五島列島は長崎の西方沖に縦に浮かぶ島々で、福江島はその一番下にあります。
全国的にはあまり有名ではありませんが、琵琶湖がすっぽり入る日本で11番目の面積を持ち、人口も33,000人とそこそこ大きな島です。
福江島までは長崎市からフェリーで3時間10分。
その他にも高速船が就航しており、長崎空港や福岡空港から飛行機も飛んでいますので、決してさびれた島ではありません。
が、コロナ禍だったからなのか、それとも元々この島が持つ独特の雰囲気なのか、ただひたすらに静かで穏やかな島という印象が残りました。この島にいると、まるで自分だけが世間から取り残されたかのような気にさえなります。
福江島は隠れキリシタンの集落が多くあった場所で、現在でも少数の隠れキリシタンがお住まいのようです。
「ん?、現在でも隠れキリシタン?」と思われる方が多いと思いますので、まず隠れキリシタンのことをお話したいと思います。
日本におけるキリスト教史を簡単に述べると、戦国時代のさなかにイエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日し、布教を始めました。
その後九州を中心に信者を増やし、大名や武将の一部もキリスト教に改宗して無視できないほどの勢力を持ち始めます。
それに危機を覚えた豊臣秀吉によって禁教とされ、その後江戸幕府も鎖国政策を採ったために段階的に禁教になりました。
このような経緯の中で改宗の強要や弾圧、拷問などが行われ、多くの殉教者を出したことから、後世の我々は「清廉で無害なキリスト教徒を暴力的な為政者がシバキまくった」という印象を持っているのではないでしょうか。
しかし、そうではないと私は思っています。
イエズス会というのはいわばキリスト教の切り込み隊であり、まずイエズス会が新境地で布教して地ならしをし、その後に軍隊が現れて土地を奪う、というのがこの時代のキリスト教国の侵略の常とう手段でした。
実際に長崎や熊本の天草あたりは外国になりかけたり、万人単位で日本人が奴隷として輸出されたりしています。
そのような状況にあって国防の観点から禁教にするのは為政者の当然の義務だと思いますし、時代が時代なだけにその経緯で暴力沙汰になるのも仕方ありません。むしろ禁教が遅すぎたことが被害者を増やした原因であるとも言えます。
イエズス会が侵略そのものを目的としていたかと言えばそうではないかも知れませんが、キリスト教のような一神教が本然的に日本人のような多神教やアニミズム(精霊信仰)の徒を未開な野蛮人と見なし、教化して文明人にしてあげることに宗教的使命感を持っていたことは紛れもない事実です。
余計なお世話としか言いようがありませんが、現代の国際紛争やテロも宗教が背景にあることが多く、宗教とはそれほどまでに人をモチベートするものなのでしょう。
ただし宗教団体の組織論理と信者個人の誠は本質が違うわけで、キリシタン弾圧はやはり心が痛みます。
その過酷な環境の中で、仏教を隠れ蓑にしながら密かにキリスト教徒であり続けた人たちが隠れキリシタンです。
隠れキリシタンは初めは全国に分布していたようですが、徐々に数を減らし、長崎・熊本に多くが残ったようです。
そして驚くべきことに今現在でも隠れキリシタンは存在しています。
私は10年ほど前に初めて知って仰天しましたが、禁教が解かれた後もカトリック教会には所属せず、隠れキリシタンを続けて来た人々がいます。
正確に言えば、信仰をカミングアウトはしたものの、所属や信仰の形態はカトリック教会によらず、隠れキリシタンの形のまま信仰を続けているグループと、なんと現在でも本当に隠れて信仰しているグループがあるそうです。
その理由として、先祖から受け継がれてきた信仰形態を守りたい、隠れ蓑としていた仏教も長年付き合っているうちに捨てられず、純粋なキリスト教徒にはなれない、などがあるようですが、そうなると信仰とは何かということをつくづく考えさせられます。
隠れキリシタンはオラショという意味不明な祈りの言葉を呪文のように唱えるそうですが、それは聖書を読み砕いて教義を理解しようとするキリスト教というより、経典をやはり呪文として唱えてしまう仏教に似ています。
また、隠れキリシタンは必ずしも唯一神やキリストを信仰の対象としているわけではなく、弾圧期に殉教した人や聖地などを信仰の対象にしていることもあるようです。
ようするにプロの聖職者の指導を受けないで200年以上も帰依しているうちに信仰がかなり変質してしまったようで、実際に「隠れキリシタンはもはやキリスト教徒ではない」と言い切る隠れキリシタンの方もいるそうです。
結局、信仰というのは確固たる信仰対象や教義理解、形態が重要なのではなく、いわば恋に恋するかのように、何かを信じたい、心の拠り所にしたいという心の有り様が信仰そのものなのかもしれません。
その現役の隠れキリシタンの方々がこの福江島に住んでいるというのです。
まずは、五島列島で最初に建てられた堂崎天主堂へ。
1908年に建てられた堂崎天主堂は、かつて下五島地区の信仰の中心であったそうですが、教会の役割を浦頭教会に移し、1977年からは資料館として使われています。ですので正確には「堂崎天主堂キリシタン資料館」といいます。
水辺にあるからなのか「日本のモン・サン・ミシェル」という人もいるそうですが、ちょっとそれは盛り過ぎな気が・・・
あえて外国の教会に例えなくとも、この教会は十分に魅力的です。
コロナ禍だからかもしれませんが、古い建物の周辺と内部には誰もおらず、まるで時が止まったような静寂の中、展示物をゆっくりと拝見し、そのあと唯一の動く存在である受付の女性と少しお話をしました。
堂崎天主堂の道すがらにある売店。名物「チリンチリンアイス?」
やはり高齢化の影響で信者さんが減り続けているとのこと。
ここ10年ほど、高齢化の影響という言葉は飽きるほど聞いていますが、このあまりに現実離れした福江島が自分のリアルな生活圏とつながっていて同じ悩みを抱えているということに不思議な感慨を覚えました。
次に水ノ浦教会に向かいます。
水ノ浦教会は真っ白な外装がビックリするほどオシャレな教会で、コロナ禍で中には入れませんでしたが、ネット上で写真を見ると内装まで同じくオシャレに仕上がっています。
中に入れなかったので借りものです(出典:マップルトラベルガイド)
映画「くちびるに歌を」や「最高の人生の見つけ方」のロケ地にもなった場所で、建物に興味のある方だけでなく、映画好き、映えスポット好きの女性なんかには垂涎の場所だと思います。
翌日、渕ノ元カトリック墓碑群に向かいました。
福江島の北西部にデベソのように突き出た草原でできた半島があり、海岸線に沿ってクルマが一台通れる幅しかない舗装道が続いています。そこそこ長い道ですので対向車が来たらどうしようとドキドキしましたが、結局対向車も後続車も来ず、無事に渕ノ元カトリック墓碑群に到着しました。
この渕ノ元カトリック墓碑群もまた信じられないほど現実離れした場所です。
海沿いの道しかない草原に日本式墓地よりゆったりとした間隔で十字架のついた墓と和式の墓が混在している一角が突然現れます。
資料が少ないのでよく分かりませんが、江戸時代の寛政年間に渕ノ元郷に移住してきた隠れキリシタンがいて、その人々や子孫の墓地のようです。
和式の墓もすべてキリスト教徒のものらしく、墓石にカタカナで洗礼名が書いてあったり、両脇に天使像が置かれたりしています。どの墓もキレイに手入れされていますので、宗教遺物ではなく祀る人のいる現役の墓地です。
いずれにしてもよくある映えスポットとは違い、想像したことさえない幻想のような光景が広がり、ここにいると違う世界に引き込まれそうですので写真を撮るなり早々に渕ノ元カトリック墓碑群をあとにしました。
昼食時でしたので、「食堂さんさん」というちょっとした港に建つ小さな定食屋に入りました。
この店のご主人である50代半ばの女性は元は本土でパン職人をやっていましたが、この年に福江島に移住してきたとのこと。
50代半ばと言えば私と同世代で決して若くはないのですが、時が止まったかのような福江島ではそのバイタリティーがひときわ輝いて見え、つい応援したくなります。
実はここ福江島は長崎県の中でも特に移住者の多い島なんだそうです。
自然や食べ物に恵まれていることに加え、ある程度大きな島ですので生活インフラや本土との交通の便が整っているからということらしいのですが、理由は他にもあると私は思っています。
それは昔から隠れキリシタンという移住者を受け入れてきたオープンな風土です。
五島のキリシタンは一時は弾圧によって壊滅したものの、減った人口を補うために五島藩が大村藩(長崎県の一部)に依頼し、大勢のキリシタン農民を受け入れました。五島藩は開拓や塩づくりの労働力が欲しかったようですが、キリシタンにとってみれば、大村藩より五島藩の方がまだ取り締まりが厳しくなかったということがあり、移住後も隠れキリシタンとして信仰を続けたようです。
必ずしも先住民が歓迎したというわけではなかったのかもしれませんが、消極的にでも移住者を受け入れ、「五島崩れ」と呼ばれる明治政府によるキリシタンへの大弾圧まで静かに共存したことは事実です。
食堂「さんさん」のアカムツ(のどぐろ)定食
そういえば、最近は地方移住がちょっとしたブームで、私も密かに移住場所を探していますが、移住には「失敗」という結末もあるそうです。
そのほとんどの原因は地元の人々との軋轢らしいのですが、多くは地元側に非があると私は思っています。
例えば、移住するなり役場に連れていかれ、地域の風習に従う、共同作業に参加する、などを誓わされる地域があったり、地元の有力者の機嫌を損ねると村民全員からそっぽを向かれ、最後には「出ていけ」と言われることなどがあるそうです。
まあ地元側の気持ちは分からなくもありませんし、昔からのルールに従って地域の伝統や共助を維持しようとする努力を私は嫌いではありません。
とは言え、今の時代にそれを続けることは無理があります。
人間の価値観や要求水準は情報によって形成されます。
テレビやネットがほぼ完全普及し、情報という面では日本全国で同じですので、その中で地域独自の偏狭な価値観を移住者に押し付けても「了解しました!」とはならないでしょう。
それは地元に辟易として都会に脱出する若者についても言えることですが、特に移住者は地元に同化するために移住してくるわけではないのです。
ここ福江島ではとっくの昔にその葛藤を乗り越え、100年間も隠れキリシタンという移住者と共存してきた精神風土が現在の移住人気につながっているのだと思いますし、そのことによって福江島の独自性は弱まるどころかむしろ独特のものに昇華していったことは何とも考えさせられることです。
井持浦ルルド水の聖母堂という場所に向かいます。
この「ルルド」という言葉はキリスト教徒にとっては説明不要な日常単語なのか、そのものズバリの簡潔な説明が見つかりません。
200年ほど前にフランスのルルドという場所に聖母マリアが出現し、マリアが指さした洞窟の岩の下から泉が湧き出し、その水を飲んだ人々の病気が治った、というのが物語の発端らしく、ルルドというのはフランスの地名だと分かりますが、洞窟と泉を合わせた施設を指してルルドと言う場合もあり、ほかの地にもルルドがあるとか、この井持浦の聖母堂も「日本初のルルド」と言っていますので、その後に多少普通名詞化したのかもしれません。
間違いを恐れずに定義すれば、「フランスのルルドの泉を模した洞窟と泉で構成されるマリア信仰のための施設」ということなのでしょうか。
井持浦聖母堂では、敷地内に築山のようなものを築き、その中腹の凹みにフランスから運び込まれたマリア像を安置し、下部の水たまりに本物のルルドの泉から汲んできた水を混入して作ったそうです。
そして、ルルドの前には柵で囲まれた立派なステージ状の構造があり、今は誰もいませんが、信者の方々がここに立ってマリア像を拝むのでしょう。
宗教心が爪の先ほどもない私にはありがたみの分からない施設ではありましたが、生真面目で清々しい印象が残りました。
福江島の最後に、ルルドからほど近い大瀬崎灯台に立ち寄ります。
先っぽ好きとして灯台と聞けば意味なく寄ってしまう習性があり、とは言え行ってみればほとんどが似たり寄ったりの風景にガッカリして帰ることが多いのですが、ここは違いました。
陸地からまるでこの灯台のためにしつらえたかのように地面がニューっと伸び、その先にプロポーションのいい灯台がちょこんと乗っています。灯台そのものが何か人格を持ち、哀愁を帯びながら海を眺めているようで、何とも詩になる灯台です。
この日は風が強く、灯台まで歩くのはあきらめましたが、むしろ海を眺めている灯台をずっと後ろから眺める方が抒情的な感じがします。この島は灯台までも絵になってしまうようです。
後ろ髪を引かれながら、福江港ターミナルからフェリーに乗って長崎市に戻ります。
つづく