全国の飯場をさ迷って改めて「差別」と「怨念」が支配する薄ら寒い大敗した世界だと感じる訳だが、それは、闇の権力の悪辣さが生み出した悲劇でしかない。
初めて飯場に出入りしたのは大学時代、田中組という土建屋だった。
金にいつも不自由していたぼくは、多少でも見入りのいい仕事として、土方を選んではアルバイトに行っていた。
30人の野郎が肩を並べてプレハブ小屋で寝泊まりする。
今でこそ、プライバシーとかの配慮で個室が常識になっているが、当時は古株は個室、新しい人は、8人から10人の大部屋に寝泊まりしていた。
まるで「相撲部屋」さながらだった。

仕事帰りには、土方のおじさんたちから酒をおごってもらった。パチンコで勝った日には焼き肉につれていってもらった。

金のない学生の僕には、土方は気前がよくていい人たちだったが、当時世話になった人たちは、今何をしているのだろう?

飯場は僕にとって、下層労働を学ぶフィールドでもあったが、今では、仕事そのものになり、ご多分に漏れず、哀れな生活を送っている。

それをやむを得ないと諦めるのか、労働環境を変える戦いにうって出るのか、かんがえあぐねて出た答えは、残念ながら前者に傾斜している。

ただ、労働者の労賃を跳ねるピンハネの割合が高い、

休み食事が無いのに一律飯代(飯代、宿泊費)を天引きするのはいただけない。

元請けから15000円の単価で受けて、6000円を弾いて更に飯代までとる、

僕には、福島原発の進まない復興に声を上げない被災者とともに、そうした労働環境で働く土方が怒らないのが不思議で仕方がないのだ。

飯場、戦時中大量に動員された朝鮮人、食えない日本人たちの悲鳴が聞こえる。

飯場化する日本のいくすえは、地獄でしかない。

法律がまかり通らないのが飯場世界であるということだけは肝に銘じてほしい。

ユダヤの陰謀論を細切れに調べていくなかで、ユダヤが目指す人間牧場とは、飯場社会に酷似していると考えるが、腐れた食材で賄われた食事(エサと呼んでいるが…)は食えない。

しかし、ないものはないの理のように、やむを得ず食うしかない時代が来ないように、グローバリズム 新自由主義など、資本の独占を実現する、まさに、資本家の、資本家による資本家のための飯場建設でしかないのだろうと、飯場にいて、平和な市民を案じれる原爆記念の日である。

家を無くし食を無くし街をさ迷う労働者の未来が見える。