おともさんがコメント欄でおっしゃられた

「技術等の暴走に対する抑止力は、
  『倫理観』ではなく
  『生物としての限界』なのではないか」

の件。


私は、『生物としての限界』は
物理的な肉体または精神の限界なので
それらが拡大延長している今、
抑止力は存在しなくなるのでは、と考えました。
(科学技術のせいで
   何か物理的に困ったことが起こっても、
   科学技術で解決しちゃうから。)




で、今日たまたま下記動画をYouTubeで見て、
あっそうか、
おともさんのおっしゃる通りで
「そうやって作られた人」当事者と
それに関連して発生する
人々の「痛みと怒り」が
『生物としての限界』、
つまり抑止力にあたるのかな、
と思いました。

物理的に痛いか痛くないか、じゃなくて
「社会からの扱われ方による気持ち」
の問題ですね。
うまく言えませんが、もっと根源的な
生き物としての尊厳の話というか。




これは
モラハラDVを受けた被害者自身が
モラハラDVを止める抑止力(社会の声)
になるしかない、
という構造と同じかと。

被害規模は比較になりませんが、
頭の上に原爆落とされた広島や長崎の人が
反核の声をあげ続けてるのも
構造としては同じことです。



生き物としての尊厳を侵された
当事者が発言して抑止するしかない。
黙っていたらどんどんエスカレートする。


…ということは、


一度はその地獄を発生させて
一定数の人々が苦しみを一通り味わい、
もうたくさんだ!と骨の髄から思って怒って
声を上げないと
抑止力は発生しないということか?



どえらい迂回ですが、
人類の歴史を見る限り
どうも我々は相当な大失敗をしないと
学習しないみたいなので、
まあこんな感じでワーワー言いながら
進んでいくんかなと思いました。



まあ、「意外と誰も傷つかなかった」
「万事つつがなくうまくいった」
というオチもあるかもしれません。



我が子を健康で賢く美しくしてやりたい、
障害なんか絶対にない体でいてほしい、
産めない私たちもそんな子供を持ちたい、



全てごもっともで
文句が言えないご意見なんだよなあ。






つか、このへんの問題はもう
漫画版ナウシカで一定の経緯と結論は
提示されてるのかもなぁ。