4.小劇場の時代のせいで

西太平洋の緑の真珠と人知れず呼ばれている気仙沼大島で、ガランとした倉庫みたいな民宿に辿り着いた僕たち6人。このあと降りかかってくる悲劇の幕開けとしては十分なシチエーションだった。

こういう事態になったのは唐十郎の紅テントのせいだった、と言えなくもない。

ここで当時の世相というか学園相の説明を少し。

60年代の後半。唐十郎の状況劇場が新宿の花園神社で公演を始める。寺山修司の劇団天井桟敷が新宿伊勢丹の向いにあった蠍座で公演を始める。私がいた大学には鈴木忠志の早稲田小劇場があった。

状況劇場と天井桟敷の団員同士が新宿の街中で大乱闘を繰り広げて警察のご厄介になるという事件が新聞種になる。世は小劇場の時代に突入していた。



明治通りを挟んで新宿伊勢丹の斜め前にあった蠍座


友人のGは集中治療室大学に入るとすぐ大学の小劇場に入る。一方、僕はキャンパスに散歩にいったついでに喫茶店モンシェリの2階にあった早稲田小劇場にふらりと立ち寄る。このときは劇団員は誰もいなくて小屋の中には何脚かの椅子が転がってるだけだった。イヨネスコの『椅子』かなんかを上演するのか? 思いながらすぐ引き上げた。だいたい僕は戯曲は読むんですが観劇にはさっぱり興味がない。

大島で死にそこねてから6~7年後。TとGが始めたビデオ活動に僕も参加して、根津甚八がスターだったころの状況劇場や寺山の天井桟敷の劇をビデオで録ることになるんですが、それはまた別のテーマを立ててお話します。

本筋に戻りましょう。夏休みの大島行きを計画した当初は集中治療室大学の小劇場のメンバーが大勢参加するはずだった。それが期日が近付くにつれて1人減り2人減りして総勢6人にまで縮小した。

民宿のブッキングをしてくれた人は学生が大挙して押し寄せるという前提で宿を選んでいた。僕らが倉庫のような民宿に辿り着いたのにはそういう背景というか事情があった。


僕ら6人の中には女性もいましたから、衝立もない所じゃ困る。すぐに民宿の女将と交渉して2泊3日の予定をキャンセル。ほかの民宿を探しにでた。

見つけたのはナントカ浜から歩いて5分ほどの民宿です。今度は隣りの部屋との間に襖があった。やはり人生は普通が一番。柄にもない感慨にひたる。

落ち着いたところでナントカ浜に行ってみると、そこはごく普通の浜だった。砂の上には小学生くらいの地元の子供たちがチラホラ。やはり人生は普通じゃつまらんな。人生観がコロコロ変わる夏だった。[続く]