こうして、必要にして十分、要するに適度の医療が施された遺体には、それらを見事に反映している実像の所見、といったものがあることに気付くようになったぷそして、そのように適度な医療が施された後の遺体というものには、その内臓には、それなりの美しさが感じられることに気付いた。


《確かに、適度の治療が施された後に死を迎えた遺体の内臓は剖見者には「美しい」とも映るぶその所見は千差万別、百例百様で、一言にして尽すことはまったく不可能であるが、たとえ最新の先端技術が施された後であっても、それが《適度〉であれば、そこに残されている変化は、概して古典的であり、自然である。《すなわち、必要にして十分な治療の結果は、その疾患の起こるべくして起こった変化の集まりであり、あまり大きな修飾は感じられないぷ別のことばを用いるなら、それは《節度ある医療の結果〉であるとも言える。


これは、単に狭い意味での医学、医療の面からみて適切であるばかりでなく、患者の人間としての尊厳が守られることにも通じるぶつまり、《節度ある医療〉と同時に《品位ある医療》のためだと言えるだろう。品位ある医療とは、《暖かい「こころ」に裏打ちされた合理性を基礎とするものであり、決してガイドラインなどによって安易に導きうるものではない。それは一人の医師と一人の患者が、そのときどきの個々の症例について考えるべき問題であり、決して医学的知識・医療技術だけでは解決できるものではない。


その際個々の医師に求められるのは、医学的力量とともに、人間的教養および品位である。このような〈節度ある医療〉の結果は、〈自然の死〉に近いかたちになる。一般に医療に際して医師が施す治療というものは、結局、患者自身が自らの力で病気を治す手伝いをすることだと考えられている。しかし、人間とは所詮いつかは死を迎える運命にあるので、医療とは人間らしい自然の死を助けるものであるとも言える。《自分の身体の中に秘められている自然の力による治療を側面から助けるとともに、その人生の最終段階においては自らに運命づけられた自然の死を助けることもまた、医療のもつ役目であろう。


表面的な人間の尊厳や生命の尊さにこだわり、脳死状態に陥った後も長くその心拍動、呼吸を保ち、結果として脳や脊髄が融解しつくすまでに至った患者、そういう患者の解剖所見は、美しくはない。《それは、身体外の力によって、おそらくは本人の意思とは無関係に、ただ生きることを強制された一人の患者の最後の姿でしかない。》高度医療技術の適用に当たっては、なんらかの〈制御》が必要であるとしても、それは、あくまで《節度ある医療〉につながるものでなければならないだろう。このように森さんは言って、〈美しい死〉を医療の新しい目標として掲げている。


最後に弟の死に立ち戻っていえば、棺のなかに入れてほしいと家族に言い残した私の著書の『人類知抄』を、棺に入れるまえに開いてみたら、《幸福であるとは、なんのおそれもなしに自己を眺めうる、ということであるyというW・ベンヤミンのことばにしるしが付けてあった。もし、彼の心境がそのことばを余裕をもって受け入れるまでになっていたのだとしたら、私かそのことばに託したメッセージがこだわりなしに受け取られたことになり、彼の《美しい死》に役立てたことになって、私としても嬉しいかぎりである。