(序)フィル・スペクターの略歴


ニューヨーク州ブロンクス出身、父の死後にロサンゼルスに移住。十代の頃から音楽活動を始め、テディ・ベアーズを結成。「会ったとたんに一目惚れ」("To Know Him Is To Love Him")が全米1位のヒットとなった。テディ・ベアーズでの彼の役割は、ギタリ スト、バックアップ・シンガー、そしてソング・ライターだった。



チャートNo.1に輝いた「To Know Him is to Love Him(邦題は“逢ったとたんに 一目ぼれ”)はスペクターが9才の時に自殺した彼の父親の墓石に彫られていた言葉だ。

1961年にフィレス・レコードを設立。1963年、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」がヒット。複数のテイクを録音しそれらを重ねていく(オーバーダビング)作業を何度も繰り返して作られた分厚いサウンドは、当時としては非常に斬新なものであった。


彼が集めた有能なセッション・プレイヤーたちは" レッキング・クルー"と呼ばれた。その中にはギタリストのグレン・キ ャンベル、ピアニストのレオン・ラッセル、ドラマーのハル・ブレイン、すでに亡くなったソニー・ボノがいる。ソニー&シェールで60年代に大ヒットを飛ばしたソニー・ボノもスペクターのもとでプロデューサー業を学んだ。


ちなみにソニー&シェールの伝記映画を見ると、スペクターはシェールの才能をいち早く見付けたわけではなく、むしろ逆だったらしい。無名だった頃のシェー ルはスペクター・プロデュースの曲の幾つかでバックアップ・シンガーをやらされている。ライチャス・ブラ ザーズの「アンチェインド・メロディ」もこの頃の彼のプロデュースだ。


「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれたスペクターの音作りは音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えた。当時はまだ録音技術が発展途上だったゆえ、この手法での録音作業は完成までかなりの時間と労力を要したが、スペクターは偏執的なまでに理想とするサウンド作りにこだわった。またステレオ録音が主流となってもモノラルにこだわり続けたところに、彼の偏執ぶりがよく現れている。1963年のアルバム『A CHRISTAMAS GIFT FOR YOU FROM PHIL SPECTOR』はクリスマスアルバムの定番として有名である。


またスペクターは早い時期からビートルズと親交があり、1970年発表のアルバム『レット・イット・ビー』のプロデュースを手がけた。オーバー・プロデュースとの批判も受けた(ポール・マッカートニーは、ロング・アンド・ワインディング・ロードにストリングスやコーラスを入れられ、曲を台無しにされたと激怒した)が、バンド解散寸前の散漫なセッション録音集を一作品として短期間のうちにまとめ上げた手腕にジョン・レノンとジョージ・ハリスンは感銘し、それぞれのソロ・アルバムでスペクターをプロデューサーとして起用している。


1968年、スペクターはロネッツのリードシンガー、ロニー・ベネットと結婚するが74年に離婚。だがその後もロニーはロニー・スペクターの名前でレコーディン グを続けた。スペクターはこれまで、異なる結婚から5人の子供を得ている。

1970年代以降もプロデューサーとして活動していたが、時流からは外れたところにあった。麻薬の常習や、作業中に意見の対立したレノンを拳銃で脅したり、出来が気に入らないマスターテープを勝手に持ち帰って雲隠れしたりといった数々の奇行も知られている。1989年、ロックの殿堂入り。


(1)事件の発端

2003年2月3日、全米に衝撃のニュースが走った。ロックの殿 堂入りを果たしている伝説的なプロデューサー、フィル・スペクターの自宅で若い女性が死体で発見されたというニュースだ。以下は同日の午後11時55分、まさに日付が変わろうとする時に出された速報だ。



ロサンジェルス発-- 2003年2月3日 東部時間午後11時55



スペクター 100万ドルの保釈金で釈放へ
被害者は20代の女性か[続く


フィル・スペクターの殺人事件(序1~19)

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