誰かを、何かを嫌うことを
と感じる思考。


これは私の中では最近
三大モラ詭弁
の一つに数えています。


◯ 根拠ある怒り
◯ 必要のための損得計算力
◯ 不快を自覚し対象を嫌う心


どれも、自分や自分の大切なものを
守るために必要不可欠な、
最低限の自衛力です。


現在この三つの生きる力は
不当、かつ必要以上に
貶められてしまっています。


この三つの力を、
異常なレベルで
無軌道かつ無根拠に発揮するのが
モラ族です。


同時に
彼らは寄生搾取先の存在が
この力を発動することを非常に恐れ、
忌み嫌っています。
一方、モラ族の被害を受ける側も
この力の暗黒面を見てきたため、世界各地で

「反・怒りムキー 計算ニヤニヤ 嫌いゲロー

の空気を濃厚に帯びた物語が量産されてきました。




ムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッムキーッ




「物語」とは、人間が生きていく上で使う
善悪判断や思考パターンの
初期フォーマットです。


人間の各文化は、どの時代においても
必ず何らかの「昔話・お伽話・寓話」
を共有し、コミュニティ内の価値観を
一定の領域内に調整してきました。


そのような古く荒削りな昔話には、
まだ誰かの現実の体験を基にした
野性味溢れる荒々しい真実が含まれていました。


が、ポリティカル・コレクトネス(綺麗事)
が蔓延し始めた近代社会において
物語は完全に牙を抜かれてしまい、
キラキラおとなしく耐える子には良い事があるキラキラ
という、麻薬のようなホラ話が 
疫病のように蔓延するようになりました。


NHK朝のお約束連ドラも、視聴率欲しかったら
腹黒覚醒ヒロイン作れば一発ヒットじゃないですかね?
モラハラ毒親家庭の下克上朝ドラなら観たいです。




キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラ





誰かを、何かを 嫌いだと自覚することは
悪ではありません。
ただそのように心が動いた、それだけです。


大抵の「嫌い」には理由がありますが、
生まれてきた無垢な赤ちゃんを愛せなくても
お世話になった人がウザくても
それは仕方のないことです。
嫌うことは趣味嗜好や損得の問題であって、
善悪とは全く別のものごとです。


例えば南米アマゾンの密林に、
全く無害な50cmサイズの
イモムシがいるとします。
何の被害も受けていないにもかかわらず、
私はそのイモムシが間違いなく、嫌いです。
無垢で純粋な優しいイモムシ。
それを嫌う私は、悪でしょうか。


ただ、仲良くできない一人と一匹。
会う事もないのなら別にいいですよね。


ではさらに、その虫が毒持ちで攻撃的で
家の中で刺してくるやつならどうでしょうか。
嫌いな気持ちはいよいよエスカレートしますね。
悪気は無くても、刺すんですから。


私は発達系のモラ夫さんが
これ↑に当たると思っています。


悪気はなくても、
嫌なもんは嫌なんです


仮に無害で優しい性質だとしても
無理やりそれを好きになれと
強制されるいわれもありません。




えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?えー?




嫌いなものを攻撃するかどうかも、
実害が出てからの判断、次の段階の話であって
嫌い→即攻撃 に移っていいわけはありません。


実害が発生していないのに
「なんかサイズ的に無理」だけを根拠に
もし私がアマゾンまで
イモムシ族全体を殲滅しに行ったら、
私はキチガイのヤバいやつですよね。
実害があったとしても、私が攻撃すべきは
私を刺したイモムシ当人、いや一匹です。


繰り返しますが、


何かを嫌うことは
趣味嗜好や損得の話で
善悪とは全く別の件であり

嫌い=即 攻撃してよし、
でもない。
それは実害が出てからの
次の段階の判断となります。




笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き




世の中にはそういった
寂しいすれ違いが無限に存在しています。


当然、この私も、何もしなくても
誰かに超絶嫌われる可能性は無限大です。 


でも、だからといってその誰かに
私を攻撃してもいいよ〜とは思いませんし
私もその人に対して、
なぜ好いてくれないの!と強制はできません。
怖えよ。


無闇に人に博愛を迫るのは
個人の人格を無視した
危険なテロ行為です。


ただ無駄に敵を作らぬよう口をつぐみ、
必要が出て来て初めて
戦うなり逃げるなり耐えるなりすればよい。


嫌うことは悪ではありません。
その表し方とタイミングに
根拠と計算が
必要なだけなのです。ピンク薔薇ウインクピンク薔薇