針路は、北。 (北海道滞在・パークゴルフ・車中泊・ワインがある生活)

針路は、北。 (北海道滞在・パークゴルフ・車中泊・ワインがある生活)

残りの人生あとわずか。一年の半分は北海道で暮らし、パークゴルフ三昧で暮らせたら‥‥。

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知床という地名の由来は、アイヌ語の 「シレトク」 ( sir etok 地山の先) からきている。

地の果て、だ。

半島、岬はみんなそうだが、いずれも 「ここに地尽き、海始まる」 所だ。


先住民族・アイヌの人にとって知床が地の果てなら、

下関に住む私にとっても、知床は日本列島で最も遠い地の果てだ。

直線で1500㎞以上、根室の納沙布岬よりも遠い。

最果て、地の果て、という言葉には浪漫と旅情が漂い、人を惹きつける力を持つ。


その、地の果て知床の玄関口・宇登呂に、「北の我が家」 からは片道3時間で行くことができる。

宇登呂港からクルーザー観光船で知床岬までは往復3時間だ。

車中泊を伴わない一日の小旅行にはうってつけの場所なのだ。

‥‥で、行ってきた。


海岸に連続する断崖絶壁、海に流れ落ちる数々の滝、出没するヒグマ、イルカの群れ。

知床の魅力は、味覚を含めていろいろあるが、

それらは、私にはどうでもいい。

私の目的は、知床岬灯台をこの目で見ること、それに尽きる。


5年かけて日本列島の海岸線を一周し、全国の主要な灯台360基を訪問してきたが、

世界自然遺産に登録された知床半島の大部分は一般人立ち入り禁止で、

その先端にある知床岬灯台は見残してきた数少ない灯台の一つなのだ。


私の中にある知床岬灯台のイメージは、むかしの画像で見たもので、

世界遺産に登録されてから、場所を移動して建て直されている。


知床岬灯台1

知床岬灯台2

白い灯塔に、赤い帯や黒い帯が塗装されているのは北国・雪国の灯台の特徴で、

雪の白さの中でも、灯台の存在を舟人に知らせるためだ。


知床半島は立ち入り禁止地域だから、当然、上陸できない。

遥か沖合から眺めるだけだ。

ただ、ただ、それが残念だ。

私の灯台訪問は、遠望することではなく、陸路を歩いて灯台までたどり着き、

「頑張れよ」 と灯塔を手で撫で、

入口に掲げられた 「初点プレート」 をカメラに収めてくることだったが、

知床岬灯台の場合、それらはすべて諦めるしかない。


が、灯台訪問時の最後の儀式だけはできる。

灯台への 「敬礼」 だ。

クルーザー観光船の最後尾のデッキに直立して、敬礼をしてきた。


風雪に耐え、厳父のように海を見つめ、慈母のように暖かい灯りを舟人に届ける。

GPSの発達は灯台の必要性を薄いものにしてしまったが、

世の中がどんなに変わっても、岬の先端には灯台が似合う。

小樽港に上陸して20日が経った。

17日目の金曜日に家人が新千歳空港に降り立ったので迎えに行った。

オホーツクの町から新千歳までは315km。 4時間の道のりだ。

単純に行って帰るだけでは勿体ないので、この機会にいくつかの懸案を済ませた。


一つは、

私がPGを覚えた大切な場所・新冠の西泊津ヒルズのPG場を一年ぶりに再訪した。

コース整備や芝刈りのスタッフは総入れ替えになっていたが、管理人は変わっていない。

私をPGの虜にしたお師匠さんのF氏と再会を果たした。

F氏といつも一緒のO女史は闘病中だったが、F氏は老いてますます盛んだ。

今夏もまたいくつかの薫陶を受けて来た。


それにしても、新冠のコースはどうしてあんなに難しいのだろう。

ちっとも良いスコアが出ない。

F氏の前でいいところを見せようとするからか。

散々なスコアだったが、新冠のPG場はなぜか居心地がいい。

やはり、私にとっては永遠ののPG場だ。


新冠のラーメン屋・寶龍にも、静内の居酒屋・赤ひげ にも、当然、訪れた。


もう一つは、

千歳のPG用具店で、クラブのグリップを取り換えてもらうこと。

私のPG歴は2年なのに、クラブだけは立派なものを持っている。

1本は 「よそ行き用」 で、腕前に似つかわしくない上級者用クラブだ。

樺瘤(カバコブ) のクラブで、愛称は 「瘤太郎」。

「旅打ち用」 は予備を含めて2本あって、これも樺瘤のクラブで、愛称は 「瘤次郎」 「瘤三郎」。

瘤次郎と瘤三郎は同じスペックだ。


瘤次郎・瘤三郎のグリップと瘤太郎のグリップは形状が極端に異なる。

どちらかに形状を合わせるとなれば、瘤太郎の方に、となるのが必然だ。

グリップの交換は素人でもできるというが、餅は餅屋だ。

交換は短時間で済んだ。


早朝にオホーツクの町を出発して、家人に会うまで3泊を日高で過ごした。

家人を出迎えたら、4時間、ガラガラの道央道と旭川・紋別道路を走り切った。

4時間の運転は苦ではない。 それが証拠に、

翌日、芭露PG場で、今期の北海道で初のホールインワン。

そのまた翌日(昨日だが) 、私の2年間のPG歴で最良のスコア・24を出した。

どうやら、私は家人がそばにいなければダメな男のようだ。

今日は予報通りの雨でPGを休んだ。 

身体が悲鳴を上げそうだったから、いいタイミングでの雨だ。


オホーツクで、100㎞ウルトラマラソンが行われた日の前後も寒かったが、

北風が冷たいだけで、家の中ではそれほどでもなかった。 我慢すれば耐えることができた。

しかし、雨天の今日は、寒い。 底冷えがする寒さだ。

家の中でも寒い。 室温は14℃くらいか。 外気温は11℃を上回らなかった。

TVでは4月の気温だと報じている。 


そこで、

ついに、ついにストーブに点火した。

A・コープで、 「ストーブをつけた」 と言ったら、レジのお嬢さんが 「内地の方ですか?」

北海道の人は、このくらいの寒さは寒さと感じないのか。

それにしても7月に入ってからのストーブ。 これも北海道ならでは、だ。


この冷たい雨が降りしきる中、町の選挙管理委員会に出向いた。

不在者投票をするためだ。

下関を発ったのは参院選告示の前だったから、

不在者投票の申請書を持って北海道に渡った。

「北の我が家」 が落ち着いてから手続きをして、不在者投票証明の書類が届いたのが昨日。

その書類は簡易書留の速達で届いた。 これだから選挙には費用が掛かるのか。

選ばれた国会議員の多くの部分はもっと巨額で悪質な無駄遣いをしているが‥‥。


これまでの参院選挙には白票を投じたこともあったが、

北海道に来てまで山口県選挙区の投票をしようとするのは、

昨今の安倍の暴走があり、それにストップをかけたいからだ。

我が山口4区では、安倍のトップ当選を許してきた恥辱の歴史がある。

立憲政治を踏みにじる野望の安倍を輩出していることが、

山口4区選挙民の一人として恥以外のなんであろうか!


今回の参院選で安倍自民が大勝すれば、

安倍は衣の下の鎧をあらわにして極右の方向へ走り出すだろう。

それは何としてでもとめなければならない。

しかし、山口は保守王国で、

人品の卑しい、元下関市長のE候補が、代議士として何の功績もなく再選されるだろう。


対立候補は、山口大の副学長を務めた政治学者だ。

纐纈(こうけつ)厚。

苗字は難しいが、E候補とは対照的に人品卑しからぬ、文字通り高潔な人物だ。

こんな人物を参院に送り込まずに、

スキャンダルの絶えないE候補を当選させたら、山口県民は恥の上塗りだ。


オホーツクの町からの、不在者の一票は悔しいけれど力不足か。

「北の我が家」 に来て11日が過ぎ、12日目に入った。

基本的は生活ができるだけの電器、家具は用意されているものの、

使い勝手がいいように配置替えを行い、

食材や調味料などの買い出しであたふたとした。 そんなバタバタのさなか、

2日目には、昨夏に旭川で知り合った車中泊の知人を招いたので、

始めの4・5日はくたばった。


それでも、2日目から10日間連続でPG場に通い続けた。

一日平均10コース。 真っすぐに打っても5㎞近く歩くことになるが、

この爺さん、あらぬ方向に広角打法で打ち分けるから、

ボールを追って歩く距離は6㎞はあろうか。

これを10日も続ければ、これまたくたばる。

でも、そのために北海道に来たのだから納得ずくのくたばりだ。


一昨日は疲れがたまっていて、早朝の3コースだけで切り上げた。

帰ろうとすると管理人さんが、

「今日は北海シマエビの解禁日で、漁組の売店で売ってるよ」

北海シマエビのことは話には聞いていたけど、どんなものか知らない。

しかし、サロマ湖の名産で、漁獲量が限られていて、漁期も短く、

正規のルートではめったに手に入らない、と聞けば買ってみようか、と。


漁組の売店前には、1時間前から開店を待つ人も。

私は2番目に並んだ。

1番乗りの奥さんの話では、毎年解禁日には12パックも買って親戚や知人に贈るのだとか。

年によっては、一人2パック限定という年もあって、

12パックを確保するために6日も並んだ、という話も聞いた。 余程美味いエビなのだろう。


1パックは浜茹でしたシマエビ500g詰めだ。 昨年は2800円だったという。

500g 2800円は高いな! と思ったが、並んでしまったから肚を決めた。

開店した売店の一角にシマエビのコーナーがあり、解禁日の朝には90パックが並んでいた。

値段を見たら、1パック 500gが3300円!

昨年より500円の値上げだ。 べらぼうな商売だ。 需要と供給のアンバランスだ。


シマエビ1

シマエビ2

シマエビ3


これをアテにビールを飲めば美味い! という。

確かに美味かったが、果たして、こんな大金を払って食べる味か?

しかし、まぁ、サロマ湖の畔の街に 「北の我が家」 はあるのだから、

郷に入れば郷の季節の味を試してみるのもよかろう。

つい先日、北の枝幸では毛ガニの祭りがあったと聞く。

だったら、毛ガニの方がよかった?




今は昔、下関市立商業高等学校(下商)が春・夏の甲子園を沸かせた時代があった。

私の記憶にあるのは、私と同年配の快腕・池永投手を擁した時代だ。

♪ 歴史に富める下関 未来に富める下関

甲子園で流れる下商の校歌を、私はわが母校の校歌よりも先に覚えた。


下関は歴史に富める街だ。 その歴史の多くは闘いの歴史だ。

源平の最後の戦は下関の壇ノ浦だった。

下関の小島・舟島(巌流島)は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場だ。

長州藩が四国連合艦隊を砲撃し、外国人水兵に砲台を占領されたのは関門海峡だ。

第二次長州征伐の四境戦争で高杉晋作が指揮を執ったのは小倉口の闘いだ。

日清講和条約は料亭・春帆楼で行われている。


宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は吉川英治の小説でおなじみだが、

その決闘を会社名にした菓子屋さんがある。 巌流焼本舗。

ここのどら焼きは美味い。 家人が太鼓判を押すのだから間違いない。

「巌流焼」 は白餡で、「おそいぞ武蔵」 は黒餡だ。 好みの問題だが私は白餡のファンだ。

この白餡と黒餡の組み合わせを、オホーツクの街でのご挨拶用に数セット持参した。


私の住宅 「北の我が家」 の向こう三軒両隣りにもお配りした。

引っ越したわけではなく、わずか三カ月の滞在で挨拶をするかしないかは各人の勝手だ。

お向かいさんとはすぐに親しくなった。

お返しにと、酒のアテやプリンを戴いた。

昨日は3時間も話し込んで、お向かいさんの人となりも把握できた。


長時間の話を切り上げようかとしている矢先、「北の我が家」 に来客があるという。

お向かいの奥さんが窓越しに 「北の我が家」 を見ていたらしい。

急いで帰ると、来客とは隣の息子さんだ。

とてつもなく大きなカレイがビニール袋に入っている。

カレイが4~5枚手に入ったからおすそわけだという。

北海道では、とにかくいろんな物を戴く。 みなさん優しくて気前がいいのだ。


これは嬉しいことだが、困った。

「北の我が家」 には、菜っ切り庖丁とペティナイフしかない。

そこでお向かいさんに持って行った。 「包丁が無いから、お宅で食べて下さい」

そしたら、「刺身にして持って行ってあげよう。 今日はお酒が美味しいよ」

私一人では持て余すから半分わけだ。 それでも余る。


私の分け前のうち、半分は冷凍保存だ。

残り半分の1/3は刺身で食べた。 残り2/3は寿司めしを作って握り寿司にして食べた。

北海道では、PGの他に、こんな生活が始まっている。

だから、北海道の虜になる。




下関を中心として正距方位図法で地図を描くと、

日本列島のほぼ全域が半径1500㎞の範囲に収まる。

直線で500㎞東に進めば名古屋で、韓国のソウルはそれより近い。

直線で1000㎞北東に進めば青森の近くまで行くが、

同じ距離でロシアのウラジオストクや中国の上海がある。


下関を中心とした半径1500㎞の範囲に収まらないのは、

北海道の厚岸(あっけし)と網走を結んだ線よりも東北に位置する部分だ。

大雑把には、北方領土の国後島が望める地域と言って良かろうか。


下関から直線で1500㎞、最も遠い所に、オホーツク海に臨んだ静かな街がある。

網走と紋別の中間だ。 直線だと1500㎞だが、最短のルートで、

下関~(陸路)~舞鶴~(海路)~小樽~(陸路)~オホーツクの街と丸二日かけて移動した。

その距離2012km。 そのうちの半分は海路で新日本海フェリーを利用した。


到着して三日間は生活基盤の整備。

その合間を見つけてPG(パークゴルフ)も楽しもうとするから、

この一週間はハードな一週間だった。


一昨日から冷たい風が吹き出した。 寒い。

昨日の午後からは雨も降りだして、昨日・今日と最低気温は8℃、最高気温は12℃に届かない。

梅雨真っ最中の西日本から逃げ出して北海道に来たのは涼しさを求めてだが、

寒さは求めていない。

5年前の礼文島・利尻島で震え上がる寒さを経験しているから、

長袖シャツやユニクロのダウンを持参しているが、それらの用意が無かったら‥‥。


今朝5時には、サロマ湖100㌔ウルトラマラソンの号砲が鳴った。

信じがたいことだが、100㌔の想像を超えるマラソンに4000人余が参加している!

完走率は82%に迫るというから、これも驚きだ。

スタート地点で激励の拍手を送ったが、時折降る冷たい雨の中をどんな走りをしているやら。


100kmマラソン1


100kmマラソン2


100kmマラソン3

出場者の多くがゴールするまでに10時間以上を要するという。

たいした健脚と心臓と強い意志を持った人たちだ。 脱帽。

5。


4。


3。


2。


1。


Zero!  行くぜぃ! 北東に針路をとれ! 

昨夜のワイン会・葡萄舎騎士の会は、

私を除けばすべて女性で、さながら女子会の様相を呈した。

「女が三人寄れば姦しい」 というから、どんなワイン会になるかは想定内だったが、

実際にそうなってみると、いやはや‥‥。

女という生き物は男がいるところでは猫をかぶっているに過ぎない、

と認識を改めなければなるまい。 この歳になってからでは時すでに遅しだが。


葡萄舎で行うワイン会では料理はワンディッシュ持ち寄りだ。

騎士の会連絡用の掲示板を使って、

持参のワインと料理を表明したものから決まっていき、

各人のワインと料理が確定してから主宰である私と家人のワインと料理を決める。

それで変化に富みながらバランスが取れて、まとまったコース料理になるから大したもんだ。

「食」 を楽しむことにかけては人後に落ちないメンバーが、

昨夜の料理をレストランで注文すれば7~8000円と評価が一致した。


騎士の会 16.5.18


今夜は、181回目の Club Vendange 。

会場は下関GH の Bleu Fonce 。

私は二晩続けてのワイン会だが、参加メンバーは異なるので、

ワインリストの台紙は昨夜のを流用した。


CV 16.6.19


今夜のワイン会が終われば、あとは寝て明日を待つ。

明日は一気に1速から5速にギヤチェンジだ。

昨日は郷里の長門市から同期生が三人、来た。

中学~高校の同期生が一人、高校の同期生が二人の計三人だが、

この三人が男性ではなくて女性というところが私の私たる所以だ。

ガキの頃から私は、絶えず異性から関心を持たれる対象であり、存在だったのだ。

‥‥と、言いたい放題を言っておこう。


私の動向はいろんな形で郷里の同期生仲間にも伝わっているらしくて、

女三人が集まってどこかにランチに行こう、となった時、

いまなら、まだ私が下関にいるらしい、と誰かが言い、

下関でのランチが決まった、という次第だ。

で、長府から少し遠いが、胡大厨師の店まで車を走らせた。

下関在住の、同期のU (これは男性) にも声をかけて、ミニ同期会と相成った。


今日は下関もはずれの小月に住んでいる同期のY (これも男性) が来た。

赤い果物がいっぱい入った袋をぶら下げて。

「李(スモモ) か?」 と聞いたら 「いや、プラムだ」 との答え。

フゥ~ンと頷くしかないが、スモモとプラムとどう違うんだろう。


甘酸っぱくてジューシーなスモモは、初夏から夏にかけて多く出荷される果物だ。

スモモは大きく分けて、中国原産の「日本スモモ(プラム)」と、

ヨーロッパコーカサス原産の「西洋スモモ(プルーン)」の2つに分類され、

それぞれ色や味わいが異なるのだという。

ちなみに、スモモは英語で 「プラム」、フランス語で 「プルーン」 というらしい。


日本スモモはおもに生食用として栽培され、

西洋スモモは生食用のほか乾燥用やジャム、コンポートなど加工用としても栽培され、

健康補助食品で有名な「ドライプルーン」は西洋スモモを乾燥させたものだという。

「李下に冠を正さず」 ということわざの 「李」 とはスモモのことだ。


結局、スモモ=プラムじゃないか。

でも、「李(スモモ) か?」 と聞いたら 「いや、プラムだ」 とYは言い張るのだから、

何らかの違いはあるのだろう。 

ちなみに、彼が持ってきたのは自宅の庭にできたプラムだという。

ま、食べて美味しければ何でもいい。

今夜はちょうど葡萄舎騎士の会で、ワイン仲間が集まる。

格好の食後の果物が用意できた。 持つべきは友達だ。

朝6時に国宝・功山寺仏殿の裏山まで墓参に行ってきた。

7月初頭の父の命日に墓参できないからだ。


ひと夏を北海道で過ごすとなれば、

父の命日どころか、伯父の初盆も失礼しなければならないし、

8月末の母の誕生日も電話でおめでとうを言うだけだ。

母の場合は、おめでとうよりも 「元気でいるか?」 の方が先になるが。

今夏は、私の9月の誕生日も北海道で迎えることになる。


学生時代・独身時代を除けば、

私が自分の誕生日を自宅以外で迎えるのは今夏で2度目となる。

1度目は、シルクロードを2か月かけてバスで走破している最中にイランのシラーズで迎えた。

同行者から祝福してもらい、祝宴も設けてもらったが、

祝いの飲み物は日本から持参した緑茶で、祝いの食べ物は小倉羊羹一切れ。


イランは禁酒の国だから、

私の誕生日を含めてイランを旅行している2週間はノー・アルコールで過ごした。

酒が命の水である私にとって、あんなに辛い2週間はなかった。

禁酒国・イランでも、闇ルートで酒は飲めるし、旅行業者を通じて誘われもしたが、

酒浸りの人生で、2週間なら酒を抜いてもいいか、と断った。

イランという国を、人なつこい国民を、長い歴史を、乾燥しきった自然を嫌いじゃないが、

いま 「タダでイラン旅行に招待する」 と言われても、即座にお断りする。

私の存命中に、イランがアルコールを解禁することは絶対にないから。 


SARAY 号の床下収納スペースには、すでに紙パック入りの球磨焼酎が10本積んである。

球磨焼酎が10本あれば、北海道で一日一合飲んでもひと夏は飲める。

ビール、発泡酒、ワインは現地調達できるが、焼酎となると‥‥。

北海道でも焼酎は手に入る。 

しかし、そのほとんどは 「白波」 とか 「霧島」 といったイモ焼酎だ。

米から作る球磨焼酎はめったに見かけない。

品数豊富な大型ディスカウント酒店で、せいぜい 「白岳」 がある程度だ。


酒を愛し、旅を愛した文人・歌人のなんと多く、酒と旅がテーマの作品のなんと多いことか。

酒のない人生が味気ないように、酒のない旅は辛い。

酒あっての人生、酒あっての旅だ。

このことに異論を唱える人はいる。 身近にも、居る。