当時、比較的豊かな人びとのためのろうそく用の蜜蝋、そして主にダンツィヒから積み出されていた造船用の材木も重要な輸出品であった。ロシアなどに向けての輸出品は塩と日常の毛織物が主だった。企業体としての騎士団とハンデ商人の利害が衝突することもあった。そこでハン゛ザ商人が騎士団に対抗して、ポーランドと手を握るような事態もあった。


十四世紀後半から十五世紀初頭に全盛期を迎えたドイツ騎士団に対抗して。カトリックであるポーランドの女王は、キリスト教への改宗を条件に異教徒だったリトアユアの王と結婚、両国は合体する。そして一四一〇年、ポーランド人とリトアニア人は、チェコ人などからも兵員の供出をうけて「真の全スラヴ防衛同盟」(ジャークーアンセル)を結成、さらにタタール人の助力も得てドイツ騎士団と戦い、大勝した。ポーランド側の軍勢四万六〇〇○、ドイツは三万二〇〇〇、中世ヨーロッパ最大の合戦のひとつである。騎士団にとっては二〇〇年ほど前、ロシアのアレクサンドルーネフスキー公に大敗して以来の敗戦だった。ドイツ人の記憶にはずっと屈辱、ポーランド人には栄光の象徴として焼きついてきた。


異教のタタール人がドイツ騎士団と戦う助太刀に加わったことについて、ドイツ側はタタールの騎馬隊一〇万といい、二〇万ともいう。一方、ポーランドの側はわずか二〇〇騎だったと主張して、両者のいう数は大きく食い違う。キリスト教の世界での話だから、一方は異教徒が加わっていたことをいい立て、他方はこれをやましく思うのである。また、この戦いをドイツ人は「タンネンベルクの戦い」と呼び、ポーランド人は「グルンヴァルドの戦い」という。ともに小さな村の名前だが、ポーランドの本陣はタンネンベルクに、ドイツの本陣はグルンヴァルドにあった。なぜか、それぞれ相手側の本拠の名をとって戦いの名としているのである。


この戦いはドイツ騎士団が没落していくきっかけになった。騎士団領は縮小、腰のくびれたタツノオトシゴのような奇妙な形の領土になる。のちにこれがプロイセン公国になり、ブランデンブルクの選帝侯が相続したが、一七〇一年にはプロイセン王国に格上げされ。以来歴代のプロイセン王の戴冠式はケーニヒスベルクで行われた。そしてしだいに、「東」ではなく、「西」に領土を拡張していく。


軍事力を蓄え。官僚制度を整備したプロイセンは、ポーランドの分割にかかわったり、オーストリアと戦って勝ったりして膨張、ついに一八七一年、他のドイツ諸邦を率いてフランスを破り、ドイツ統一の中心となる。「タイツ帝国」の成立で、ベルリンが帝国の首都になる。しかし、ドイツは第一次大戦ではフランスなどに敗れ、ヴェルサイユ講和条約でプロイセンは東西に切り離される。ポーランドは西プロイセンを手に入れ、これが「ポーランド回廊」と呼ばれ、ポーランドの海への出口になった。東プロイセンはドイツの「離れ島」になった。