完成まで試行錯誤の10年…長期脳死の帆花ちゃんと家族の日々を“見つめる”ドキュメンタリー(まいどなニュース





脳死が世間で話題になり始めたのは
私が小学生高学年の頃だったと記憶している。



当時の私は

「脳こそ個の本尊、脳こそ肉体の王」

と無意識に信じていたので、
脳が死んだなら
「その人」も死んだのだ、
当然であろうと考えていた。




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さて、モラハラDV禍をくぐり抜けた今。

脳と言語に散々振り回され、
その間無視してきた手足や内臓からの
厳しいお叱りを経て
私は私として再統合された。

つまり、脳は
個体の本尊でも肉体の王でもなく、
他のパーツと同じレベルの
一臓器に過ぎないことを
理解したのである。
(かなりスカした野朗ではあるが。)




だから私が今この記事を読むと、

「脳の意識が無くても
 この人はこの人として
 生きているのに決まっているじゃないか。」

という感想に変わっていた。




傷ついてはいるが
確かに生きている。
それをどこまで助けていくかは
周囲の人間の都合と想い、
環境や技術に寄るしかない。




「内臓」や「手足」が
病んだり欠損したりしても
世の中は
その人はもう終わりだ!
なんて議論はしない。

それどころか
他所から取って持ってきてすげ替えたり、
機械を嵌め込んだりしておいて
「それでも同一人物です」
と平気で信じる。

なぜこうも脳だけが特別扱いなのか。

脳だって移植すればいいではないか?
それでその「肉体」が助かることがあるのなら
なぜ脳移植をしないのか。

やはり、肉体を一段下に見ているという
ことのような気がしてならない。




🫀🫁👂🦶👄🦿🦾💪☠️👁🤚✋🖕





そんな理由もあって、
私は脳死になっても
臓器の提供はしないと決めている。

個として生きるために
毎日一生懸命 外界との境界を保とうと
努力している 肉体のみんなへの、
冒涜のような気がするからである。





死ねば命の結び目はほどけて、
全ての境界は世界に再び拡散してゆく。




その日までは、
この毎日一生懸命な身体の境界線を
尊重したいと思う。