万が一、申請者が倫理委員会の意見を受けいれずに指針を無視して実施した場合には、結果のいかんにかかわらず、医療上のみならず倫理上の責任も一切、実施者個人が負うべきであり、倫理委員会は申請者を倫理上でもバックアップしてあげることはできなくなる。倫理委員会の指針を無視して強引に強行した申請者の行為に対して倫理委員会は何の権限も与えられていないので、学長あるいは医学部長のような任命権者にその旨を報告して、学内的な対処を要請するだけである。


倫理委員会の倫理とは何であろうか。これは難しい問題である。倫理委員会に臨む委員の倫理性から考えなければならないと思われる。公開性について委員会の公開性を求める声が、とくに報道関係者から高い。報道関係者にとっては、公開の席上で何の制限もなく自由に取材できるのが最も好ましいのは当然なことである。しかし、それを承知で、委員会が条件付き公開や非公開にするのには、またそれなりの理由がある。委員会で何を審議するかによって、公開性の問題は変わってくるのである。よくアメリカの委員会の公開性を例に挙げて、わが国の委員会の非公開性を非難するのを聞くが、誤解に基づく発言の場合もあることに注意していただきたい。


アメリカの大統領委員会、施設内研究審査委員会(IRB)などを例にあげて、わが国の倫理委員会と公開性について比較するのは妥当ではない。アメリカの大統領委員会の役割は、個々の患者の医療について審議することではなく、たとえば、脳死者からの臓器移植のようなある特定の医療の実施について道徳的倫理的法的な規範の原則、基準を設定することにあるから、当然、患者個人のプライバシーは問題とならない。また、ヒトを対象とした個々の研究課題の申請について審議するわけでもないので、申請者のプライバシーも問題にならない。


誰でも将来病気になるであろうし、たとえば臓器移植が必要になるかも知れない。すべての人を対象として検討審議しなければならない特定の医療の実施についての道徳的倫理的法的な規範の原則、基準を設定するためには、一人でも多くの異なる価値観を持った人々に問題点を把握してもらい、各自の積極的な意見や問題点を発言してもらうことが、委員会にとってこの上もなく重要なことなのであるから、委員会の討論を公開にするのは当り前のことなのである。この観点からすれば、わが国の「脳死臨調」の委員会が公開でないのは、委員会にとってもせっかくの情報源を絶つことであり、私は大変残念なことであると思っている。