■ 佐村河内氏の“ゴーストライター”告白、「私は共犯者」
 
 偽りのメロディーの真相、ゴーストライターが緊急会見を行いました。 

 「こんなことはもうやめようと言いました。しかし彼(佐村河内氏)は聞き入れてくれませんでした。これ以上、自分の大好きな音楽で世間を欺きたくない」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

 6日、「ゴーストライター」が初めて報道陣の前に姿を現しました。

 「佐村河内さんが世間を欺いて曲を発表していることを知りながら、指示されるまま曲を書き続けた私は佐村河内さんの共犯者です。障害をお持ちの方々、彼の言葉を信じて曲を聴いてくださった多くの方々、見事な演奏をしてくださった演奏家の方々、本当に申し訳ありませんでした」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

 音楽家の新垣隆さん、43歳。これまで、佐村河内守氏の作品とされていた「交響曲第一番 HIROSHIMA」など主要な楽曲は実際は新垣さんが作曲していたというのです。

 「被爆2世であるというヒロシマに生まれて、それを次の世代に(音楽で)伝えていくことが使命だと思っているので」(佐村河内 守 氏、2008年)

 これまで、佐村河内氏は公式プロフィールやメディアの取材に対し、「35歳ですべての聴覚を失い、“絶対音感”に頼って曲づくりを続けていた」としてきました。しかし、6日の会見で新垣さんは、佐村河内氏の「聴覚障害」について、こう証言しました。

 「初めて彼と会った時から今まで、特に耳が聞こえないと思ったことは一度もありません。私が録音したものを彼が聴き、彼がコメントをするというシーンは何度もありました」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

Q.佐村河内氏は耳が聞こえないと装っていた?
 「はい」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

 佐村河内氏は5日、弁護士を通じたコメントのなかで、「別の人物に曲のイメージを伝え、具現化してもらう形で創作活動をしてきた」としていました。

 一方、新垣さんは18年間で20曲以上を提供し、およそ700万円の報酬を受け取ったとした上で、作曲のプロセスについては次のように証言しました。

 「(私が)譜面を書き録音し、それを彼が聴き、(佐村河内氏が)いくつか選んだもの、断片をもとに、あとは私が作曲するという(プロセス)。彼は初歩的なピアノの技術のみであります」(実際の作曲者 新垣 隆さん)

 現在、桐朋学園大学で非常勤講師を務める新垣さん。6日の会見には150人以上の報道陣が詰めかけ、会場は異様な熱気に包まれました。

 18年の沈黙を破った「ゴーストライター騒動」の影響は広がり続けています。

 CDなどを販売していたレコード会社は、商品の出荷をすでに停止していますが、店頭の商品についても販売しないよう店に要請しました。しかし、この店では店頭にあった商品が5日までに完売しました。

 「(この騒動で)売れればいいな。作品自体はとてもいい物だと思うので」(東京堂 大谷 弘 さん)

 佐村河内さんは東日本大震災の被災地にも足を運び、鎮魂歌「ピアノのためのレクイエム」を自らの名前で発表していました。

 「このレクイエムを苦しみながら完成させることができたので、これからはもう少し自信をつけて、この被災地に向かって曲をたくさん書いていきたいという気持ちが今いっぱいで」(佐村河内 守 氏、去年3月)

 しかし、この「レクイエム」も新垣さんが作った曲だったといいます。テレビカメラの前で楽曲を生み出す苦しみについて語っていた佐村河内氏。新垣さんは会見で、そうした佐村河内氏の態度について聞かれると・・・

Q.佐村河内氏の姿は演技だった?
 「私はそう思っています」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

 18年間の沈黙を破って、なぜ、いま告白したのでしょうか。新垣さんは佐村河内氏の作品とされる曲を、フィギュアスケートの高橋大輔選手がソチオリンピックで使うと決めたことがきっかけだったと話しました。

 「偽りの曲で演技したではないかと、世界中から日本に、非難が殺到するかもしれません。いろいろ考えた結果、高橋選手にはこの事実を知ったうえで、オリンピックで堂々と戦っていただきたいと思い、本日このような会見を開かせていただきました」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)

 18年連れ添った「影武者」は佐村河内さんに対して、いま言いたいことはと聞かれ、こう答えました。

 「非常に多くの人々の夢を壊してしまったわけです。やはり、そもそもの関係が間違っていたのではないでしょうか」(実際の作曲者 新垣 隆 さん)
(06日18:07)mbs.jp



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二度と聞くことはないでしょう。

罪深い有名人になったものです。

裏切り者は罪を背負って生きていく。