「ハスラー」 1961年 アメリカ

 

監督 ロバート・ロッセン

出演 ポール・ニューマン ジャッキー・グリーソン

   パイパー・ローリー ジョージ・C・スコット

   マーレイ・ハミルトン マイロン・マコーミック

 

ストーリー

15歳でハスラーとして身を立てることを思い立ったエディは、次第に腕を磨きやがてシカゴで名うてのハスラー、ミネソタのデブに挑戦した。

勝負は36時間にわたるポケット式玉突きで行われ、勝負の前半はほとんどエディが奪った。

だが図に乗って酒を飲みながら勝負を続けたエディは24時間後あたりから逆転され、ついに場数を踏む老巧なデブに敗れ文無しになってしまった。

エディはやけ酒にふけったが、そんなある日、明け方のバス・ステーションで、エディは作家志望の女子大生に会った。

彼女はサラといい小児麻痺を患ったため足が不自由だった。

エディは酒飲みのサラと親しくなり、彼女のアパートで暮らすようになった。

そんな生活を続けるうちにエディは金に詰まり、再び稼ぎに出ることにした。

ある日、彼はサウス・サイドの小さな撞球場でバートという賭博師に会った。

バートは、エディにケンタッキー州のフィンレーという金持ちに挑戦するようすすめた。

彼は75パーセントの分け前を条件にマネジャーを引き受けるという。

エディは断ったが、それから間もなくある撞球場で小金を稼いだエディは、ハスラーであると因縁をつけられ袋だたきにされた。

その上、両手の親指を折られていよいよ文無しになったエディは、バートに泣きつきフィンレーと勝負できるように頼んだ。

エディは前半負け続け、ついにエディに見切をつけたバートに泣いて助けを乞うのだった。

こんなエディのあさましい姿を見たサラは、自分たち2人に絶望せざるを得なかった。

結局、エディは勝負に勝ったが、その夜、サラは絶望の末、言いよるバートに身をまかせて自殺してしまった。

一方、バートと手を切ったエディは、デブに2度目の挑戦をした。

 

 

寸評

全編を通じて5つのゲームが描かれているが、それぞれのゲームに違った意味合いを持たせて物語が進んでいくという組み立てが上手い。

冒頭ではチャーリーと組んで行うハスラーの手口を見せる。

最初はわざと負け、勝ってもぎりぎりで、相手をおだて上げたりして掛け金を釣り上げたところで全部頂くというプロのギャンブラーによる素人相手の手口だ。

次に続くのが最強の相手であるミネソタ・ファッツへの挑戦で、予想通りここでは負けるのだが、その負け方の描写が中々味わいのあるものとなっている。

賭博師のバートからは「ファッツをあと一押しで落とせたのに果たせなかった。お前は自ら敗北を選んだ。くたびれ果てて、栄光と酒に酔って」と言われる始末だ。

3度目は忠告を無視して行った愚かなハスラー稼業で、痛い目に合う場面となっている。

それに続く4度目は資金を稼ぐために行うゲームで、唯一四つ玉による勝負だ。

それをビリヤードと言っていて、ボールを落としていくのをプールと呼んでいるのが僕にとっては発見だった。

そして最後がミネソタ・ファッツへの再戦場面である。

それぞれで起きる出来事が違っていてハスラーの世界、エディの人物描写が端的に描かれている印象だ。

 

発せられる言葉はそれぞれ含蓄のあるものがあって唸らされる。

バートはエディに「世の中には負ける口実を探している奴が多い。勝つことは大変な重荷だから、人は口実を作って重荷をおろそうとする。そして悔恨の念に浸るのを楽しむのだ」となじる。

一方でエディはサラにゲームに挑んだ時の高揚感と調子が出だした時の没我の魅力を語る。

サラはその時のエディの生き生きした姿に心を打たれたのだと思う。

最後になってエディは「俺はサラを愛していた」と言うが、その愛はいびつな愛だ。

プールを去っていくエディの姿が忘れられない。

主演のポール・ニューマンはもとより、それを固める脇役陣が素晴らしい。

ミネソタ・ファッツをやったジャッキー・グリーソンは、その体格といい風貌と言い貫禄十分でオーソン・ウェルズを髣髴させるし、またバート役のジョージ・C・スコットは、冷徹な観察眼を持ちながら金への執着を見せる嫌な男を魅力的に演じて悪役を一手に引き受けている。

サラのパイパー・ローリーはアル中気味な落ちぶれた女でありながら、一方で女子大生でもある何とも宙に浮いたような存在を見事に醸し出している。

彼女が小児麻痺を患っていて、父親とも確執があるという設定は、全体として陰鬱なこの映画のムードをさらに高める役割を担っていて、彼女の存在はこの映画に光明をもたらすかのようでもあるのだが、アル中気味という状況と彼女の結末はそれをもたらさない。

最後にバートが要求する取り分は、最初の75%から25%に逆転提示となって、エディとバートの立場も逆転していることを示していたのだが、サラを亡くした虚脱感で勝者の雰囲気はない。

ラストシーンもあくまでもその侘しさが漂うばかりで、登場人物全ての人生の挫折と苦渋を描いた重い映画だ。

ビリヤードのシーンは、玉だけが映る場面はプロがやっているのだろうけれど、二人の対決シーンではポール・ニューマンもジャッキー・グリーソンも上手いんだなあと感心させられ迫力あるものになっている。

「好色一代男」 1961年 日本

 

監督 増村保造

出演 市川雷蔵 若尾文子 中村玉緒 船越英二

   水谷良重 近藤美恵子 浦路洋子 阿井美千子

   中村鴈治郎 大辻伺郎 中村豊 藤原礼子

   中川弘子 真城千都世 見明凡太郎 菅井一郎

 

ストーリー

但馬屋の伜世之介(市川雷蔵)は父親夢介(中村鴈治郎)の心配をよそに、数々の女遊びに夢中だった。

特に遊女吉野太夫(水谷良重)とは起請文を交すほどの深い仲。

あまりの伜の放蕩にたまりかねた夢介は、豪商春日屋の娘お園(浦路洋子)との縁組を進めるが、お園にも意中の男があるのを知った世之介はそれをぶちこわしてしまう。

ついに世之介は勘当代りに江戸の出店へ修業に出された。

だが彼は江戸に着くや支配人(見明凡太郎)をだましてのしたいほうだい。

通人月夜の利佐(船越英二)の手引で吉原一の高尾太夫(近藤美恵子)に会うが、利佐と高尾の愛情を知って気前よく身請けしてやる。

ついに世之介は勘当を申し渡された。

申し訳にもと頭を丸めた世之介だったが、寺でも彼の浮気はおさまらず、寺を追放される破目となる。

その世之介を慰めるのは色比丘尼(中川弘子)であった。

世の中のがめつさをいやというほど知らされた世之介は流れ流れて北国の漁師町へ。

網元の妾のお町(中村玉緒)に言い寄ると、お町はころりと参ってしまう。

だが駆落ちをはかった二人は、たちまち追手に捕えられ、世之介は半殺しの目に会った。

久しぶりに両親に会おうと但馬屋の前に来ると、父親が臨終の間際であった。

夢介から三つの遺言を申渡された世之介だったが、彼はニベもなくはねつける。

このショックで両親は相ついで死んでいった。

今や但馬屋の当主となった世之介は思うままの女遊び。

評判の夕霧太夫(若尾文子)を、大金をつんで自分のものにしようとする。

 

 

寸評

市川雷蔵が世之介のあくなき女体遍歴を嫌味なく軽妙に演じていて、彼の持つ資質の一面を見せている。

世之介は財を成した商家の一人息子で放蕩三昧なのだが、父親の夢介は逆にケチで始末だけが生き甲斐の様な堅物で、この夢介を演じた中村鴈治郎のケチぶりが何とも可笑しい。

中村鴈治郎はこのような役をやらせると天下一品だ。

 

西鶴の「好色一代男」では世之介は生涯に3000人以上の女性と関係を持ったらしいが、ここでは数人のエピソードが順次描かれていく。

先ずは阿井美千子の30後家のお杉であるが、彼女は世之介の女狂いを表す入り口のような存在である。

 

縁組を勧められた春日屋のお園(浦路洋子)には好いた男がいて、世之介は彼女のためにこの縁談をぶち壊すのだが、これは世之介が単なる放蕩息子ではなく、女性に滅法優しいフェミニストであることを示していた。

グッとくるお色気を示すのが吉野太夫の水谷良重。

世之介と身請けする起請文を交わすが、再会した時にはそれは誰にでも書いている空証文だと言ってのける根っからの遊女だ。

逆に遊女ながら純情なのが、落ちぶれた船越英二だけに愛情を捧げる高尾太夫の近藤美恵子である。

二人を取り持つための五百両がもとで世之介は江戸へ奉公に出されるのだが、世之介がフェミニストぶりを見せた一番のエピソードとなっている。

もっともこの高尾太夫には後日譚があって、吉原一と言われた吉野太夫が面影をなくしているのだが、ここでも世之介は女性の味方で、その理由は男の甲斐性のなさの為だと男を説教している。

仏門に入った世之介が言い寄るのが尼さんの中川弘子なのだが、実はこの尼さんが・・・というオチがあり、そのオチを寺の坊主が酒の肴に禁じられている動物料理を食して戒律破りをやっていることにつなげている。

哀れなのが漁師町で網元の妾となっているお町の中村玉緒で、唯一自殺している。

登場した女優の中では役柄的にも夕霧大夫になる若尾文子が妖艶で一番きれいだ。

雷蔵の飄々とした演技は、そんな女優陣との共演を心底楽しんでいるように見える。

 

どこまでも女性に優しい世之介が女性の幸せを心から願っているのに反し、関係した女性は幸せになれず非業の死を迎えている。

世之介と共に網元から逃げ出したお町は浮浪者に犯され自殺してしまっている。

五千両もの大金で身請けされた夕霧大夫も追手の槍に突かれてあっけなく死んでしまう。

女性を散々持ち上げておきながら、これでは男性に都合の良い男の論理だけが生き延びている話となってしまっているではないかと、男女同権の今の世にあっては言いたくなってしまう。

とにかく雷蔵のあっけらかんとした放蕩ぶりと、女体まっしぐらぶりが見ていて楽しい作品だ。

僕は財産をバクチとそれに絡んだヤクザの脅しで失くした男を知っているが、そんなことで先祖が築いた財産を失くすぐらいなら、世之介のように女に貢いで失くす方がましだ。

それにしても、女遊びをするにも結局は金なのだと悟らされる作品でもある。

ラストシーンでユートピアを目指して国外脱出を図る世之介の船の吹き流しが、女たちの腰巻でできているのが最高だが、僕にはイマイチ増村保蔵のキレを感じない作品でもあった。

「不良少年」 1961年 日本

 

監督 羽仁進

出演 山田幸男 吉武広和 山崎耕一郎

   黒川靖男 伊藤正幸

 

ストーリー

浅井の二週間にわたる東京少年鑑別所(通称:ネリカン)生活が始まった。

浅井は親分や兄貴分の下につけない性分だった。

彼がここに来たのは、不良仲間と三人で真珠店を襲い、20万円の真珠のネックレスを奪ったからだ。

強盗を働いたのは、上品なウインドーとお高い店員に虫がすかなかったからだ。

その後浅井は、海に近い岬の一角にある明治少年院に収容された。

彼はクリーニング科に編入されたが、ここにはやくざ的組織ができており、空手をやる班長江上と下に中幹部がいる。

兄貴分にへつらえない浅井はことごとに目をつけられ、ついにみせしめのリンチにあう。

復讐を誓った浅井は、班長等が反則のパンを自分たちだけで噛っているのを種に、喧嘩を売って出た。

クリーニング科の喧嘩騒ぎは問題視され、教官会議で浅井は木工科に編入となった。

そこはクリーニング科とは違い、班長の藤川、副リーダー格の木下はともに不良の苦労が身にしみて温かささえあった。

そうこうするうちに、シャバ時代に恐喝行為を繰り返していた時の仲間の出張が少年院にやってきた。

あの頃は毎日善良なサラリーマンやアルバイト学生を襲っていた。

出張は被害者の様子を詳しく回想する。

被害者たちの許しを請う声は浅井の耳にこびりついた。

やがて退院の日がきた。

一年働いた金320円を受取って、浅井は門を出るのだった。

 

 

寸評

出演者に素人を多く起用しているため作為的な芝居臭さがなくリアリティがある。

ドキュメンタリ手法の効果もあり、現実をそのまま切り取ったような生々しさがでている。

少年鑑別所や少年院の大人たちは少年たちを更生させようとするが、社会がその少年たちを追い詰めているような所がある。

彼らにも問題があるのだろうが、彼らの感情はまだまだ不安定であり、孤独感も抱いているのだ。

だからと言って彼らが正当化されるわけではない。

町の風景や会話は1960年代初頭の空気感が出ていて、僕たちの年代には懐かしささえある。

若者の孤立はこの映画の中だけではなく、現在も社会に横たわっている問題である。

浅井が少年院から出ていくのは希望を感じさせるが、社会復帰した浅井を社会は何事もなく受け入れるかどうかは分からない。

そんな不安も感じる現実がある。

「夕陽に赤い俺の顔」 1961年 日本

 

監督 篠田正浩

出演 川津祐介 岩下志麻 炎加世子

   渡辺文雄 小坂一也 菅井一郎 神山繁

   内田良平 水島弘 平尾昌晃 西村晃

 

ストーリー

詐欺と不正を働く××建設の水田専務(菅井一郎)は殺人業マネージャー大上(神山繁)の紹介で殺し屋を雇うことになった。

下町殺し屋のメンバーは、猟師の娘でいつも山羊を連れていて人を殺すが獣を殺すのはいやというナギサ(炎加世子)。

ガダルカナル戦当時より小銃を使い実戦で鍛えた腕を誇る伍長(内田良平)。

殺し屋という仕事を合理化して株式組織にしようとしている大学生のビッコの殺し屋フットボール(渡辺文雄)。

殺し屋と医者を使いわけるドクター(水島弘)に、香港帰りのレディ・キラー香港(諸角啓二郎)。

ドスに腹巻きスタイルでナイフを使う戦前派、越後一家(三井弘次)と、今まで殺した九十九人の写真をアルバムに貼り眺めて泣いているセンチ(平尾昌晃)に、文学青年で詩を愛している殺し屋詩人(小坂一也)の七人だった。

腕の優劣を決めるためにとった方法が、競馬場で一着に入ってくる馬の騎手の帽子を射ち落すといった方法がとられた。

殺し屋が手を出せないでいるうちに、ガンマニアである石田春彦(川津祐介)がいたずらに射ち落してしまった。

大上は早速、春彦を水田のところに連れていった。

水田の頼みは建築業界誌の記者有坂茉那(岩下志麻)を殺すことであった。

茉那は水田の悪質な手口にかかって潰されて一家心中した〇〇不動産の遺児で、復讐のため××建設及び水田の不正を裏づける資料を集めていた。

それを横取りして水田に売りつけようとする左井(西村晃)は情婦でストリッパーしかも殺し屋を兼ねているユミ(柏木優子)に茉那を狙わせていた。

プロの面目にかけても素人の春彦に仕事は任せられないと殺し屋は春彦殺害を企むが、ナギサが春彦に惚れ、春彦が茉那に恋したことから事件はもつれはじめた。

 

 

寸評

寺山修司の脚本で篠田正浩がメガホンをとればもう少し面白い作品になっているかと思ったが、コメディでもなくミュージカルでもなく見どころの少ない作品になっている。

逆に言えば、寺山もこのような脚本を書いていたんだ、篠田もこんな作品を撮っていたんだということで物珍しい作品となっている。

平尾昌晃に小坂一也、おまけにデュークエイセスまで出演しているのだが、音楽のリズム感に脚本と演出がついていけていない感じである。

殺し屋グループにやたら人数がいるのだが、はたして7人も必要だったのか。

その為にそれぞれのキャラクターが全く描かれていなくて、辛うじて赤いセーターを着ている炎加世子の女殺し屋だけが存在感を示していた。

際立ったコスチュームも生かされていたとは思えないが、色彩感覚が取り柄となっているこの映画の一翼を担っていたのだろう。

ギャグとしては医者が殺し屋を兼ねていて理屈を言うところだけは面白かった。

 

ポップな主題歌から始まり、タイトルも役者の写真を上手くはめ込んだ凝ったものになっている。

一人の少年が頭にリンゴを乗せていて、そのリンゴに向かって次々と妙ないでたちの殺し屋らしい人物がピストルやらナイフでリンゴを撃っていく。

最後の子供が倒れ、死んだと思わせるがニヤッと笑ったところでタイトル。

この時点では期待させるものがあったのだが、本筋が始まると途端にだらけてしまっている。

ただし、はみ出したような色彩感覚に加えてシャープなカメラアングルだけは最後まで健在であった。

まっ赤な夕陽や黄色や赤の原色の服を着た人物たち、俯瞰でとらえた階段や斜めの人物カットなど、点で見れば楽しくなる部分も有している。

 

岩下志麻は水田建設のために自殺に追いやられた父の復讐のために、不正の証拠を得ようと業界紙の会社で西村晃の秘書として働いているのだが、証拠集めの苦労も証拠の品も示されていないのでスリル感がなくヒロインとしての存在感が薄い。

この頃、日活の無国籍アクションがもてはやされていたから、それを茶化す様なコメディアクションをお遊びで撮ったような所があるから、本格的サスペンスの雰囲気は排除したのだろう。

団地の中を覆面をしたコスチュームの子供たちが走り回ったりしているのもお遊びである。

日活なら宍戸錠を主演にして鈴木清順が撮っていそうな作品であるが、そうならそちらの方が断然いい出来栄えだったように思う、

水田の還暦祝いのパーティの会場でコーラスグループのデュークエイセスが歌っているシーンは楽しい。

この頃のコーラスグループと言えば、デュークエイセスとダークダックスだった。

音楽はクレジットされているから山本直純なのだろうが、作詞は誰だったのだろう。

たぶん寺山修司その人だったのではないかと想像する。

最後に川津祐介の正体が分かり、岩下志麻との恋愛物語で終わるのも安易だなあと思ってしまう。

篠田正浩と寺山修司が意気投合して撮った作品なのだろうけれど、完全な失敗作だ。

「豚と軍艦」 1961年 日本

 

監督 今村昌平

出演 長門裕之 吉村実子 三島雅夫 小沢昭一

   丹波哲郎 山内明 加藤武 殿山泰司

   西村晃 南田洋子 中原早苗 大坂志郎

 

ストーリー

米海軍基地では港に軍艦が入ると、水兵相手のキャバレーが立ちならぶ町の中心地ドブ板通りは俄然活気づいてくる。

ところが、そんな鼻息をよそに青息吐息の一群があった。

当局の取締りで根こそぎやられてしまったモグリ売春ハウスの連中、日森一家だ。

いきづまった日森一家は、豚肉の払底から大量の豚の飼育を考えついた。

ハワイからきた崎山(山内明)が基地の残飯を提供するという耳よりな話もある。

そんな時、流れやくざの春駒(加原武門)がタカリに来た。

応対に出た幹部格で胃病もちの鉄次(丹波哲郎)の目が光る。

たたき起されたチンピラの欣太(長門裕之)は春駒の死体を沖合まで捨てにいった。

彼は恋人の春子(吉村実子)と暮したい気持でいっぱいだった。

春子の家は、姉の弘美(中原早苗)のオンリー生活で左うちわだったが、彼女はこの町のみにくさを憎悪し、欣太に地道に生きようと言ってはケンカになった。

ある夜、吐血して病院に担ぎこまれた鉄次がそのまま入院することになり、日森一家の屋台骨はグラグラになった。

会計係の星野(大坂志郎)が有り金をさらってドロンし、崎山も残飯代を前金でしぼり取るとハワイに逃げてしまった。

酷い胃癌で余命三日という診断結果を受けた鉄次は、自殺する勇気もなく、殺し屋のワン(城所英夫)に自分を殺してくれとすがりついたが、鉄次は単なる胃潰瘍だった。

鉄次は、間違いを喜ぶよりもワンに殺される恐怖に再び血を吐く。

欣太とはげしく口喧嘩をした春子は町にとび出し、酔った水兵になぶりものにされた。

日森一家は組長の日森(三島雅夫)と、軍治(小沢昭一)・大八(加藤武)とに分裂してしまった。

両者とも勝手に豚を売りとばそうと企み、軍治たちは夜にまぎれての運搬を欣太に命じた。

豚をのせて走り出す日森のトラック群を追う軍治らのトラック。

六分四分で手を打とうという日森だったが、欣太はもうだまされないと小型機関銃をぶっ放し、ドブ板通りには何百頭という豚の大群があれ狂った。

 

 

寸評

戦後の闇市を思わせるような基地の町を舞台に最下層の人々が繰り広げる行動は喜劇である。

丹波哲郎が演じている人斬り鉄次と呼ばれている兄貴分は、胃を患っていて常に胃痛に悩まされている。

当人は胃癌ではないかと疑っていて、楽に死のうとするが死にきれないでいる。

電車に飛び込もうとするが恐怖で逃れてしまうし、それならと旧知の男に殺してくれと頼みに行くなど、とてもヤクザの幹部とは思えない姿を見せる。

ヤクザが豚肉の値が上がるからと養豚に精を出すのも可笑しい。

殺された春駒の処理に困って豚のエサにしてしまい、豚の丸焼きを食べている時に春駒の金歯が出てくる場面などはドタバタもいいところだ。

 

この町はアメリカに依存していて、女たちは米兵相手の売春行為で生きていて、ヤクザでさえも米軍に依存し、それを取り持って利益を得ている者もいる。

ヤクザたちが扱う豚は米軍の排出する残飯で養われているのだ。

アメリカ依存は日本全体の縮図でもある。

金のためなら何でもやる彼らなのだが、仲間の中には金を持ち逃げする星野や、金を持ってハワイに逃げてしまう崎山のような男が出てくる。

二人は暴力団映画に出てくるように追われて命を狙われるようなことはない。

どんなことをしてでも先に金を得たもの勝ちみたいだ。

1961年公開作品だから、経済復興を目指していた当時の風潮としてはこのような気分が誰にでも少なからずあったのかもしれない。

欣太は最後に反乱を起こす。

やはり圧巻は欣太によって解き放たれた豚が大挙してヤクザたちに突進してくるシーンである。

「ブタ野郎」はダメ人間を卑下するときの呼称で、豚は下等な動物の象徴として扱われることが多い。

豚たちは、これまでの借りを返してやると言わんばかりに、ヤクザたちに襲い掛かり押しつぶしてしまう。

豚の攻撃は欣太と庶民の怒りの発散でもある。

胃癌と思い込んでもがき苦しんでいる鉄次は妻の勝代(南田洋子)に支えられて病院に連れ戻され、欣太は正当防衛の餌食となって息絶え、ヤクザたちは豚に押しつぶされる。

男たちは何とも惨めである。

それに反して、春子は男たちに蹂躙されながらも自分の足で歩んでいく。

米兵に強姦されたぐらいで春子の意気は消沈しないし、かえって意気軒高になって、図太く生きてやろうという気持ちになっているのである。

いつの時代においても、最終的には女の方が生命力は強いのだと思う。

 

沖縄を初め米軍による日本国土の一部占領という状況は今の日本に存在している。

軍事費を経済成長に回せたということはあるとはいえ、未だに戦勝国による国土の占領を許しているのは、どう考えても正常なこととは言えない。

その事に対する今村のブラックジョーク的な作品で、痛快ではないが愉快な作品だ。

「好人好日」 1961年 日本

 

監督 渋谷実

出演 笠智衆 岩下志麻 淡島千景 川津祐介

   高峰三枝子 乙羽信子 北林谷栄 三木のり平

 

ストーリー

奈良の大学の数学教授である尾関(笠智衆)は、こと数学にかけては世界的な学者だが、数学以外のことは全く無関心で、とかく奇行奇癖が多く世間では変人で通っている。

妻の節子(淡島千景)はそんな尾関につれ添って三十年、彼を尊敬し貧乏世帯をやりくりしてきた。

娘の登紀子(岩下志麻)は市役所に勤めていて、同じ職場の佐竹竜二(川津祐介)と縁談がある。

二人は好きあっているし節子もこの縁談を喜んでいる。

ただ竜二の家は飛鳥堂という墨屋の老舗で、竜二の姉美津子(乙羽信子)はお徳婆さま(北林谷栄)に気に入るように色々と格式にこだわるのだ。

それに登紀子は両親の顔をおぼえぬ戦災孤児で、尾関に拾われ今日まで実の娘と同様に育てられてきたのだった。

登紀子はそんな父のそばを離れるのが忍びない。

尾関に文化勲章受賞の報せが届いた。

尾関は勲章など欲しくなかったが、50万円の年金がつくと知り、もらう気になり節子と上京した。

学生時代にいたオンボロ下宿に泊ったのだが、その夜宿に泥棒(三木のり平)が忍びこみ文化勲章が盗まれた。

奈良では尾関の帰りを待ちうけて数々の祝賀会が計画されていた。

そんなわずらわしいことの大嫌いな尾関は、とうとう姿をくらまして関係者を慌てさせた。

そんな騒ぎの中で節子は「お父さんは下市の和尚さんのところよ」と自信ありげに言った。

登紀子は下市に行き、母の予想が当ったのを知った。

 

 

寸評

小津安二郎が描くような中流の庶民生活の中にある親子の愛情物語なのだが、これが渋谷実の手になると上質の人情喜劇となる。

笠智衆と淡島千景の尾関夫婦は実にいい夫婦だ。

娘の岩下志麻は戦争孤児で、夫婦に引き取られたのだが実の娘のように育てられ、明るく快活ないい女性で羨ましくなるような平和な家庭を形作っている。

可笑しいのは笠智衆の数学教授が変人で、彼の妻に発する言葉が実に可笑しい。

尾関は全くの下戸で酒入は一滴も飲めないのだが、妻は日本酒が大好きで夫の目を盗んでやっている。

娘もそのことは承知なのだが、実は尾関だってとっくに承知している。

娘に注いでもらったお酒を飲みほした時に、尾関が兎をもらって帰ってくる。

妻の節子は取り繕うが、「酒を飲んだお前と同じように目が赤い」と言う。

そんな愉快な会話が散りばめられていて、決して嫌味に聞こえない夫婦間のやり取りに吹き出してしまう。

 

登紀子が付き合っている竜二の家は飛鳥堂と言う墨屋の老舗である。

奈良は習字に使う墨の生産地である。

格式を重んじるこの家は、お婆さんと竜二の姉との三人家族だ。

と言うことは、この姉弟の両親は亡くなっていて、姉である乙羽信子の夫は婿養子で亡くなっているのか、あるいは死に別れて家に戻ってきているのかもしれない。

この家を取り仕切っているような北林谷栄の婆さんも脇役とは言え面白い存在となっている。

尾関は何よりもコーヒーが好きで近所のミルク・ホールに通っているのだが、店の看板が「コーヒ」となっているのが時代を感じさせ、コーヒーを巡るやり取りも笑わせる。

尾関は物欲がなく、アメリカの大学行きの話にも興味はないが、文化勲章はもらうことになる。

東京までの車中で交わされる会話にも笑わされるのだが、兎に角尾関と言う人物が面白いキャラクターとして描かれていて、この作品を喜劇に仕立て上げている。

人の好さもあって、宿泊先に入った泥棒にもライトを照らして手助けしてやるお人好しだ。

文化勲章を巡る騒動は権威に対する風刺である。

尾関の叙勲を知って周りの人たちは見る目を変えるし、記者が大勢押しかけて大騒ぎとなる。

植木屋などは、以前は不満を漏らしていた垣根の修理を無償で申し出る。

金鵄勲章をもらっていた男が登場するのだが、金鵄勲章は日本唯一の武人勲章とされ、武功のあった軍人及び軍属に与えられたものである。

尾関が天皇陛下から頂いた勲章を失くしたことを叱責するが、戦争の負の遺産でもある金鵄勲章と文化勲章は全く違うのだと、暗に戦争非難もしている。

そうでなければこの尾関を非難する男の登場は唐突過ぎる。

 

東大寺が度々登場し、奈良を舞台にした映画なので関西人の僕は昔の風景を見ているだけでも心が洗われたのだが、尾関が娘の結婚を認めて淡島千景が「こんないい日はない」とつぶやくシーンは泣けた。

日本映画の最盛期には、このようなほのぼのとした映画をたくさん撮っていたのだなと思わせる作品だ。

「さよならをもう一度」 1961年 フランス / アメリカ

 

監督 アナトール・リトヴァク

出演 イングリッド・バーグマン イヴ・モンタン

   アンソニー・パーキンス ジェシー・ロイス・ランディス

   ピエール・デュクス ジャッキー・レイン

   ジーン・クラーク ミシェール・メルシェ

 

ストーリー

トラック販売会社の重役ロジェ・デマレと室内装飾家のポーラは5年来の恋仲。

ところがロジェは最近仕事が忙しく、パリに住むアメリカ人の富豪バンデルベッシュ夫人の邸の室内装飾にポーラを推薦すると、彼女を同行しながら自分は先に帰ってしまった。

1人で夫人を待つポーラの前に夫人の1人息子フィリップが現れた。

以来、25歳の彼はポーラに熱い思いをささげるようになった。

フィリップはポーラとロジェの仲が単なる恋愛関係で結婚していないことを探り出した。

一方ロジェは、ポーラとの約束を取り消して他の女と旅行に出た。

それをフィリップが目撃し、やがてフィリップはポーラのアパートで暮らすようになった。

ロジェは2人の情事を知って鋭くポーラを問い詰め、たまたま彼女の年のことに言い及んだ。

心を傷つけられたポーラはフィリップのもとへ戻っていった。

ロジェは酒と女におぼれるようになった。

 

 

寸評

僕の中ではイングリッド・バーグマンは歴代外国人女優の中で一番好きな部類に入る女優で、その為に最初は年齢相応のしおらしい女性を演じる彼女に魅せられて好感を持って見ていたのだが、徐々にこの映画に対して嫌悪感が湧いてきた。

きっかけはアンソニー・パーキンスが演じるフィリップのストーカーまがいの行動だった。

15歳ほど年上のポーラに一目惚れしたフィリップが強引とも思えるぐらい彼女に付きまとう態度に嫌味を感じた。

これぐらい強引でないと見染めた女性を手に入れることは出来ないのかもしれないが、僕のお気に入りのイングリッド・バーグマンに言い寄る彼の強引さには腹立ちさえ起きたのだ。

おまけに彼が母親の資産を笠に着て、真面目に仕事をしない放蕩息子のような生活態度なのも気に入らない。

務めていた弁護士事務所では遅刻の常習犯だし、ロンドンの裁判では途中で退場してしまうし、ポーラの家では仕事に行かず酒浸りなのだ。

こんな男をなぜポーラは受け入れたのか。

自分の年齢、ロジェに対する不満や不安がそうさせたのだろうが、中年女性の揺れ動く女心の描写としては物足りなさを感じる。

 

男は結婚することで金と自由を失うが、結婚生活にはそれを補うものがあるはずなのだが、ロジェは今の自由を選びポーラもそれを良しとしている。

お互いにそれぞれが心地よい存在なのだろう。

ロジェにとってポーラは一番心が安らぐ存在なのだが、彼の遊び心は若い女性を求める。

しかし年齢は男よりも女を襲ってくる。

ロジェは自分の浮気は遊びで相手は若い女性だと言うが、それはポーラにとっては一番傷つく言葉なのだ。

「愛している相手もあなたを愛しているのか」と言うフィリップの言葉もポーラに迫ってくる。

この様な状況になれば、ポーラの中に不安と葛藤が生じて大いに苦しむことになっても不思議ではないが、彼女は一気にフィリップに向かう。

ロジェとポーラの関係がしっくり来ていたので、ポーラとフィリップの関係は素直に受け入れられなかったし、ポーラの気持ちも僕には理解できなかった。

ロジェが若い女性と関係を結んでいるのだから、ポーラだってそんなことがあっても責められるものではないと思うのだが、フィリップを自宅に招き入れていることには違和感があった。

その思いは男である僕の身勝手なのかもしれない。

 

冷却期間を経て二人はついに結婚する。

しかし結婚したからと言ってロジェの性格は変わるものではない。

二人で出かける約束をドタキャンするのも今までと同じだ。

しかし結婚生活とはそのようなものだと思う。

お互いに、あるいはどちらかが我慢をして全てを受け入れていかないと維持できないものなのだと思う。

ポーラは仕方がないとあきらめたのだろうか。

結局、結婚前と何ら変わらない関係が続くということなのかもしれない。

「ガン・ファイター」 1961年 アメリカ

 

監督 ロバート・アルドリッチ

出演 ロック・ハドソン カーク・ダグラス

   ドロシー・マローン キャロル・リンレー

   ジョセフ・コットン ジャック・イーラム

   ネヴィル・ブランド ラッド・フルトン

   レジス・トゥーミイ アダム・ウィリアムズ

 

ストーリー

南部の退役軍人ジョン・ブレッケンリッジは妻ベルと娘ミッシーをつれ1000頭の牛とともにメキシコの牧場を去りテキサスに行こうとした。

牧畜に失敗した彼はテキサスで新生活をしようとしたのである。

そこに兇状持ちのブレンダー・オマリーが昔の恋人ベルをたずねてやってきてカウボーイとして牛の移動を手伝うことになった。

オマリーを追う保安官ダナ・ストリブリングも後をつけてやってきて逮捕をテキサスまでのばして牛追いに雇われた。

ある町でブレッケンリッジは旧南軍兵士とごたごたを起こし、射殺されて死んだ。

ミッシーが男らしいオマリーにひかれたり、ベルとストリブリングが親しくなったりしながら旅はつづく。

途中、インディアンが一行を狙ったが、ストリブリングが牛の1部をインディアンに与えて危機をのりこえた。

砂漠で砂嵐に出会った時、3人組の牧夫がベルとミッシーをさらった。

ストリブリングとオマリーは危ういところで2人を助けた。

旅の間中、オマリーはベルの愛を求め、ストリブリングも彼女に求婚した。

ストリブリングとオマリーは決闘を約束した。

 

 

寸評

西部劇に舞台を借りた悲劇物だが、如何せん登場人物の人物描写が希薄なために悲劇性が薄まってしまっているのが惜しい。

昔の恋人ベルを訪ねてオマリーがやって来るが、そのオマリーを追ってストリブリングもやって来る。

ストリブリングはオマリーに妹の旦那を殺され、それが元で妹が自殺したことを恨みに思っている。

主人公二人の関係において非常に重要な事柄なのだが、オマリーがその殺人を犯した理由が全くと言っていいほど描かれていないので、ストリブリングの憎しみと憎しみが消え去る感情の変化が伝わってこない。

ベルの言夫であるブレッケンリッジは酒好きのようだが、飲んだくれのぐうたら亭主でもなさそうだし、人も良さそうな人物である。

ベルは夫を愛していたのかどうか疑問を持つのは、ベルがかつての恋人オマリーとキスを交わしたからだけではなく、夫の死に対して極めて淡白に描かれているからだ。

ストリブリングに「悲しいことがあれば自分を頼って欲しい」と言わせることで、ベルが悲しみをこらえていることを匂わせるが、どうも悲しみに暮れているようには感じない。

オマリーはブレッケンジッジが殺された状況を母娘に取り繕って話したようなのだが、それにしてもこの母と娘はいたって平然としているように見えてしまう。

 

オマリーはベルとよりを戻そうとしているが、ベルはオマリーが愛しているのは若い頃の自分で、大人になった自分ではないというのは分るが、ストリブリングと愛し合うようになるのは一体どうした経緯があったのか。

ストリブリングの告白はあるが、二人が幌馬車の中で抱き合う光景が突然すぎるように思う。

さらに。あれほどベルに言い寄っていたオマリーが、ベルの娘のミッシーに心変わりするのも突拍子過ぎる。

オマリーから見れば子供のミッシーがオマリーに好意を抱くのは理解できるが、母親に言い寄っていた男が突然娘に気が変わるなんて飛躍しすぎだ。

ミッシーの告白を受けてすぐに気持ちを切り替えているオマリーの精神構造は理解の範囲を超えている。

 

ダルトン・トランボの脚本に粗さを感じていたのだが、それでも1000頭の牛の移動中に起きる砂嵐の様子や、疾走する馬車の様子は西部劇おなじみの場面で安心する。

見るからに悪人面した臨時雇いの牧童が出てくるのも納得だが、悪役としては迫力不足かも。

人物的にはやはりカーク・ダグラスのオマリーが面白いキャラクターとして描かれている。

短気なところがあり感情を抑えられない“暗”の性格を持つ男のようだが、しばしば詩人のような言葉を発するロマンチストの様でもあり、野営するときの牛の群れが放つ光を五度生まれ変わっても見ることが出来ない光景だとベルに見せるシーンなどはこの男の持つ“明”の部分を描いていて、オマリーの二重人格的性格がこの作品を支えていると言っても過言ではない。

 

ベルが発する言葉に驚かされた後、映画は急展開を見せて、どうしても避けられない決闘に向かうストリブリングとオマリーなのだが、結末は予想通りである。

ここで見せるベルとミッシーの態度は、うがった見方をすれば、作品中ずっとそうであったのだが、この二人は悲しみというのを知らない親子なのかと思ってしまうのは、僕の皮肉れ根性のせいなのだろうか。

「荒野のガンマン」 1961年 アメリカ

 

監督 サム・ペキンパー

出演 モーリン・オハラ ブライアン・キース

   スティーヴ・コクラン チル・ウィルス

   ストローザー・マーティン ウィル・ライト

 

ストーリー

南北戦争も終わった数年後、北軍に従軍したイエローレッグは1人の南軍兵士を探し歩いていた。

戦場で負傷した時、この南軍兵は酔った勢いで彼の頭を剥ごうとしたので彼の頭にはまだ傷が残っている。

彼はある酒場で私刑にされようとしている男タークを救って愕然とした。

タークの手首には彼がつけた歯形がくっきり残っていた。

イエローレッグは自分の手でタークを殺そうとして彼を助けた。

タークには相棒ビリーがついていた。

3人は早速チームを組んでヒーラー町にある銀行を襲うことにした。

その町に着いた3人は、ダンスホールに働くキットと知り合いになった。

彼女にはミードという9歳の男の子がいた。

その晩、3人が襲おうとした銀行を他の無法者たちが襲撃した。

怒った3人は保安官側につき激しい撃ち合いが起こった。

その時、イエローレッグの弾丸はキットの息子ミードに命中してしまった。

キットはシリンゴ町にミードを埋めると言い張った。

しかしシリンゴ町は、今は廃墟と化し、途中の草原にはアパッチ族が群れをなしていた。

イエローレッグはせめてもの償いに護衛を申し出るが、彼女はそれを許さず1人で出発していった。

イエローレッグはビリーとタークを伴って彼女の馬車を追った。

その後、ビリーがキットに襲いかかったのを見たイエローレッグはビリーを一行から追い払った。

タークもビリーの後を追って去ってしまった。

そんな折、アパッチに馬を持ち去られた2人は、徒歩でようやくシリンゴへたどり着いた。

そこへ再びビリーとタークが現れた。

 

 

寸評

ペキンパーが初めて監督した劇場映画がこの「荒野のガンマン」なのだが、バイオレンス映画、アクション映画の作品を数多く世に出し、残酷な作風が特徴とも言われた彼にしては、この映画に於いてはその片鱗はうかがえず、むしろおとなしい作品となっている。

元北軍兵のイエローレッグは銃弾が肩に残っていて、その為に右腕が自由に上がらない。

その事でキットの一人息子を誤射して死なせてしまうのだが、最後にあるであろう決闘においてそのハンデをどのようにして克服するのか楽しみにしていたのだが期待を裏切られる結末となっている。

もちろん、この結末が良いのだという人もいるだろうが、僕は消化不良を感じた。

イエローレッグは南北戦争で南軍の兵士によって、先住民がやるように頭の皮をはがされそうになった。

復讐に燃えるイエローレッグはその相手を見つけ出し、同じ思いをさせることを生き甲斐にしている。

探している男タークがすぐに見つかるのはご都合主義と言えなくもないが、冒頭の場面で描いているので許されるだろう。

ただイエローレッグのタークに対する憎しみの度合いはあまり伝わってこない。

イエローレッグはビリーとタークを銀行強盗に誘うが、そもそも彼は銀行強盗を持ちかけるような悪者だったのかの疑問がついてまわる。

タークへの復讐を得る機会の為だったと思うが、その為に銀行強盗という犯罪を犯すというのは間尺に合わないように思う。

腕っぷしは強そうなイエローレッグだが右腕のハンデがあり、拳銃勝負ならビリーにはとてもかないそうもない。

それでもこの一味のボスがイエローレッグのようであるのは不可解である。

ビリーが素直にイエローレッグに従っている理由が、単に気に入っているだけなのが不思議に思える。

タークは力がないのに銀行強盗で得た金で先住民を雇い、軍隊を作って自分はその指揮官になることを夢見ている無邪気な男で、この人物のキャラクターはビリーよりも面白い存在となっている。

力の差からイエローレッグはいつでもタークをやっつけることが出来そうなものだが、そうしないのはタークに復讐することを生き甲斐にしてきたが、復讐を終えてしまうと生き甲斐をなくしてしまうとキットに語る。

人間、やはり生きていくためには糧だけではなく生き甲斐が必要なのだ。

自分は一体何のために生きているのか、また生かされているのかの自問は齢を重ねてきた僕にも湧き上がってくる命題となっている。

ライフワークであるとか社会貢献であるとかを真面目に考えるようになってきた。

 

フェードアウトしたかに見えたビリーとタークだが、予想通りイエローレッグとキットの前に舞い戻ってくる。

そこで三人の争いとなり意外な結末を迎えるのだが、その意外性とは、言い換えればあっけなさでもある。

ビリーに対する決着は面白いとは思うが、やはりあっけなさ過ぎて西部劇で味わえる醍醐味はない。

先住民の攻撃などはあるが、全体的には地味な作品で後年のペキンパーを知ってからこの作品を見た僕は物足りなさを大いに感じた。

キットがシリンゴへ向かうのは彼女の妄想なのかもしれないと思わせるのは面白いと思うので、もっと前面に出しても良かったのかもしれない。

兎に角、何もかもが中途半端な印象で、ペキンパーのデビュー作でなかったら見る機会はなかったと思う。

「大学の若大将」 1961年 日本

 

監督 杉江敏男

出演 加山雄三 有島一郎 飯田蝶子 中真千子

   星由里子 団令子 北あけみ 江原達怡

   田中邦衛 土屋嘉男 上原謙 久慈あさみ

   藤山陽子 左卜全 藤原釜足 菅井きん

 

ストーリー

京南大学水泳部の田沼雄一(加山雄三)は明治時代からの歴史を誇るすきやき屋「田能久」の若旦郡である。

父久太郎(有島一郎)は昔気質の頑固者で、最近は商売仇のステーキハウス「黒馬車」がぐんぐんのしてくるので機嫌が悪い。

おまけに雄一が黒馬車で歌手のはるみ(北あけみ)と仲良く歌っているとあってカンカンに怒った。

そんな時、祖母のりき(飯田蝶子)がいつも雄一の味方となって父と子の仲を円くおさめていた。

水泳部主催のパーティの日、雄一が同級生の団野京子(団令子)や、はるみとばかり踊るので石山製菓のキャンデー・ガール中里澄子(星由里子)は面白くない。

その夜、雄一は店の肉を持ち出して部員達にオゴってしまったため、とうとう久太郎に勘当されてしまった。

雄一は夏季休暇をさいわいに、芦ノ湖へアルバイトに出かけた。

親友多湖(江原達怡)もアルバイトでデパート会社の社長野村家の別荘の管理人をしていた。

雄一はボート小屋に泊りこみ、ボートの貸し出しと看視人をやっていた。

澄子も出張で「ビーチハウス」に来ており、はるみも湖畔ホテルで歌っていた。

石山製菓社長のドラ息子で、雄一の同級生石山新次郎(田中邦衛)は澄子に惚れていて、澄子をヨットに誘った。

ヨットの中で新次郎が澄子にケシカラン振舞いに出た時、雄一が澄子を救った。

ある日、雄一は転覆したボートから野村父子を救った。

夏休みが終り、水泳部の合宿が始まったある日、野村社長(上原謙)から娘の千枝子(藤山陽子)を貰ってくれるよう雄一はいわれた。

多湖が千枝子を愛していることを知った雄一は、見合いの劇場に多湖を連れて行き、野村社長に千枝子さんの相手にふさわしい人はこの人ですといって多湖を紹介した。

そんなことを知らない澄子は大むくれである。

 

 

寸評

加山雄三の「若大将シリーズ」は18作ほど作られたが、これはその記念すべき第1作である。

後にサラリーマンとなった若大将作品も撮られたが、暫くは大学生の若大将として描かれていて、シリーズの途中から見始めた僕などは大学とは何て楽しいところなんだと思ったものだ。

最も魅力が発揮されているのは第6作の「エレキの若大将」だと思うが、「大学の若大将」は第1作だけに若大将のイメージを定着させたと言えるし、加山雄三のキャラクターも決定づけられたような所がある。

加山雄三は決して演技が上手い俳優ではなかったが、明るい性格とスポーツに音楽にと多才で能天気な作品にはもってこいのキャラだったと思う。

 

この作品は大学生たちがワイワイガヤガヤ騒いでいるだけの映画で、主演の加山雄三が同級生の団令子、歌手の北あけみなどにモテモテの中でマドンナ役の星由里子が絡んでくるというもので、この構図は以後の作品でも変わらないのだが、若大将のライバルである青大将の田中邦衛のクレジットが本作ではまだ脇役扱いである。

10年ぶりに撮られた18作目の「帰ってきた若大将」は加山雄三の芸能生活20周年記念作品として撮られたから、若大将シリーズが加山雄三の代表作という認識が東宝にもあったのだろう。

記念すべき第1作とあって、加山雄三の実父である上原謙がゲスト出演的に出ている。

授業での代返や部室でのバカ騒ぎなどは、歳をとった今の自分には懐かしく思える光景だが、僕の学生時代は周りにあんなに女性がウヨウヨいなかった。

若大将は植木屋のオヤジの家に転がり込んだり、多胡がアルバイトで管理している別荘で冷蔵庫の食材を使いまくって食べるなど、観客としては羨ましくなってくる環境下にいる。

ましてや大学生が見合いをしたりしているのはどうなんだと思うが、微笑ましさだけを追求しているので何でも許されてしまう。

プログラムピクチャの青春物ではよくある大学生の描き方だが、そのどれもが金に困っている割には適当にエンジョイしていて、女の子たちも周りを取り巻いているというものだ。

「若大将シリーズ」はその典型で、僕たちの学生時代と違って随分と大人びた学生に感じる。

もっとも、古いアルバムなどを見ると、写っている学生はさらに大人びていて思慮深さを感じさせる。

時代を重ねるごとに学生は軽薄化しているのかもしれない。

 

クライマックスとなる水泳大会の場面はまるでマンガの世界なのだが、その単純さを単純に楽しめるのがこの映画の存在価値となっている。

試合当日にお婆ちゃんの飯田蝶子が青大将の車に轢かれて病院に運び込まれる。

輸血が必要な重傷だが若大将の血をもらうことで一命をとりとめる。

すでにスタートとしていた800メートルリレーに間に合うように神宮プールへ向かって出発する。

途中で青大将の運転する車がスピード違反で捕まるという出来事に出会うが、気のいい警官によって神宮プールまで先導してもらって会場に到着するが、すでに第3泳者はスタートしており予想通りリードされている。

会場に到着した若大将は大急ぎで着替えて飛び出し間一髪のところでタッチに間に合い大逆転の勝利を得る。

したがって手に汗握るシーンとはなっていないが、予測された結末に納得してしまうのである。

B級作品の典型だ。