昔、サンーシモンという人物がいた。かのカール・マルクスから、空想派社会主義者というレッテルを貼られたフランスの社会思想家である。本人にいわせれば、自分の思想が空想的とはつゆほども思っていないだろう。


サンーシモンにせよ、シャルルーフーリエにせよ、一九世紀初めのフランスの社会思想家は、まず現実のヨーロッパ社会の中に問題点を見いだし、それに対する改革案を考えた。その改革案の中身が現実的であるか空想的であるかは、現代においても絶えず争われる論点である。現にユーロあるいはその前身であるECUについてもこの構想が空想的だと批判する人が何人もいた。


空想的とはどういう意味であろうか。もしそれがこれまで想像もできなかったような独創的アイデアを意味するのであれば、そのような空想性は社会科学においても尊重しなければならないだろう。特に新しい政策の提案に際してものをいうのは人間のインスピレーションである。空想という言葉に換えて夢といってもいい。先駆的な実験には常に夢が伴うものである。


サンーシモンの描いた夢はとてつもなく壮大なものであった。彼はシャルルマーニュ貨幣によるヨーロッパ通貨を提案し、ヨーロッパ議会についての具体的提言を行った。表面的に見れば、現在のEUを彼は予言していたようにも見える。しかしサンーシモンのシャルルマーニュ貨幣とユーロとはまったく別なものである。同様に彼のヨーロッパ議会論は貴族と庶民(商人、学者、司法官、行政官)による二院制であり、今日の市民による直接選挙によるヨーロッパ議会とは異質なものである。いくら先見性があるといっても彼の議論が時代的制約を免れることはできない。


それでもサンーシモンの著作を読んで面白いのは、彼の時代の流れを見る目の確かさである。サンーシモンが見ていたのはフランス大革命後のヨーロッパであった。政治的にも、経済的にも、これからのヨーロッパでは、地域的な国民国家の存在する余地はなくなり、ヨーロッパ単位での再編成は必至であると彼は説く。さらに彼の立論の根底には産業革命後のヨーロッパ産業の再編への視点がある。まず産業統合があり、しかる後に政治統合へという視点ははなはだ現代的である。

そもそも司法制度改革審議会を作ったのは、「二割司法」からの脱皮という国民的課題があったからです。改革審は「司法の国民的基盤を強化する方策が必要だ」としていますが、そうであれば、民事の領域でこそ国民参加の導入を考えるべきです。


経済活動に対する国民一般の関心は極めて高いので、民事紛争を自分たちの問題として判断することには大いに意義があります。もろもろのお金のトラブルが多いわけですから、裁判員や陪審員になった人にとっては満足度もかなりあると思います。


刑事裁判と違って民事裁判では、市民の日常生活、経済生活に直結する題材なども扱います。民事事件は、その名も示す通り市民間の事件ですから、民事責任のあり方を市民が自分たちで考え、判断するのにふさわしいものです。もちろん、刑事裁判への国民参加も、それなりのインパクトをもたらすに違いありません。


ただ、ちょっと冷静に考えると、「全体としては、あまり大したことないな」と思えてきてしまいます。報道などで国民の司法参加が実現に向かって動いているように見えるとしても、それが刑事裁判の領域に限られているとしたら、どうでしょう?刑事裁判で扱うのは、有罪か無罪か、その量刑(刑罰の重さ)はどうすべきか、という議論です。


権力犯罪とかオウム裁判や毒入りカレー事件のように、国民の注目する事件もあり、それらが重要であるのは確かですし、その他の多くの刑事裁判もまた、それなりに重要であることは認めます。しかし、それで日本が抱えている構造的な問題にどれだけの影響を与えるかといえば、多分影響は少ないだろうと思います。

良きドイツ人がヒトラーという悪魔の策略によって悪しき契約を結ばされて破局が生じたのだから、過去の悪しき契約ときっぱり手を切って、新たな良き契約のもとでドイツ人は社会的世界改革への道を目指そう、というわけである。


そこには坂口安吾のような「堕落論」もなければ、ドイツ人としてのアイデンティティのゆらぎもない。そこには戦前・戦中の日本人は悪い日本人、戦後の日本人は良い日本人、という「人格分裂」は生じない。


ただ、そのためには契約破棄後の後始末だけはしっかり行なっておかねばならない。それがヒトラーとナチスの犯罪の暴露と処罰と謝罪と補償であり、ヒトラーの国家社会主義との契約を破棄した後に新たに結んだアデナウアーの自由主義ないしウルブリヒトの共産主義との契約の順守である。


だからこそ、戦後の東西ドイツの指導者は絶対に「戦前からの」自由主義者ないし共産主義者でなければならなかったのである。ナチスに加担したものを排除することなしには契約を破棄したことにはならないからである。


契約を破棄した以上、ナチスに加担したものは徹底的に排除する。これは契約社会なら当然のことである。ここだけは自覚的に徹底しないと契約を破棄したと見なされないからである。だからこそ、戦後のドイツはナチス賛美は言論の自由の例外扱いにして犯罪として弾圧しているのである。