MRAはロンドンのウェストミンスター劇場やスイスのジュネーブ湖畔のパレス ホテルを買収し、50万ドルをかけてロサンゼルスの本部を買い、ミシガン州アキナック島に訓練所を建設し、映画「グッド ロード」を制作した。ただの禁欲主義カルトから反共右翼カルトに転身したMRAは、ルール地方の有力者だったシューマンフランク外相、中国国民党右翼の暗殺団C C団の指導者 陳立夫など強烈な支持を受けた。
ブックマンはアメリカのマーシャルプランの受け皿を作り、「シューマンプラン」(重工業の共同運営)、欧州鉄鋼、石炭共同体(ECSC)の設立に貢献し、今日のEUの基礎を築いたと言われる。ルール地方では、共産党の組織率が72%から25%に下がるなど、労使協調が深まった。シューマンは「経済問題にはマーシャルプラン、軍事の面では北大西洋条約、精神生活には道徳再武装」とまでいってのけている。
ブックマンは戦後のドイツとフランスの和解に大きく貢献したと言われている。
ドイツのアデナウワー首相とシューマンを結びつけ、1946~1950までに34人のドイツ人と2000人のフランス人をスイス コーのMRA国際会議場に招き、寝食をともにしての和解活動を行った。
コーは、旧オーストリア帝国エリザベートも宿泊した。スイス モントロー近くの由緒ある山岳保養施設で、現在も、MRAの支部として、毎年夏に国際会議が開かれている。

MRAは、戦後間もなく日本にも上陸した。尾崎行雄の三女で日韓女性親善協会を設立した相馬雪香、渋沢栄一のひ孫で同記念財団理事長 渋沢雅英、日銀総裁で鳩山内閣と岸内閣の蔵相も勤め、サンフランシスコ講和会議の日本全件の一人として吉田茂とともに訪米した一万田尚登といった、そうそうたる日本のエスタブリッシュメントがMRAのメンバーとなった。
1962年、日本をMRAのアジア拠点に据えることを目的とし、十河信二 国鉄総裁を中心に、小田原にMRAアジアセンターが完成した。初代会長は石川播磨重工業の設立者で東芝社長と経済連会長を勤めた土光敏夫だった。
池田首相はMRAの大会で、その思想が日本の「新しい人作り」とぴったりあうと挨拶し、首相の私的諮問機関「国作り」懇談会の初会合を開いた。MRA運動は、戦後の日本において、海外渡航手段のひとつであり、「外国の窓」として貴重な存在だった。占領期間中、MRAの会員には、一般国民より以前から海外渡航が許可されていた。