同年八月のヒトラーとスターリンの不可侵条約の秘密協定で、ドイツとツ連はポーランドの分割とともにバルト地方をそれぞれの勢力圏に分割することに合意する。秘密の協定を踏まえて同年一〇月、ドイツはエストニア、ラトヴィアの両国とそれぞれ条約を結び、バルドードイツ人のドイツ領への移住を決めた。エストユア、ラトヴィアのドイツ人をボルシェヴィキの手に渡すことをヒトラーが嫌ったためだといわれている。翌年の冬にかけてエストニアからは五万二五八三人、ラトヴィアからは一万三七〇〇人のドイツ人が、多くは十三世紀初頭以来の父祖の地を去った。


こうして、七五〇年に及んだバルドードイツ人の歴史は終わりを告げる。分割されたポーランドの、ソ連領になった東半分からも総計で四〇万人がドイツ領に移されている。その結果、一九四〇年にはバル下三国、東ポーランドなどにはドイツ人がいないはずになった。ドイツによるドイツ人の移送、ドイツによるドイツ人の「故郷剥奪」だった。戦後の移住と違い、人びとはありとあらゆる家財をもって去っていった。


バルト沿岸、プロイセンはこんな歴史をもった地柄である。その南岸には北ドイツのキールに始まり、ポーランド、ケーニヒスベルク(ロシア)、リトアニア、ラトヴィア、エストユアまで、ドイツ人の街が連なっていた。その先にロシアのサンクト・ペテルブルグがある。ドイツとの因縁はまことに浅くない。しかも、東部ドイツの精神的中心部としてのケーユヒスベルク、ドイツ人植民訴が果たした文化的貢献、役割も無視するわけにはいかない。ことにこれらバルト沿岸の祁巾の教会・僧院建築の基調であるバックシュタインーゴシック様式は、ドイツ人の束方位民をぬきにしては語れない。


また、東プロイセンの文人たちには、カントのほか、ケーニヒスベルク人学にやび、片書『人類史の哲学的考察』、ことにそのなかのスラヴの砂で有名になったヨハンーゴットフリートーフオンーヘルダー、ダンツィヒに生まれた哲学者で、「意志と表象としての世界」を著したアルトウーアーショーペンハウアー(ケーニヒスベルクに生まれたドイツーロマン派の代表的作家であり、楽家、画家でもあり、判事でもあったE・T・A・ホフマン)などがいる。


いずれもドイツの哲学、文学に多少とも関心をもつ人びとには、馴染みの深い名前であろう。現代の作家でも、東プロイセンの小さな村に生まれ、故郷の牛活を題材にした民話集で名をあげたジートフリートーレンツや、ダンツィヒに生まれ、ミフリキの太鼓」などを書いたギュンターyグラスがいる。またリベラルな評論紙「ツァイト」紙の発行人マリオッーグレーフィンこアーンホフ女史も、ドイツ西部から後の東プロイセンにやってきた一族の末裔である。