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DVの知られざる現実
カウンセラーとして長年生きてくると、現場で当たり前と思っていることを研究者やメディアのひとに話したとき、「え~っ」とのけぞられることがある。そのことに驚き、改めて自分が仕事をしている世界と世間の常識との落差を認識させられるのだ。
たとえば、DV被害者支援と虐待防止の専門家とのあいだにはほとんど交流がなく、ときには対立することもあるという事実だ。
背景には縦割り行政の弊害もあるが、DV被害者支援の源流がフェミニストたちの運動にあり、いっぽうで虐待防止運動はヒューマニズムや母性中心主義であることが、現場での齟齬につながっている。
これは日本だけの問題ではなく、北米やオーストラリアでも過去にそんな時代があったが、専門家たちが努力してそれを乗り越えてきたという歴史がある。
千葉県野田市(2019年)や東京都目黒区(2018年)で起きた不幸な虐待死事件は、DVと虐待が同時に起きていたのに、専門家間の断絶によって、その裂け目に滑り落ちた女児が死亡したのだと私は考えている。
メディアでも大きくとりあげられることで、日本ではやっと双方が連携を図る必要が認識され、行政的にもその試みが緒に就いたばかりである。
そして、もうひとつの知られざる現実が、今回のテーマである「男性の被害者意識」だ。
これも一般のひとからすれば驚きだろう。「あんなひどいことをするなんて、本人は加害者だと自覚しているに違いない。」こう思うのも不思議ではない。
臨床現場や加害者プログラムでDVの加害男性とかかわっている専門家は、彼らがどれほど「自分こそ被害者だ」と考えているかをよく知っている。中には「DVの加害者とは、自分が被害者だと思っている男性だ」と語る人もいるほどだ。
私の中ではあたりまえのことになっていたので、新著『家族と国家は共謀する』(角川新書)でそう書いたら、びっくりしたという反応が多くて、それに驚いている。
なお、本稿で参考にしたDV加害者プログラムについては、私が代表理事をつとめるNPO法人のメンバーによる書籍(『DV加害者プログラム・マニュアル』 NPO法人リスペクトフル・リレーションシップ・プログラム研究会(RRP研究会)/金剛出版)を参照してもらいたい。
「自分のほうが被害者だ」
DV加害者プログラムの参加男性たちの言葉を借りればこのようになる。
「妻は自分のことをDV加害者だというが、むしろ自分のほうが被害者だ」 「これだけ普段我慢しているのに、それを理解しようとせずにあんな口調で言われたら誰でもキレますよ」 「いろいろDVについて知れば知るほど、妻こそDV加害者だと思います。僕がどれだけ大変な思いで仕事をしてるのかを理解せずに、一方的に責め立てるんですから」
彼らの正直な気持ちは、「妻と再同居したい、子どもにも会いたい、だから本当はいやだし納得していないけどこのプログラムに参加している」というものだ。
DV加害者プログラムにかかわり始めて15年以上になるが、参加男性から初めてそのような発言を聞いたときとても驚いたことをおぼえている。そして、ああ、これはかつて見た光景だと思った。
1970年代の初め、私は精神科病院に勤務していた。その病院は多くのアルコール依存症の男性患者さんが入院しており、1週間に1回、彼らを対象とした集団療法(グループセラピー)を実施していた。
当時20代半ばだった私も、白衣を着て参加していたが、参加者たちは口々に「なんで俺がここに」「入院させられたのは間違っている」と言って怒っていた。 医師をはじめとする病院スタッフにもそれは向けられていたが、「妻がだまして入院させた」「俺がアル中なら世の中の男みんなアル中じゃないか」「俺の酒のどこが問題なんだ」という妻への怒りがもっとも大きかった。 グループの輪に加わっているときに参加者から向けられるあからさまな敵意と、「妻から入院を強いられた」という被害者意識は、40年という時を隔てながらも、私には既視感があったのだ。
このような強い反発や、一歩間違えば周囲の人間が攻撃されかねない雰囲気は、依存症ではおなじみのものだが、DVやハラスメント、性犯罪などの加害者を対象としたプログラムでもデフォルトだといえる。 DV加害者プログラムは「被害者支援の一環」として実施されるため、彼らのそのような態度は、暴力の「否認」や「矮小化」であると判断されてきた。
しかし10年ほど前から、このような彼らを断罪するような表現は用いられなくなった。被害者の立場から彼らを鮮明に批判することは、加害者の変化や更生を促進するどころか、むしろ再発のリスクを高めてしまう懸念もあるからだ。この点に関しては前掲書などを読んでいただきたい。
家族の問題に受動的な夫たち
「被害者意識」といっても、彼らはストレートに自分が被害者だと考えているわけではない。
(1)もしも妻(パートナー)が被害者だと主張するなら、(2)それは間違っている、(3)なぜなら妻に対して我慢してきた自分こそ被害者なのだから、(4)それに勝手に加害者呼ばわりすることは暴力だ、という順序をたどる。
このような屈折した思いが、彼らのプログラムでの発言につながっている。おまけに(2)を声高に主張するわけではない。 そんな態度をとれば自分が不利になることはわかっているので、むしろ妻がいかにひどいか、自分が我慢を強いられているかという被害者性を強調するのだ。 被害者意識を「させられた感」と表現すればわかりやすいだろう。彼らは「すべて妻のせいだ」と考え、「妻からさせられた感」に満ちている。
家族の問題で自らすすんで来談する男性はそれほど多くない。夫婦・親子の問題が起きれば、まず女性(妻・母)が最大の責任者として動かざるをえない。
令和になってもその役割にそれほど変化はない。どれほど仕事が忙しくても、まず女性が家族の問題の担い手として期待されるのだ。 妻が背負うべき問題の一部を協力しこそすれ、代わって重責を負う父・夫はほんとうに少ないのが現実だ。 言い換えれば、家族の問題に対してずっと男性は責任を解除されたままであり、お客様状態なのである。 このことが、彼らの受動性につながっているのではないだろうか。本来、自分がやるべきではないのに(妻がやるはずだから)、むりやり登場させられるという「受動性」がデフォルトなのである。
娘や息子の問題で来談した父親は、ずっと「妻が○○と言った」「妻が○○をした」「妻が……」を語るのだ。 それはまるで、幼い子どもが「ママが○○と言った」「ママから○○された」と言う姿と相似形ではないだろうか。
「させられている」感から生まれる暴力
夫たちにとってのホームは仕事場であり、家族はどうしていいのかわからないアウェーなのだろう。
「責任はすべて妻にある」というお客様状態の気楽さと引き換えに、彼らは家族で語る言葉や行為のモデルを喪失しているのかもしれない。 家族と顔を突き合わせる時間の過ごし方がわからないので、休みの日には必ずドライブや買い物に出かける。家に帰るとずっとスマホを手放さず、ゲームばかりしている……。
昭和のわかりやすい家父長的男性像は、今ではDVやハラスメントとして忌避されることも手伝って、彼らはこうしてやり過ごしているのかもしれない、と思う。
このように、家族の中で彼らは受動的な存在なのだ。妻の言う通りにさせられているのだから、何か起きれば妻のせいであり、妻に文句を言えばいいのだ。受動性(させられ感)はそのまま被害者意識につながっていく。
自分の状態をわかってくれない、妻だったら説明しなくてもわかってくれるはずだ、自分が正しいという現実をそのまま信じてくれてもいいはずだ……というように、彼らは、思い通りにならないのは妻のせいなのだ、と考える。 こうして、「妻が思い通りになってくれない」という被害者意識から、DV(殴ったり、怒鳴ったり、家具を破壊したり、妻を貶めるなど)は生まれるのだ。
北米のDV加害者プログラムに参加する男性では、妻に対する嫉妬がDVの引き金になっている例が多く、この点で日本とは異なっている。
日本では、妻が他の男性に惹かれるなどと考えもしない例が多い。極言すれば、日本の男性は妻を女性としてではなく、「自分をわかってくれる存在=母」としてとらえているのではないか。 母への依存だとすればわかりやすいが、実際にはもっと入り組んでいる。「命令しながら依存する」のであり、「威張りながら甘える」と言い換えてもいい。 そして、彼らは、妻に対して受動的であるなどと思ってもみないのである。まして被害者意識を抱いているとも思わず、ただひたすら「思い通りにならない」ことに怒っているだけなのだ。 このように日本のDVにおいて、依存と支配は表裏一体である。
彼らの受動性、被害者意識は、妻に対する言動にも表れる。「お前のせいだ」などと素直に言う男性は少なく、多くは「正義」という皮をかぶり正当化する。 前景化するのは、「男らしさという正しさ」だ。一家を支えているのは自分であり妻はそんな自分の大変さを理解し察してくれるべきだ、自分は合理的論理的な正しさに基づいているのに妻は感情論で非論理的だ、そんな妻を糺さなければならない……なぜなら常に正しいのは自分なのだから。
妻の側からすれば、批判され、否定され、バカにされるという日常が続くので、こんなダメな自分はどうすればいいのかと思う。 そんな彼女たちにとって、自分を必要として許容しケアしてくれる存在は子どもだけなのだ。こうして最終的に、子どもが母をケアし心を砕くという親子の役割逆転が起きる。
日本映画の定番である男らしさは、このような支配的言動の背後にある受動性・被害者性を汲み取る女性によって成立してきたことがよくわかる。 妻を罵倒しながら依存する夫、子どもを「あなたのためだ」といって思いどおりにする母が、ひとつながりのものとして見えてくるだろう。
「わきまえる」ことの強制
要職にあった首相経験者の「(自分たちの組織に属している女性は)わきまえておられる」という発言に対する反発を見て、内心「あれが女性差別なのか」と驚いた男性も多いのではないか。「あの程度でも叩かれるとしたらもう何も言えない」という発言も耳にする。
これまで当たり前であった世界にひびが入る感覚はどのようなものだろう。 すぐ隣でニコニコ微笑んでいたかわいい女性たちが、内心では耐えがたい屈辱感を抱いていたとしたら。少し胸が開いた服を着た女性は、自分たちを間接的に誘っているのだと信じて疑わなかったが、それがすべて勘違いだったとしたら……。
厳しい競争社会や社内の人事ストレス、上司や同僚との軋轢などで疲れ果てた男性にとって、女性は相変わらず自分を支え癒してくれる存在だったはずだ。 有能な女性がいたとしても決して男性を超えることはなく、荒野に咲くヒナギクとしての価値だけで十分だっただろう。
「わきまえる」とは、そんな男性を癒す存在としての女性たちの姿そのものである。「力関係の劣位にある者が優位にある者と並んではいけない」というタブー意識を内面化することで、あらゆる組織・職場の秩序は維持される。
男性だって力関係においてわきまえを求められてきたが、なかでも性別だけが特に大きく取り上げられるのは、本人が選択したわけではないからだ。生まれたとたんに二分法でどちらかに分類され、自ら選ぶことはできない。
男性も選んで男性に生まれたわけではないが、女性たちが「女性であるだけで差別される」という現実の過酷さと根深さを改めて表面化させたことによって、森元首相の「わきまえている」発言は批判されたのである。
「私のせいで」と思ってしまう妻たち
20年近くDV被害者のグループカウンセリングを実施しているが、彼女たちがどれほど「被害者だ」と思うのにためらいがあるかは知られていない。
3年間もグループに参加していても、「自分のことをDV被害者と呼んでいいのか」と語る女性ばかりである。それほど彼女たちは、「私が悪かったのではないか」と思っている。
受動的で被害者意識の強い夫から、正義の鉄槌を下され「お前がわるい」「どうして怒らせるのか」「反省しない、学習しないのはバカの証拠」と言われ続けた彼女たちは、「私のせいで」という加害者意識を抱かざるを得ない。 そうしなければ日々の生活が送れないのだ。夫が正しいのなら、自分が悪いことになる。
このように、夫の被害者意識と妻の加害者意識はセットで入れ子状態になっているのだ。 いわば行為と意識は逆転しており、そのことを知らないと、自分たちが当たり前と思っていた世界にひびを入れた女性たちは「正義をふりかざす」存在に思えるだろう。 男性たちのフェミバッシングはこうして起きるのではないか。 自分たちは傷つけようとしてやったのではない、悪意などない、当たり前のことをなぜ「加害」と言われなければならないのか。それは新たな被害者意識につながっていく。
被害者意識を自覚することで、新たな「男らしさ」へ
教養豊かな女性たちの一部には、女性差別やジェンダー平等なんてダサいと考える人たちもいる。 また、表立っては発言しなくても、女性差別糾弾の動きに対する反発、居丈高な正義をふりかざす女性たちへの反感を抱く男性は多いだろう。
じつは女性たちは、自分が悪いのではと思ってずっと黙ってきたのだ。「わきまえている発言」なんて微々たるもので、もっと抗い難い差別発言に耐えてきたのは、そのとおりだと思いどこかで納得してきたからだ。 しかし、「それは思わされているのだ」と気づいたから、そして気づいて声を上げる人がいたから「女性差別だ」と主張できるようになった。 つまり、女性たちが「被害」を訴えてもいいと思えるようになったのは、つい最近のことなのだ。
それまでは(今でも)、「誘った女性に責任がある」「殴らせる妻が悪い」というのが、メディアでも裁判でも主流だったのである。
自分の人生を自分で選べるという幻想は、弱者にとって過酷である。すべては自分の責任に帰せられるからだ。DV被害女性たちも、被害を訴えつつ、どこかで「あの夫を選んだのは自分だ」と考えてしまうのだ。
こんな女性の加害者意識(私が至らないからだ)と男性の被害者意識(だって妻がそうさせたから)とが連動しているとすれば、男らしさのとらえ直しの第一歩は、すでに根深くある被害者意識に気づくことから始まるのではないだろうか。 被害者意識と男らしさはつながっていて、ときにそれは正義の皮をかぶった暴力として表出されがちなのである。
カウンセラーとしての経験から、女性もそうであるように、男性も無批判に自分の語りを聞いてもらう場を必要としているのだと思う。 コロナ禍での国会議員の会食問題が指摘されているが、感染防止が重要なのは当然のこととして、彼らには家族以外のひとに自分の話を聞いてもらう場が必要なのだ。
SNS上のクラブハウス(club house)の急激な広がりは、リアルな飲食を介さずに語れる場への切望を表している気がする。 自分が語り、他者が聞く。そこには批判も否定も上下も存在しない。ひとりの人間として尊重(リスペクト)される場をもつことで、多くの男性たちは(もちろん女性も)自分の傷つき(被害者性)や何を望んでいたか(感情)をはじめて自覚できるのだ。カウンセリングの意義のひとつは、そんな場を提供することだと考えている。
信田 さよ子(臨床心理士)