終章 そして君は、自分の道を歩いていく
ここまで、長い道のりを一緒に歩いてくれて、ありがとう。
最後に、これまで話してきたことを、君のために整理しておこう。
私は、医者という仕事の「影」を語った。
学力という土台の上に、新しい力を積み上げていく必要があること。問われるのは、人と向き合う力や、手の技術だということ。君の力は、医者以外にも、千人、一万人、一億人を支える道で活かせるかもしれないこと。収入には保険診療という天井があり、その優位性も少しずつ変わりつつあること。そして、私自身が、診察室で一人ひとりに時間をかけたいと願いながら、その丁寧さが経営的に報われにくい仕組みに、ずっと悩み続けてきたこと。
そして私は、医者という仕事の「光」も語った。
人の役に立っていることを、直接、いちばん深く実感できること。百人を救えば、百倍の喜びが返ってくること。「ありがとう」の一言で、すべての苦労が報われること。「孫の声が聞こえた」と泣いた、あの患者さんの涙のこと。そして、医師免許という、一生を支える確かな安定があること。
光と影。その両方を、私はできるだけ誠実に、君の前に並べてきた。
なぜ、両方を並べたのか。理由は、はっきりしている。世の中には、片方だけを見せる声があふれているからだ。「医者は素晴らしい、安定している、ぜひなりなさい」という光だけを語る声。あるいは逆に、「医者なんてもう儲からない、やめておけ」という影だけを語る声。どちらも、君のためを思っているようでいて、実は君から「自分で考える時間」を奪っている。片方しか見せないというのは、結論を相手に押し付けることだからだ。
私は、それをしたくなかった。だから、両方を、できるだけ誠実に並べた。あとは、君が自分の心に問いかけて、決めていけばいい。
では、結局、医者になるべきなのか、ならざるべきなのか。
その答えを、私は言わない。
いや、正確に言えば、言えないのだ。なぜなら、その答えは、君の中にしかないからだ。
君がもし、目の前の人を直接救い、その人から「ありがとう」と言われることに、ほかの何にも代えがたい喜びを感じる人間なら、医者は素晴らしい仕事になるだろう。多少の収入の天井も、まわりとの比較も、その喜びの前ではきっと小さなことに思えるはずだ。
けれども、君がもし、一人ではなく何万人、何億人の暮らしを、新しい技術や発明や仕組みで変えてみたいと願う人間なら――その夢を、「医者が安定だから」という理由だけで、簡単にあきらめてほしくない。
大切なのは、繰り返しになるけれど、「両方を知ったうえで、自分で選ぶ」ということだ。
この本を読む前の君と、読んだ後の君とでは、見えている景色が、少しだけ違っているはずだ。読む前の君は、もしかしたら、まわりの大人の大きな声に押されて、ぼんやりと医学部を目指していたかもしれない。
でも、今の君は、知っている。医者の光も、影も。医者以外の道があることも。才能の活かし方が、一つではないことも。そして、ある一人の現役医師が、自分のクリニックで、毎日小さな葛藤を抱えながら、それでも「ありがとう」のために働き続けていることも。
その知識を持ったうえで、それでもなお「私は医者になりたい」と思えるのなら、それは本物だ。その選択を、私は心から応援する。胸を張って、医学部を目指してほしい。
逆に、よくよく考えた末に「私には、別の道のほうが合っているかもしれない」と思えたのなら、それもまた、立派な答えだ。まわりが何と言おうと、自分の心の声に耳を傾けてくれた君自身を、誇りに思ってほしい。
◆ この本を、「私」が書いた本当の理由
私が、医者でありながら『医学部を薦めない理由』というタイトルでこの本を書いた、本当の理由を、ここでもう一度、はっきりさせておきたい。
私は、君に「医者になるな」と言いたかったのではない。
私は、君に「考えることをやめないでほしい」と言いたかったのだ。
まわりが薦めるから、偏差値が高いから、安定しているから――そういう、他人が用意した理由だけで、人生という一度きりの旅の行き先を決めてしまうこと。それだけは、してほしくなかった。
そして、もう一つ。私自身が、保険診療という仕組みの中で、丁寧にやればやるほど経営が苦しくなるという矛盾を抱えてきた。その矛盾に、私はいまだに答えを出せていない。だから、自分の子に「医者になりなさい」とは、軽々しくは言えない。けれども、「医者になるな」とも言いたくない。なぜなら、この仕事には、その矛盾を補ってあまりある「ありがとう」の瞬間が、確かにあるからだ。
私は、そういう、揺れた気持ちの中で、毎日働いている。
その揺れた気持ちのまま、私は、君に語りかけてきた。きれいごとだけでも、絶望だけでもなく、現役の医者がいま感じている、本当の話を。
もう一度、あの言葉を君に贈ろう。
「この世に生を得るは、事をなすにあり」
君は、何かをなすために、この世に生まれてきた。その「何か」が何なのかを、まわりの大人だけにまかせるのではなく、君自身が、ゆっくりと考えて、見つけてほしい。
医者になることは、その「何か」の、一つの答えかもしれない。けれども、唯一の答えではない。
どんな道を選んでも、私は君を応援している。一人の医者として、そして、君より少しだけ長く生きた、一人の大人として。
さあ、顔を上げて。
ここから先の道は、誰のものでもない。君自身の道だ。どの道を選んだって、まちがいなんかじゃない。君が、自分の心と相談しながら、自分の足で歩いていった道なら、それはぜんぶ、君だけの素晴らしい道だ。
その一歩を、心から祝福する。
◆ おわりに ― 数年後の君へ
この本を書きながら、私はずっと、数年後の君の姿を思い浮かべていた。
医学部の白衣を着て、初めて患者さんの前に立つ君。あるいは、研究室で、まだ誰も解いていない謎に挑む君。あるいは、まったく別の世界で、自分にしかできない何かを成し遂げようとしている君。
そのどの姿も、私には眩しく見える。
なぜなら、どの道を選んだとしても、それが「自分で考え、自分で選んだ道」であるかぎり、君はもう、まわりに流されるだけの子どもではないからだ。自分の人生を、自分の意思で生きている。それ以上に立派なことが、あるだろうか。
私は耳鼻咽喉科の医者として、これからも診察室で患者さんと向き合い続ける。明日もきっと、誰かの「ありがとう」のために、丁寧に話を聞いている。経営の数字とにらめっこしながら、それでも一人ひとりに時間をかけずにはいられない、不器用な医者として。
だからこそ、声を大にして君に言いたい。
医者という仕事は、矛盾を抱えながらも、間違いなく素晴らしい仕事だ。けれど、君が医者になるかどうかは、君自身が決めればいい。どの道を選んでも、君の人生は、君が丁寧に生きていく限り、必ず意味のあるものになる。
その当たり前のことを、当たり前に言ってくれる大人が、君のまわりに一人でも多くいてほしい。この本が、その一人の代わりになれたなら、書いた甲斐があったというものだ。
最後に、もう一度だけ。
今この瞬間も、机に向かって参考書をめくっている君。模試の結果に少し落ち込んでいる君。家族の期待と自分の気持ちのあいだで、揺れている君。
君がこれまで重ねてきた努力は、本当に立派なものだ。どんな進路を選んだとしても、その努力はぜんぶ、君の中に積み重なっている。だから、安心して、自分の道を選んでほしい。失敗しても、また考え直せばいい。何度でも考え直せるのが、人生のいいところだ。
君の人生に、ささやかでも幸せな瞬間が、一つでも多く訪れますように。
そして、いつか君が選んだ道の途中で、ふとこの本のことを思い出してくれたなら――そのときは、こう思い出してほしい。
「あの医者は、最後まで、私に道を押し付けなかったな」と。
それが、私が君に贈れる、たった一つの、けれど何より大切な贈り物なのだから。
――ある耳鼻咽喉科クリニックの診察室より

