たいして親しくもない人なら気にならないのに、家族や友達や恋人がちょっと心ない言動をすると、ひどく幻滅して許せない気分になる。そういうのってありませんか。

 

私は自分の親しい人に、過剰に期待してしまうところがあります。理想の押し付けってやつ。理想の友人像、恋人像、家族像みたいなものが、現実とはずれたところにあるのに、こうであるはずと思い込んでしまう傾向が強い、みたい。恋人とか家族だとさすがにダメなところもわかってるけれど、友人に関してはその距離にもよるけど、わからないところって実は多い。で、よくわかってもいないくせにある程度親しくなると、相手のことを、こういう人間のはずだ、と、自分の理想に近い方に、少しゆがめてみてしまう。周囲から、あの人はそんな立派な人ではないよ、こんなことをしていたようだよ、こんなひどい面があるんだよなどとと言われても、いや、本当は強くて美しい心を持った人なのだけれど、なにかそういうことをせざるを得なかった特別な事情があったのだろううと、無理矢理に仮説を立てる。批判されると頼まれてもいないのにかばう。ところが最終的に、尊敬していた人の行動の動機が大した理由もなくただ下卑たものであることに気づかされて、自分の理想とその人の実像があまりにも乖離しているのに気づき、激しいショックを受けてしまう。

 

 

このときの理想、と言うのは、頭がいいかどうかとか、美しいかどうかとか、世間的な評価がどうかということでない。もっと単純な基準が私のなかにあるのに気づいたのは、ずいぶん年を重ねてからです。私が誰かに幻滅するのは、普通に誰でも持ち合わせている程度の罪悪感がないなあとか、必要以上に人を傷つけても平気でいるように感じられたとき。

これは自分が無理をし過ぎたことと関係あると思う。私は理系時代にまわりじゅう男の子だったので、話の分からない女だと思われたくなくて、女の子をひどい目に遭わせた男の人の話を、まわりに合わせなきゃと変に頑張りすぎました。平然とした顔を作りふんふんと、驚いていないふりして残酷話を聴いてた日々が長かった。女の人が男の人を傷つけるのを自慢げに話すのも、周りの友達と一緒に面白がってる顔を作って聞いてた。そうしないと仲間から外されてしまいそうで怖かったのか、カマトトぶりたかったのか自分。たぶんどっちもだと思う。話をしてる方も、私の顔色を窺って、どう反応するか楽しんで、話の残酷さに色を付けてた気がする。で、女だとめったにそういう話を聞ける機会ってないから私の方は、そんなひどいことをするのあなたって信じられない、なんて茶々を入れて話の流れを止めるよりは終わりまで聞きたくて、うわーやだやだこいつと思いつつもしかめ面にならないように必死になって笑ってるフリしてたような。

 

この無理があとになって効いてきた。今は、この手の、ちょっと聞くに堪えない。いい年なんだし、もうあんな無理はしないよ。人を傷つけた話を自慢げにする人、人の不幸や失敗を嬉しげに語る人とは、慎重に距離を保つ。でもそういうのを面白がっちゃう性質が人間にはやっぱりあるよね。わかりやすい、小学生にもわかる笑いってそういうのだったりする。テレビなんかでもそういうお笑いは多いけれど、やっぱりこの年にして思うのは、そういう笑いは下等だし、幼稚だ。

しかしこう書いてる私の中にも、胸に手を当てて考えてみるに、そういう気持ち――人を傷つけて得意になったり、人の不幸や失敗を喜んだり――という気持ちが生まれることはある気はする。しかしそれを躊躇なく自慢げに人に話せちゃうというのはいい年した大人がやることじゃないと思う。傷ついたり失敗したりした人を笑うタイプの笑いというのは一時的にだけ盛り上がることはできても、最終的に嫌な気分になる。そういうことで喜んでしまう自他ともに嫌いになって苦しむことになるんじゃないかな。少なくとも私はそうです。親しい人がそういうのを平気だったらショックです。

 

★カポーティー『感謝祭の客』がなぜ美しい話になっているのかというと、いくら正しいこといっても、人を故意に傷つけるのは恥ずかしいという感覚を主人公が持ってるからだよね。これについてはまた。