アスペルガー夫とカサンドラ妻についてとことん語るブログ

アスペルガー夫とカサンドラ妻についてとことん語るブログ

アスペルガー夫、カサンドラ妻について私が思うことをいろいろと記述していきたいと思います。

アスペルガー夫は外づらはよいが、家の中では態度が変わる

 

とよく言われています。

 

外で態度がよい状態を「外モード」、家の中で態度が悪い状態を「内モード」と言います。

 

妻は

 

「家の中でも外モードをやってよ」

 

と思うわけですが、家の中でも「外モード」ができる可能性があると私は考えます。

 

前回も説明しましたが、アスペルガーが人の気持に立てないのは、一次関数でイメージできます。

 

一次関数は、

 

aX+b

 

で表せるわけですが、仮に2X+3とします。

 

そのときにアスペルガー夫を3、カサンドラ妻を2としてみます。

 

この値をXに代入すると

 

夫は9になり、妻は7になります。

 

人の気持に立てない夫はXに「自分自身の3」しか入れられません。なので答えも9で固定されます。

 

つまり、アスペルガー夫の考え方は常に固定されているわけです。

 

それに対して、妻は人の気持に立てるので、「自分自身の2」以外の数字を入れることができます。なので、答えも7以外のあらゆる値を取ることができます。

 

つまり、妻は、人の立場に立てば、柔軟に考え方を変えることができるということです。

 

 

夫が外で外モードになっているとき、一次関数のXにはなにが入っているでしょうか?

 

私はやはり、夫が持つ数字の3が入っていると思います。アスペルガーである以上、人の気持に立てないのですから、3以外の数字は入らないと思います。よって答えも9で固定しています。

 

なにが言いたいのかというと、

 

アスペルガー者は、外モードであっても人の気持に立っているわけではない

 

ということです。

 

外モードは、自分の身を守るために見よう見真似で身につけた護身術

 

だと言えるのではないかと私は思います。

 

アスペルガー夫が家で内モードになるのは

 

・ 仕事から帰ってきて、もう外モードを使う気力がないから

・ 妻を見下しているから

・ 妻を外モードの対象とみなしていないから

 

などいろいろ考えられるのですが、上記はあくまでも仮定にすぎません。

 

「なら、アスペルガー夫は家の中でも外モードを使える可能性があるのでは」

 

と私は考えたのです。

 

アスペルガーも定型発達と同様、日々学習しています。

 

なのでアスペルガー夫が、ある行為を

 

「これは妻とのいい関係を築くうえで大事だ」

 

と思うなら、その行為を、外モードとして組み込んでいくこともあるのではないかと私は思います。

 

アスペルガーの外モードも、アスペルガーの日々のサイクルの中の一つであり、外モード中でも人の気持に立っているわけではありません。

 

なので妻が理解すべきことは、

 

外モードが家の中で行われたとしてもそこに「定型発達が考えるような」心があるわけではない

 

と受け止めることです。

 

妻が「家の中でも外モードをやってほしい」と思うなら、そこは受け入れないといけないのです。

 

「外モード中でも夫に心があるわけではない」

 

と。

 

ただ、矛盾するようですが、

 

たとえ、アスペルガーであっても献身の心はある

 

アスペルガー夫は、「妻のために」と尽くそうとする気持ちもある

 

ということも事実だと思います。

 

妻が

 

「家でも外モードをやってほしい」

 

と思うのであれば、その芽をつぶさずに、地道に育てることに目を向けることが大事なのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

結婚した男性がアスペルガーかもしれない・・

 

こういう場合に、妻が男性のために努力すべきことはなにかを考えてみたいと思います。

 

【「察して」をやめる】

 

よくあるのが、妻が病気で寝込んでいるときに夫が妻の状況を考えずに「夕ご飯早く作ってよ」と言うケースです。

 

妻側からしてみれば「私が病気で寝込んでいて夕食を作れないのはわかるでしょ」、「状況を察してよ」というところですが、

 

アスペルガーは察するのが大の苦手です。言ってくれないと状況をつかむことができないのです。

 

なので、こういうケースでは「私は今日は具合が悪くて夕食を作れそうにないの。悪いけどお弁当を2人分買ってきてくれる?」

 

と言う必要があります。「2人分」というのが大事で、それを言わないと夫によっては自分の分だけ買ってきてしまいます。

 

【夫の「感覚過敏」や「こだわり」を理解する】

 

たとえば「セーターはチクチクするから嫌だ」とか、「パンツはきついのはダメ、ゆるゆるがいい」とか注文が多いので、衣類や靴に関しては慎重に買う必要があります。

 

また、味の好みについても細かいので要注意です。同じカレーでも「◯◯の会社の製品は嫌だ」というようなこだわりがあるので、違うものを用意するときは要注意です。

 

【急な予定変更を極力避ける】

 

アスペルガー者は、急な予定変更に対しては本当に機嫌を害します。

ある家族が旅行に行ったときに、子どもが「ここのお店に入りたい」と強く訴えたのですが、「それは予定に入っていない」と言ってスタスタ行ってしまったという事例があります。

 

それだけアスペルガーは、急な予定変更を嫌うということです。

 

と言っても、どうしても予定変更しなければいけないケースもあるでしょう。そういうときは、もう仕方ありません。機嫌が悪くなるのは覚悟して、機嫌がよくなるまで耐えるしかありません。火に油を注ぐことはやめましょう。

 

【見通しを先に伝える】

 

いっしょにデパートなどに買い物に行ったときに、勝手に先に行ったりしてペースを合わせないという話もよく聞きます。

こういう場合は前もって、「こことこことここに一緒に行くから、そのときに◯◯を買うよ」とあらかじめ見通しを先に伝えておくことで、勝手な行動をしないように釘をさすことができます。

 

【家庭内ルールを決める】

 

アスペルガー者は状況を汲み取るのが苦手なので、「妻が今、どういう状況なのか」ということを理解できずに、話しかけたり、自分のことを要求したりします。そういうとき、妻は「なんでわかってくれないの?」と思うでしょう。

ただ、そういうこともある程度パターン化されれば、「こういうときに邪魔してくるな」とわかってくるので、家庭内ルールを決めて

、邪魔されることを防ぐとよいでしょう。

 

【食べ物を全部食べられないように注意する】

 

「ここまではあなたの分」と決められていない食べ物は、夫に全部食べられてしまう可能性があります。

 

なので、ソーメンや鍋などみんなでつつきながら食べるものはあらかじめ、夫の分を分けておくとよいでしょう。

 

また、あとで夫婦で仲良く食べたいと思って用意したケーキも、だまって置いておくと全部食べられてしまう可能性があるので、あらかじめ「これは夫婦でいっしょに食べるために買ったものなのよ」と釘をさしておく必要があります。

 

 

【夫によっては、記念日、イベントなどに必ず協力的ではないと理解する】

 

クリスマスなどのイベント、結婚記念日など、普通は「いっしょに祝おう」と考えるものですが、アスペルガー者によっては「そんなのやる意味ある?」とか「おまえの気持ちって言うけれど、俺の気持ちはどうなんだよ」という人もいるので、そういうことに非協力的な夫に対しては「いっしょに」という考えを捨てたほうがよいでしょう。

ただ、そういう夫でも思いやりがないわけではなく、伝え方が下手なだけなので、イベント、記念日に非協力的であっても「夫は薄情者だ」と決めつけないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

変な行動、言動をとる人を見ると

 

「あの人はおかしい」

 

とたいていの人は思います。

 

これは一見当たり前のようですが、実は当たり前ではないのです。

 

なぜならAさんの行動を見て「Aさんの行動はおかしい」と思うとき、

 

当のAさんは、自分の行動をおかしいとは思っていないからです。

 

「Aくんの行動はおかしいよ」

 

と言ってもAくんは、

 

「えっ、僕の行動のなにがおかしいの?」

 

というでしょう。

 

このことから言えるのは

 

「おかしい」はおかしくない

 

ということです。

 

今回の記事で、私が言いたいことは、

 

「おかしい」をおかしいのままで終わらせるのはもったいない

 

ということです。一歩進んで、

 

おかしい人から学ばせていただく

 

という発想です。

 

「おかしいと思う人からはなにも学ぶことはない」

 

「しいて言えば反面教師としてだろう」

 

と思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。

 

学ぶことはいっぱいあると私は思っています。

 

では、どのように学ぶかですが、

 

具体的には、次のように(心のなかで)思います。

 

本人がおかしくないというんならそうなんだろうな

 

まずは、

 

相手の行動を全面的に受け入れる

 

ということです。

 

そこから

 

・ なぜ本人はおかしくないというのだろう

 

・ おかしくないとすればそれは新しい常識なのだろうか

 

・ 脳科学的に説明できないだろうか

 

などと膨らませていきます。

 

必ず、おかしいと思われる出来事にもそれなりの理屈はあるのです。

 

そこを追求すると、実はとても奥深いものであると気づくはずです。

 

学べば次から対策を打てます。

 

対策を打てれば自分のメンタルも楽になります。

 

 

 

また、人は成功や楽しかったことからは学ぶことができません。

 

人間はたいてい、失敗したり、苦しいから学んでいます。

 

どんなことも「学び」だと思えば人間は進歩できるのだと思います。

 

また、これはあくまでも私の考えなのですが、

 

人から学ぶときは、「その人のことを正したい」という気持ちを持つと「思考が曇ってしまう」

 

ということです。

 

人から学ぶときは

 

その人はその人のままでいい

 

という気持ちを持つほうが思考が曇らず、より正解に近づくのではないかと私は思います。

 

 

 

アスペルガーの勉強をしてアスペルガー特性を十分理解しても

 

「私の力でうちの主人の素行は治る」

 

と信じ込んでいるカサンドラの方が一定数おられます。

 

しかし、夫の素行がアスペルガー特性から出ているのなら、それは絶対に治らないのです。

 

「モラハラ夫=アスペルガー」とはかぎりませんが、モラハラには

 

ハネムーン期→緊張期→爆発期

 

というサイクルがあります。

 

妻は、ハネムーン期には「主人は心を入れ替えた」と喜び、爆発期にはまた失望します。

 

その永遠のサイクルに妻が取り込まれてしまい、抜け出せなくなっているケースもあります。

 

人生全般について言えるのですが、

 

何事もあきらめが肝心

 

です。

 

難関資格にチャレンジし、何年たっても合格する見込みがないのなら引き際も大事であり、それは夫婦関係についても言えると思います。

 

つまり、

 

離婚や別居について早めに決断するか、夫を「ATM」として受け入れる

 

ということです。

 

「夫に療育」と考えているカサンドラの方もいるようですが、それは無理だということは以前お話したとおりです。

 

「夫は自分がアスペルガーであるということに無自覚だから素行が悪いのだと思います。だから自覚を持てば素行はよくなるはずです。」

 

とおっしゃる方もいらっしゃいます。

 

「自分はアスペルガーだという自覚を持てば、「あっ、今、僕は特性が出ちゃっている」と思うから悪い素行を直せるでしょ」

 

という理屈です。

 

しかし、

 

夫が自覚を持ったとしても特性からくる変な行動は出ますし、アスペルガーである以上「人の身になる」ということはできない

 

のです。

 

そういう場面では、カサンドラ妻側が相当広い心を持つ必要がありますが、「主人が自覚しているのなら私は広い心で対応します」という妻と、「自覚したらもうちょっとましになると思ったのに」と失望する妻に分かれるかもしれません。

 

 

アスペルガー特性を理解したにもかかわらず、「夫は治る」と信じているカサンドラ妻は、心のどこかに淡い期待を持っているのでしょう。

 

その「淡い期待」をどこかで断ち切る必要があるのです。

 

また、カサンドラ側にも問題があるケースがあります。

 

・ 子供の頃、親から十分な愛情をもらわずに大人になってしまった。

・ 父親の素行が悪くアダルトチルドレンとして大人になってしまった。

・ 親から厳しく育てられ、自分の意見を言えない大人になってしまった。

・ パーソナリティー障害になっており、「見捨てられ不安」がある。

・ 「周りに注目されたい願望」や「悲劇のヒロイン」を演じて同情を買いたい願望がある。

・ 「この人には私がいなければだめ」というように共依存の関係になっている。

・ 妻側にもADHDなどの大人の発達障害が見られる。

 

もちろんカサンドラ側にこのような問題がないケースもありますが、

 

上に挙げた問題があるケースでは、問題は複雑に絡み合い、簡単には解けない問題となってしまいます。

 

なので、問題が複雑に絡み合っている場合は、こんがらがった毛糸の玉をほぐすように、一つ一つ解決していくよりないのです。

 

人間はどう生きても、それは「その人の一つの人生」であり、他人からどうのこうの言われる筋合いはないと私は思いますが、

 

今回の私のブログを読んで、一つのヒントになり、「やっぱり違う人生も歩んでみたい」と思われるのであれば、今回私がこの記事を書いた意義はあろうかと思います。

 

 

 

 

 

 

これまで多くの方からアメンバー申請をいただきましたが、通したのは数人です。

 

私のアメンバー記事にはそれほど重要なことは書かれていないので、読まなくても問題ないと思っています。

 

たとえば自分への戒めのために書いた記事で、まわりの反応がよくなかった記事は、あとからアメンバー記事にすることが多いです。

 

カサンドラの方は、アメンバー記事以外を読んでくだされば、十分参考になったり、お役に立てるようになっていると私は思っています。

 

私のアメンバー記事を読みたいと思って申請してくださる方は、わらにもすがる思いで「もっと情報を」と思っているのだと想像します。

 

そういう意味ではお役に立てないと思っています。

 

なので、今まで申請に対して通したことはほとんどなかったのですが、それでも「アメンバー記事を読みたい」という方は、申請と同時に、切実な思いをコメントしていただけたらと思います。

 

「主人のことですごく悩んでいて、アメンバー記事が参考にならなくてもいいから読んでみたいです」

 

というようなコメントをいただけたら、申請を通すことをお約束いたします。

 

無言の申請だと切迫さがわからないので通しにくいのです。

 

「申請が来たら誰でも通せばいいじゃないか」

 

と思った方もいるかもしれませんが、一応、私の方針は以上のとおりですのでよろしくお願い致します。

 

 

 

 

いつも渋滞しない道なのに、なぜかその日は大渋滞が起こって会社を遅刻した。

 

いつも朝、当番の人が早めに出勤して日中の準備をしてくれているのに、その日に限って新人が当番になって、なにも準備されておらず、あとから出勤した自分が、なにからなにまで準備するはめにあった。

 

こういうときはイライラしたり、腹がたったりするでしょう。

 

大渋滞のケースでは怒りの矛先をどこに向ければよいかという気持ちになりますし、新人が当番のケースでは、新人を呼び出して、厳しく注意したくなるでしょう。

 

人は天気現象や自然現象に対しては「なんで雨が降ったんだ」「台風がなんでこっちに来たんだ」と多少は思うものの「天気に文句を言ってもしょうがない」と諦めます。

 

人に対して怒りたくなるようなケースもそれといっしょです。

 

「新人が準備してくれなかった」も単なる自然現象と考えてみてはどうでしょうか。

 

腹が立って新人を激しく叱ってやりたいという気持ちが湧いてきたら「これは私が神様に試されているのだ」と心に唱えてみるのです。

 

 

どんな出来事も万事が万事うまくいくということはありません。

 

10回のうち8回ぐらいは普通にこなせていて、1〜2回は必ずといっていいほどなんらかのトラブルに巻き込まれるものです。

 

なのでトラブルに巻き込まれたときは、

 

「8回は順調なのだ」

 

と唱えてみるのもいいかもしれません。

 

また、人間は順調なときよりも不調なとき、トラブルが起こったときに、成長することも多いものです。

 

なので、

 

「ピンチはチャンスだ」

 

とか

 

「これは自分の成長のために訪れたのだ」

 

と唱えてみるのもよいかもしれません。

 

人間は怒っているときはぜったい冷静になっていないのです。

 

冷静な心がなければ冷静な判断もできないし、正しい行動を起こすこともできないのです。

 

まずは自分が自分へ言い聞かす

 

そういうことを心がければよりいっそう自分を成長させられるのではと私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

西遊記という小説の中で、孫悟空という主役が登場します。

 

孫悟空はあらゆる術を身に着け天狗状態になっていました。

 

そのとき、お釈迦様が現れて、「私の手のひらから脱出することができたならあなたを自由にさせよう。しかし、脱出できなかったら、私はあなたを岩に閉じ込めるだろう」と言いました。

 

孫悟空は「そんなのは簡単だ」と言って筋斗雲を使って、脱出を試みます。

 

孫悟空は世界の果てと思われるところに来て、そこに5本の柱をみつけます。

 

孫悟空は「とうとう俺は世界の果てに来たぞ。お釈迦様の手のひらから脱出できたのだ。」と言って、柱に小便をし、柱に自分の名前を書きます。

 

ところがお釈迦様が現れて、「あなたが柱と思ったのは私の指です。」と言いました。

 

つまり、孫悟空はお釈迦様の手のひらから脱出できなかったのです。

 

そして、孫悟空は岩の中に閉じ込められたのでした。

 

このエピソードは現代において、威張ったり、高飛車になっている人たちを戒めるエピソードだと私は思います。

 

最近、「炎上」という言葉をよく聞きます。

 

過ちを犯した人をSNSなどで叩く行為です。

 

SNSなどでたたく人たちはまさしく「お釈迦様の手のひらの中の孫悟空」だと私は思います。

 

叩いている人たちは「自分は正義だ」「悪いことを正す」「自分は正論を言っている」などと思って投稿しているのだと思いますが、けっきょくは、お釈迦様の手のひらの中で転がされているだけなのです。

 

今回のブログ記事は自分への戒めとしても書いています。

 

イメージとして、私たちが住んでいる地球は、お釈迦様の手のひらの上にあって、お釈迦様にすべての行動、言動が見透かされているのです。

 

私たち、人間は決してお釈迦様に操られているわけではありませんが、高飛車になったときは、

 

まずは上から目線になることをやめ、

 

「自分は決して偉くもないし、正義でもない、知らないことだらけだ」

 

「自分はお釈迦様の手のひらにいる」

 

「私は井戸の中の🐸なのだ」

 

と思うことが謙虚な気持ちを持つうえで大事なことではないかと私は思います。

 

 

 

 

「ASDはマルチタスクが苦手」と言われています。たとえば、

 

職場でZ先輩が

 

「Aくん、この仕事をやっておいて」

 

と頼みました。

 

Aさんは「わかりました」と言ってその仕事に取り掛かりました。

 

それから1時間後、本来やらねばならない仕事の時間になりましたが、Aさんはその「本来やらねばならない仕事」はそっちのけで、Z先輩から頼まれた仕事をひたすらやっていました。

 

それからさらに1時間後、Y先輩から

 

「Aくん、なんで(本来の)仕事をやっていないの」

 

と指摘されました。するとAくんは

 

「この仕事をZ先輩から頼まれたので今やっています」

 

と答えました。

 

Y先輩は

 

「それ、今やらなくてもいいことでしょ。それより本来の業務をちゃんとやってください」

 

と注意しました。

 

ASDの仕事ではこのようなことが起こりえます。

 

上記事例ではASDにおけるいくつかの特性が出ています。

 

1 ものごとの全体が見えない、部分的にしか見えない。なので、「なぜ自分が今この仕事をしているのか」ということがわからないまま仕事をしている。

 

2 過集中 一度それに取り掛かるとそれだけにものすごく集中する

 

3 こだわり ASDはあることにこだわると定型発達からみたらどうでもいいことでもそれをやらずにはいられなくなります。

 

4 どれが重要(緊急)なことで、どれが重要(緊急)でないことかという優先順位がつけられない

 

5 マルチタスクが苦手

 

以上が考えられます。

 

なぜ、ASDがマルチタスクが苦手かというと脳のメモリに関係しているようです。

 

パソコンのメモリと同じで、一時的にとどめておく記憶の部分が定型発達よりも少ないため、なにかを記憶にとどめておきながら、他の別のことも行うということができないのです。

 

そのため、マルチタスクが苦手な人は、なにかを終わらせたら次、そして次のものを終わらせたら次・・・というように順番にこなしていくしかなくなるのです。

 

そのため、上記例のように、本来の業務時間が来ても、今やっている仕事をやり遂げようとして本来の業務が置き去りにされてしまうのです。

 

定型発達の場合でもなにかをはじめてしまうと、途中で他の仕事に切り替えるのは難しい面もありますが、ASDの場合は、それが「より強化されている」と言えるでしょう。なので、いったんASDがある物事を始めてしまうとてこでも動かなくなってしまうのです。

 

職場においてASD者がいる場合、そういうASD特性を理解しつつ指示を出せば、仕事のミスを未然に防止できると思います。

 

また、本来の業務が放置されているときは、さりげなくそちらのほうへ促すことも必要になってくるでしょう。

まず、あらかじめ断っておきますが、今回の記事は決してやす子氏を批判するものではありません。

 

私の思ったことを書くだけの記事です。

 

「人生のオリンピック、人間は生きているだけで偉いからみんな優勝でいい」

 

私も上記の内容と似たような内容を30代の頃にネット投稿したことがあります。私は、ある掲示板に、

 

「人間は生きる努力をしているのだから、努力していない人は誰一人いない」

 

と投稿しました。

 

今、50代の私が改めて読み返してみてもそのとおりだなと思います。

 

ただ、このような内容はすべての人に賛同してもらえるかと考えた場合、そうではないと思います。

 

今、現在、オリンピックに参加している選手たちや、人気ユーチューバーなどの心には響かないでしょう。

 

オリンピックに出るような人たちは、メダルしか見えていない人たちです。逆に「生きているだけで優勝」なんて言ったら、

 

「今までメダルを取るために血のにじむような努力をしてきたのに、生きているだけで優勝なんてありえない。メダルを取ってはじめて私は生きていることを実感できるんだ」

 

と言うに違いありません。

 

このように、「生きる意味」は人それぞれだとわかります。

 

私の息子は、小学生の頃

 

「お父さん、なんで人間は死のうと思わずに生きていると思う?」

 

と私に聞きました。

 

私は、「○○(息子)はなんでだと思う?」と逆質問をすると、

 

「人間は死ねないから生きているんだと思う」

 

と答えました。

 

小学生の頃の息子が言った答え、私もそうなのだと思います。

 

私も、人間は死ねないから生きているんじゃないかと思います。

 

ここで話をまったく別の話題に変えます。

 

フワちゃんを擁護する人たちに対して異を唱える次のような書き込みがありました。

 

「こういうときは擁護するのではなく、叱ってやるのが大人というものでしょ」

 

これに対して、私の思うことを書きます。

 

みんなで加害者のことを叱ったら、それは「叩き」と言います。

 

もう十分制裁を受けた人に対して、叱る必要はありません。

 

「擁護」というと「甘やかし」ととらえる人もいるようですが、そんなことはありません。

 

むしろ、一人の人間を「一人の独立した意思のある存在」として見たときに、誰かが擁護してあげるのも同等に大事なことではないかと私は思います。

 

人を叩けばいずれ自分が叩かれます

 

人間は決して強い存在じゃないから。

 

そういうことをわかっている人たちが擁護をするのではないかと私は思います。