考えても幸せに成れないような気がする | 記憶の欠片(ピース)

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病気がちで、甲斐性のないおっさんのブログ。
小説・ショートショートを書いていましたが、気力が失せたため、思い付きでいろんなことを書いています。

幸福とは何かという話を書いて有名な哲学系の人は今までに3人いるらしいのですが、

中で私が読んだことがあるのは、「アランの幸福論」です。アランというのは著者の愛称かなんかで、本名はなんか全然違うらしいです。

 

まあ、私が読んだことがあるくらいだから恐らく一番有名な部類の幸福論なんだと思います。

正直なところ、中身はほとんど覚えていません。

「何を言っているのか理解できない」という感想を持ったのを覚えています。

 

思想家とか哲学者が、あえて言う「幸福」というのは、精神的なものなので、「こういうものだ」とか『こういう風に」とか論理的に定義しますね。学問として考えているのだから、それは当然だろうと思います。ただ、そういう幸福は、「そういう風になれないと感じられない幸福」という気がします。そうすると「こうなれば幸福になれるんだから、そうしろ」と、生き方を押しつけられているようです。そういう生き方は、窮屈で幸福では無いんじゃないか?という気がするのです。

私の言っていることも、サッパリ意味がわからないかも知れませんが。

 

人は遺伝的に、いろいろと得手不得手があるのは明らかですから、頭脳にも一定のハードルがあり、哲学的な本にも、読んでいて「この人は何を言っているのか分からない」という気にさせられるものが私にはたくさんあります。

つまり、それらをすんなり理解できたら、それを書いた人たちと同じレベルの頭脳だから、歴史的な天才クラスなので、「理解できないのが当たり前なのか?」

ということになると、「読んでも意味がないんじゃないか?」ともいえます。

けっこう長く生きてきて、本も読んだし、人の話も聞いたけど、「そこに、今やっと気づいたのか?」というのがすごく口惜しいです。

 

いや、実は、このことに気づく前兆というか、切っ掛けは昔からあったように思います。

私、高校はかなり偏差値の低い所でしたが、そういう中でさらに勉強をしない生徒だったので、授業で先生の言っていることが理解できませんでした。

勉強って言うのは、結局、一度先頭集団から置いて行かれると、よっぽどのことが無ければ二度と追いつけませんね。

なので、授業中は何の授業かに関係なく、大体、ちんぷんかんぷんで、そんな中で思ったのが、次のようなことでした。

「先生は大学を出て教師になった。そしてここにいて、ろくに授業を理解できない人間に、どんな気持ちで話をしているのだろう?」

ということです。

 

まあ、これは話を理解できない私の罪でもあるでしょうが。

 

ああ、あと近年流行?の人でアドラーさんという人もいますね。アドラー心理学というような呼び方で本もたくさん出ていると思います。

初心者向けという本を2冊ほど読んだ覚えがあるのですが、ほとんど理解できませんでした。

アドラー心理学の場合は、「言っていることはなんとなく分かる。けれど、実践するのは一般的社会ではかなり無理があるんじゃ無いか?」という気がしました。「これは、この人がそう思っているだけなんじゃ無いか?」という気もしました。

けれど、ちゃんと形として今も残っていて一定の支持のを受けているのですから、荒唐無稽と感じる私の方が負けなのでしょう。

 

いろいろ考える人は多いですが、ニーチェなんていうひとは、偉大と云える哲学者ですが、失恋で苦しんでいたりします。

いくら考えても、恋はどうにもしようがなかったようです。

 

 

そんな私が見て、この人は幸せだと断言できるのが「アル中カラカラ」さんです。

ニコ動に動画を上げている人ですが、youtubeにも転載されています。

ファンで、よく拝見しています。

もし興味があったら、見てみてください。

私が今日、言いたかったのはここだけです。

幸せとは、そう思えることです。