のようなものである。

 

被守護者の勝利は守護霊の勝利でもある。人を善に導く仕事は、実にやりがいのある仕事であるとともに、成功すれば指導者自身にも進歩をもたらすことになる。このような理由から、守護霊はこの苦労多い仕事を選ぶのである。われわれもいずれは、今度は他の者を守護し進歩させる仕事に就くことになろう。守護霊はわれわれを善導する善霊であるが、われわれの回りには、われわれを悪の道に引き込もうとする悪霊(低級霊)もいる。悪霊がそうするのは、自分たちの仲間を増やしたいという気持ちと自分たちが味わえない幸福に近づくのを嫉妬する気持ちからである。

 

 

ただ、悪霊もわれわれの自由意志を押さえつけることができないので、われわれの耳元で囁くことによって悪念を出させようとする。したがってわれわれの回りでは善霊からのささやきと悪霊からの囁きが交錯することになる。このどれに従うかは、われわれの自由意志に任されている。われわれが悪霊からの囁きに従って悪事をなしたとしても、第一の責任者はその悪霊ではなく、自分である。なぜなら自由意志によって悪の方を選択したからである。

 

この時、善霊は悲しみ、その者を憐れに思うが、いずれは善に向かってくることを知っているので、その日を早めようとさらに努力を傾けるのである。このように守護霊はわれわれにとってまことに有難い人なのである。したがってわれわれとしては常に感謝の気持ちを抱かなければならない。ただ守護霊は、われわれが感謝しなければ守護しないというようなケチな考えは持っていないので、感謝するしないに関わらず、守り助けてくれるが、被守護者としてはこのようにいつも暖かく見守り善導してくれている人に対して感謝の念を向けるのは当然のことである。

 

守護霊は、未熟なわれわれを進歩させるために霊界から送られた個人教授をする先生である。この先生のお陰でわれわれの進歩は早まってゆく。そしてわれわれが自分ひとりで歩いて行けるほど進歩した時、守護霊の存在は必要がなくなり、今度は独り立ちしたわれわれが未熟な魂を善導する先生となるのである。

われわれの回りには、守護霊や悪霊のほかに指導霊と呼ばれる霊界人もいる。指導霊とは、われわれの職業、趣味、特技などを指導している霊界人である。指導霊は生前被指導者と同じ職業や趣味を持っていた人が多く、国籍は無関係である。例えば、小説家には小説家だった人が、音楽家には音楽家だった人が、スポーツの得意な人にはスポーツの得意だった人がという具合にである。

 

ただこの指導霊は、守護霊と異なり、ずっと付いているわけではなく、離れてしまうこともある。これは、被指導者が増長したり傲慢になったりしてその道の精進を怠ったときなどに起きる。素晴らしい作品を作っていた人が、ある時期からどうということもない駄作しかできなくなることがあるが、これは指導霊が愛想をつかして去ったからである。

 

これと反対に、それほどの能力のない人でも、必死に努力し精進を続けていると、指導霊が付き、その能力が飛躍的に伸びることになる。今までに何でもなかった人が、ある時から突然にすばらしい活躍をするようになることがあるが、これは指導霊がその人の努力に感心し、手助けをするからである。したがってすばらしい仕事や作品を残したい、あるいは続けたいと思うならば、常に努力し続けていくことが必要であるということになる。

 

死は、真の人間である魂が有している多数の表現媒体の中の一番粗雑な媒体(これが肉体)を脱ぎ捨てるだけのことであり、性格や思想、感情や欲望はそのまま霊界に持ち越される。したがって物質や肉体に関する欲望を強く持ったまま死んだ人は、物質的肉体的欲求はある(むしろ強くなる)のにこれを満たす肉体がないために、非常な欲求不満に陥り大いに苦しむこととなる。そこでこのような人達の中から、肉体を有している人の中に部分的に入りこんで取り憑き、その人の肉体を通じて自己の有する物質的肉体的欲望を満足させようとする者が出てくる。これが憑依という現象である。取り憑いている者を憑依霊、取り憑かれている者を憑依霊者という。憑依現象が起きると、取り憑かれた者の肉体を憑依霊と憑依霊者の二人が共有することになるから、肉眼に見える憑依霊者だけを見ていると、この者は二重人格的または性格分裂的な様相を呈しているように見える。また取り憑かれた者からすれば、自分の肉体でありながら自分の肉体ではないような感じがするとともに、知らないうちに自分の意思に反した不可解な言動や行動を採ることもある。さらに、回りには誰もいないのに、ささやきを聞くというようなこともある。

 

しかし、憑依霊の意思によって行われた行為であっても我々現界人から見れば、取り憑かれた人の行為としか見えないので、その責任は常に取り憑かれた人のみが負担することになるのである。このように、悪い性格や悪い心的傾向を有する霊に憑依されることは、憑依霊の行為についてもすべての責任を負わされるという泣くに泣けない結果を招くことになるので、われわれとしてはどうしても、憑依されない方法を心得ておく必要がある。さて、では憑依されたらどうするかですが、これは簡単なことである。それは憑依霊(通常、悪霊と呼ばれている)が有している悪性格や悪想念と類似の性格や想念を絶対に持たないようにすればよいのである。というのは想念相互間には類似の想念は互いに引き合い、異種の想念は反発し合うという法則があるので、悪想念や悪性格を有しない者に悪想念や悪性格を有する者が取り憑く(寄ってくる)ことは絶対にできないようになっているからである。悪想念や悪性格を有する者は、これと類似の悪想念や悪性格を有する者にしか取り憑けないのである。したがって不幸にも悪霊に取り憑かれたときは、自己にこの悪霊と類似の悪い想念や心的傾向があることを悟り、そしてそれ故にこれは全く自己のみの責に帰すべき事柄であることを知るべきである。

 

このような場合に、自己の想念や心的傾向について自省することなく、取り憑いた悪霊のみを責めても問題は全く解決しないのである。世上、よく除霊(悪霊を取り除くこと)ということが行われるが、そのときは同時に自己の想念や心的傾向をも改善しなければ抜本的な解決にはならない。除霊をしても自己の想念を改善せずにもとの悪いままにしておいたならば、再び他の同様の悪霊が取り憑いてくることになる。要するに、悪霊に取り憑かれたくなかったら、常に、悪想念を出さないように留意しておかねばならない。また悪霊に取り憑かれたと感じたら、あれこれと余計なことを考えずに、ひたすら善い想念を出し、かつ善い行為を行うことである。そうすれば、取り憑いていた悪霊も居心地が悪くなって必ず離れていくのである。通常の憑依は、人霊が現界の人間に憑くのであるが、極めて稀な例外として、人霊が動物に憑依する場合がある。人霊があまりにも強い動物的欲求を保持していると、動物との間に強い絆が生じ、やがてその動物の肉体に鎖をつけられた囚人のようにつながれることになる。こうなると、その動物の肉体から自然に離れることはなくなり離れ

るためには相当の努力を要することになる。

 

通常はその動物が死んだときにようやく自由になる。動物につながれている間は、人間としての意識と能力を持っているのに、その動物の体を通してしか自分を表現することができないために相当の不自由を感じる。しかもその動物の魂は排除されずに当然の主人公として体内にとどまるために憑依者の受ける不自由さはさらに倍加する自由が制限されていることは大きな苦痛であるが、憑依者は動物につながれている間、この苦痛を受け続けることになる。それとともに、その間は正常な進化の流れからひとり取り残されることになる。

このように人体であれ動物の体であれ、いずれにしても憑依することは不必要な苦痛と進化の遅れをもたらすことになるのである。したがって肉体を失って物質界を去った以上は、物質的・肉体的・動物的欲望を捨て去ることが必要となる。

心霊現象の一つに、動物霊の憑依と呼ばれる現象がある。キツネが憑いたとかヘビが憑いたとか言われる現象である。しかし、これらは本物の動物霊が憑いたのではなく、動物の姿をした人霊が憑いたものなのである。生前に、人間としての尊厳を忘れ、あまりにも動物的な本能と欲望の赴くままに生きた人は、霊界の高い階層に行くことができず、低い階層すなわち地獄に落ちる。

地獄には落ちる人の心性や心的傾向に応じ、多種類の地獄が用意されているが、動物的な生涯を送った人は、畜生地獄と呼ばれるところに落ちる。ここにいる人々は、顔だけは人間であるが、身体(霊体)は、自己の心性に応じ、ヘビ、キツネ、牛、豚、犬、猫、鳥などの姿になっている。霊界の素料は念(心)に敏感に反応するから、心が動物になっていると、霊体も動物的になるのである。しかしこのような者も、姿、形は動物のようであるが、本体はまぎれもない人間なのである。このような人霊が現界の人に憑くと、まるで本当のキツネやヘビに憑かれたように見えるのである。こうなると、憑いた方も憑かれた方も不幸になる。なぜなら憑いた方は、さらに悪いカルマを重ねることになるので、地獄から抜け出るのが遅くなり、その分の苦痛と進化の遅れをもたらし、憑かれた方は、その期間は正常な現界生活が送れないので、その分だけ苦しむ上に正常な進化が妨げられるからである。このような不幸な出来事を防ぐには、まず現界にいる人間がこのような憑依霊を引きつける念(心)、つまり動物的な念(心)を溜め込まないようにすることが必要である。そうすれば、動物的人霊が憑こうとしても、対象となる者がいないので、憑くことができず、前述した双方の苦痛と進化の遅れがなくなることになる。ここでも決め手は、真の人間たるにふさわしい高潔な善い心なのである。

 

 

真の人間つまり魂は不滅であり、永久に存続する。魂はこの間にちょくちょく物質界(この世)に入り修行を積み、段々と進歩していく。物質界への一回の入界時間は約80年前後であるが、これは恒久存在の魂からみれば、ほんの一瞬の出来事であり、物質界以外の界層での生活の方が圧倒的に長いのである。この世の人は、この一瞬とも思える間に、幼年期、少年期、思春期、青年期、壮年期、老年期を体験していくが、これからみれば、老年期などは一瞬のまた一瞬にすぎない。世の人々は人間時間においてたかだか20年くらいにすぎない、また魂時間から見れば一瞬よりも短い老年期のことについて考えることにあまりにも多くのしかも無駄な時間を費やしている。

 

ある人は若い時から老後のことを考えるのは良いことだと言うが、その人たちの言う老後のこととは、大体において趣味とか健康とかお金とかつまり自己に関することが中心である。老年期に入って為すべきことはそんなことではない。確かに若い時期においては、他人よりまず自分のことを優先的に行うことがさらなる飛躍のために許されることもあろう。

 

しかし老年期においては、もうそれは卒業していなければならない。魂は進化するためにこの世に生まれてくるのである。したがってこの世での後半の後半である老年期に入った者は、それまでの体験の中から魂の発達に資するもの(善・愛)を獲得していなければならない。

 

 

そしてそれら(善性と愛)をさらに磨き、かつ他の人々に及ぼすことが、老年期に入った者の使命なのである。温泉、旅行、スポーツも気分転換や健康のためにたまには必要であるが、それだけではいけない。善と愛の真義を知り、かつさらに追究するとともに、自ら率先して、他の人々に対しそれらを教え、かつ他の人々の間にそれらをゆきわたらせるような活動を為すべきなのである。

 

老年期に入った者の最良の生き方は、自分に関することよりもまず、常に万物一体の思いを持って、他の同胞のために尽力することなのである。そうすれば、健康やお金は望まなくても付いてくる。他の人々のために私心なく善や愛をふりまいている人が、厄介な病気に罹ったり、どうしようもない貧困にあえいだりした例はない。

 

 

 

 

 

 

因果応報は、過去行った行為は、将来必ずそれに相応した結果をもたらすというものである。そしてこれは、ほとんどの場合、悪い方の意味で用いられている。つまり悪い行いをすると悪い結果が現われるというようにである。これによれば、因果応報は外に現われた行為のみを原因と捉えているように見えるが、実はそうではなく真の原因は行為を出現させるに至った想念(心の持ち方)にあるとするものである。つまり、ある行為をなすときはその前にそのような行為をしようという意思を持つのがほとんどの場合である。

 

 

したがって因果応報を正確に言うと悪い行為を行ったときに有していた悪い思い(想念)が後に必ずそれに相応した悪い結果をもたらすのだということになる。ということは、外形だけを見れば悪い行為であっても、そのときに悪い想念がない場合には悪い結果は現われないということになる。例えば、他人を傷つけるという悪い行為をしたとしても、他人を傷つけようとする意思を持って行った時と、そのような意思を持たないで行った時とでは、後に受ける結果が全く違ってくるのである。前者の場合には他人を傷つけるという想念に相応した結果、つまり自分が他から傷つけられるという現象がいずれは出現するが後者の場合にはそのような現象は出現しないのである。

 

親が子を懲戒したり、先生が生徒に懲罰を与える場合や上司が部下を叱責する場合などに、憎しみの思い(相手を痛めつけようとする思い)を持って行うのと愛の思いを持って行うのとでは、外形的には同じ行為であっても、自己が後に受ける結果には雲泥の差が生じる。親が子から、また先生が生徒から暴力その他の仕打ちを受けたり、上司が部下から嫌われたり裏切られたりするのは、常に前者の場合である。愛の念を持ってなした与罰や叱責に対しては、上記のような悪反発は絶対に生じないのである。

1/15~1/31

 

 決して私の交わり

に捉はれず、悪いもの

は悪いと謝絶すべき時。 

 

 こじれていた人間

関係が好転。悩みも消

え喜びごとも多々ある。

 

 下積みに徹して、

辛抱強く努力していれ

ば認められる日は近い。

 

 今勝負に出ても成

果は得られない。機が

十分に熟すのを待って。

 

 時流に逆らわない

ように。運の善し悪し

も自然界の神秘の一つ。

 

 今一つ物事が滞り

がちやが、まぁちいと

我慢すれば吉に転じる。

 

 

 次に生かせる前向

きな反省をして。クヨ

クヨしていれば更に凶。

 

 ギャンブル、色恋、

美味しい物の誘惑には

とにかく理性的であれ。

 

 最初が肝心と気を

引き締めて自らを律す

ることを忘れないこと。 

 

 幸運に甘えるは凶。

諦めるも凶。やるべき

事は、まだ残っている。

 

 状況に合わせて方

針を変更して。予期せ

ぬことが起こる時期。 

 

 現状では実力が伴

っていない。しかし頑

張れば信頼が追いつく。

 

科学は、心(精神)は肉体脳の生化学作用によって生じ、肉体脳の消滅によって消失すると主張する。したがって心が肉体と別個に存在することを認めない。心は肉体の従属物

であって、常に肉体とともに終始すると言う。この考え方からすれば、自分と他人の肉体は別個のものなので、自分の心と他人の心も別個のものであり、互いに関連し合うことはないということになる。しかし他人の心が苦しんだり悲しんだりしているのを見ると、自分の心も苦しくなったり悲しくなったりすることがあるが、科学ではこれをどう説明するのだろうか。というのは他人の心と自分の心が別のもので互いに関連し合うものでないとすれば、他人の心が痛んでも自分の心まで痛む理由は全くないと言うことになる。

 

 

このことは自分が他人の心を傷つけた場合も同様である。

なぜなら、自分の行為によって他人の心が傷ついたとしても、自分の心と他人の心が別個のものであるなら、自分の心まで痛む必要性はないからだ。しかし他人の心が痛んでいるのを見ると自分の心が痛むことがあるのは厳然とした事実である。 この点についてのスピリチュアリズムの見解は、人間はすべて神と呼ばれる第一者から創造された精神的実在であるとする。そして心はこの精神的実在(人間)の活動によって生じるものであるとする。各人間すなわち各精神的実在はすべて唯一の根源者たる神から生み出されたもので、元は一つであり、したがって精神的実在(人間)の発する心も根源では一体となっているとする。

 

 

この考え方からすれば、自分の心と他人の心は元々は一つのものから発せられたものなので根源ではつながっている、だから他人の心が痛むことによって自分の心が痛むのだということになる。冒頭で述べたように科学は、心(精神)は肉体脳の生化学作用によって生じ、肉体脳の消滅によって消失すると主張するが、しかしこのような考えを有する者も身内の者や親しい友人が死ぬと供養をする。これは無益な行動ではないのか。なぜなら、死者は死んだ時点で心を失っており、供養されていることを感じることができないのだから、わざわざ出費をして供養することは全く無駄なことだと思われるからだ。ある人は、供養は死者ではなく残された遺族の気持ちを慰めるためのものであると言う。

 

 

しかし、これでは何百年も前に亡くなり、慰める遺族がいない、またはどこにいるかわからない人をも供養する場合を説明できない。またある人は、供養は死者のためではなく自分を含めた関係者自身つまり生者のために行うのであると言う。しかし供養するということを素直に解釈すれば、死者の冥福(死後の幸福)を祈ることなのだから、死者の存在を抜きにした供養はありえない。供養は単に生者の自己満足のためにあるのではない。私たちが死者を供養するのは、私たちの心の奥底に、人間は肉体がなくなっても心(精神)は存続していてどこかで生きているという考えがあるからなのである。このような考えがあるからこそ、死者の幸福な生活を願って供養するという行為が出てくるのでしょう。

 

 

ではなぜ私たちは、そのような考えを有しているのだろうか。それは、実は、私たちが死んでも生きてきたことを実際に体験してきたからなのです。私たちは肉体が消滅しても精神的存在として霊界で生き続けることを何度も経験してきた。その経験の記憶が漠然とした形ではありますが潜在意識の中に残っており、それが「人間は死んでも生きている。ただ肉体という上着を脱いだだけで、個性や性格も変わらず習性も特徴も性癖もそっくりそのま残っている。だから死んでも無にはならない」という考えを押し出してくるのだ。このように供養は生きている死者の死後の幸福を願うものなのだが、もちろんこの供養は死者に届き、死者は大いに感謝する。そして死者の感謝の念も生者に届くが、残念なことに死者の世界と生きている人の世界とは波長及び振動数が違う。

 

 

波長、振動数が違いすぎると、お互いにコミュニケートできない。例えばラジオ波はテレビではキャッチできないし、テレビ波はラジオではキャッチできないが、これは双方の波長、振動数が違うからである。しかしラジオ波もテレビ波も厳然として存在している。仮にラジオ波しか感じとることができない人がいたとした場合、その人はテレビ波なんかは存在しないと考えると思うが、それは存在しないのではなく、存在するけれども感受する能力がないだけだということになる。要するに生者は鈍重な物質界にあり、感度の悪い感覚器官しか働かせていないために死者の感謝の念を感じ取ることができないのである。