物語飽和状態になって長い人間社会であるが、
そもそも物語はどこから来たのか、
ということを考えていてハタと気がついた。





物語とは、時間のことで
時間とは、物語のことじゃないか?




つまりどちらも同じもの、
人間の頭の創作物だ。






時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計時計






脳が世の中の事象の変化を記憶するとき、
現実を圧縮して言語に変換する。
それを順に追う時の感覚を
「時間の経過」
と呼んでいるのではないだろうかということは
常々考えていた。





で、物語とは、仮想の事象の変化を
文字情報によって組んだものだ。
つまり「ある物語を追う(読む)」ことは
「ある時間を過ごす(記憶を順に再生する)」
ことと同じだ。





物語の時間は自在に流れる。
流れるという言い方自体
言語を「読む、追う」という処理から
派生した表現だろう。




死の直前に見る記憶の走馬灯という話も
度々見聞きするが、
つまり脳は一瞬のうちに
全人生の体験を総再現することも
可能だということだ。
そこにはいわゆる
「流れる直線としての時間」は存在せず、
「同時に全て」がある。  




睡眠中の夢の中の時間は
より変幻自在になる。
伸縮、反転、逆流、ループ、入れ子構造、
なんでもござれだ。





夢でそれが可能なのは
それが言語を介さずに行う
記憶の処理だからだ。





現行文字と
脳の言語野によるその理解方法は
基本的に「順を追う」構造のため、
全てが同時に起こる(または起こらない)
夢の記憶の文字起こしは非常に困難となる。
言語より厚みのある、
光景・匂い・味・感情・皮膚感覚・音など
あらゆる五感の情報を
順を追わずに(つまり時間を発生させずに)
全て同時に感じているので、
文字を超えた直感においてのみ
真の理解が可能な世界である。





つげ義春一連の夢再現作品では
画の力と日本の自由なコマ割り文法によって
夢の再生に肉薄しているが、
夢野久作の『ドグラ・マグラ』
文字情報のみでの再現に挑戦しており、
改めてその取り組みの凄まじさに驚く。