国家財政の問題にあまり詳しく踏みこむことは、本書の任ではないと思うのでこの辺で止めておくが、要するに空っぽになりつつある国家予算のみに依拠していては、将来にわたって増大することが確実な、高齢社会の介護サービスのための財源は、とてもまかなえないことは明らかだった。国家予算に大幅に依拠していたそれまでの措置制度そのものも、このままでは財源的にもたないという危機感が厚生省には濃厚にあった。一九八九年から実施された、十年計画の「ゴールドプラン」は(その後「新ゴールドプラン」に発展)、厚生、大蔵、自治三大臣が財源問題も含めて合意するという異例の確認でスタートした。



しかし、当時、十年後の財源については確たる見通しはなにもなかった。むしろ、財源的には十年後には断崖絶壁に立たされる、というのが霞が関の共通認識だった。しかも国家予算からの各省庁の分捕り合戦は、総枠が逼迫するのに伴って限界に達していた。そこで介護においても、なんとしても新しい財源を、しかも医療保険のように国家予算から独立した独自財源を持とう、ということになったのである。消費税を充てることは可能か社会保障の財源としては消費税を充当すべしという意見がよく聞かれる。理屈としてはそれは可能である。それだけでなく一般税を充当することも理屈では可能である。問題はそれらを可能ならしめる現実―政治のしくみを含めたはどうかという検証である。



一九九七年四月からは、消費税が三%から五%ヘアップした。このときの税収がどのように使われたかをみてみよう。このときの改定により、約四・八兆円の消費税の増収があった。そのうち三・八兆円はその前に行われた所得減税・住民税減税の穴埋めに消えた(借金大国における減税策は、必ずどこかでそれを補わなければならない)。さらに〇・五兆円は公債の償還分に充てられた。そしてわずかに増収分の約一〇分の一にあたる〇・五兆円が社会保障に回ったのみである。消費税の増収分の多くが、それまでに使いこんでしまった財源の穴埋めに充てられていたという現実を、市民はよく認識しておくべきだろう。



ちなみに高齢者福祉関係では、当時の新ゴールドプラン用にようやく三〇〇〇億円が確保された。これにしても、当時の連立政権の村山首相(旧社会党)の「顔を立てる」として、かろうじて与党内で合意が得られたものであった。もちろんこのような事態を招いた元凶は、野放図な建設投資にあったことは既に述べたところだが、長期的な低成長経済下では、法人税や所得税の飛躍的な伸びを期待できないため、消費税収の大部分は、減税の補てんや公債の償還分に充当せざるを得ない。それほど税収からの社会保障財源の充当は困難になっているのである。



消費税を福祉目的税に、という案もあるが、これも抽象的な机上の理屈である。「福祉」の定義や範囲をどこまでにするかが論議を呼ぶだろうし、仮に年金、介護に限定するとして、現行水準のサービスを維持する場合でも、少なくとも消費税を一一%にしなくてはならない(基礎年金分に四%、介護二%)。介護保険料の凍結すら云々されるなかで、それだけの消費税増税を提案できる政治グループは見当たらないし、仮に実現したとしても、「福祉」の水準が消費税の枠内に封じこめられてしまうことの危険性の方が大きい。消費税は「福祉」、一般税は「公共事業」では目も当てられない。