今回は油小路の変です。

上の写真は堀川通(旧醒ヶ井通の一部)です。

新選組不動堂屯所を北上した場所で、徒歩にすると5分もかからないです。

伊東甲子太郎もここを通っていたものと思われます。

見づらいですが右奥にある横断歩道のある道(木津屋橋通)を東(この写真でいうと右折)に進みます。


堀川通と木津屋橋通の交差点から東方向を撮影しました。

今でも割りと細い道なので当時はもっと道幅が狭かったのかも知れません。


止まれの先が油小路と木津屋橋通の交差点です。

左折北上すると伊東甲子太郎遭難の地があります。

故あさくらゆう先生が「茨城人の事件簿」に掲載した「遺骸見聞書」によると伊東さんは七箇所の傷を負っているのですが、【以下、私の想像】初撃と思われる突き傷は左の腹なので木津屋橋通を左折した直ぐの所に刺客が潜んでいた可能性があります。

というのも背後からの傷、身体の左からの傷はないからです。

仮に交差点の南(写真では右方)に潜んでいたならば当然背中に傷があるでしょうし、正面からならばいくら夜とはいえ北辰の免許が気付かない訳がありません。

という訳で交差点の北(写真では左方)の物陰に潜んでいたと考えるのが合理的かなと考えます。


なお、「茨城人の事件簿(歴史企画研究叢書 第十集)」は刊行当時、ヤフオクで販売されていたのを買い求めたものなので今は手に入るのか分かりません。


とは言ったものの右側通行していた場合、躱すことは出来るやも…

ん、まてまて、土方歳三ならばここは右と左に刺客を潜ませて挟み撃ちにするかな?でもそれだと背中に傷ができるな…

あれ?よくよく考えてみると伊東さんは堀川通から木津屋橋通へ確実に右折するとは限らないな。

そのまま北上しても七条通とか他の通りを右折すれば御陵衛士の屯所へ行けるんだし。

そうするとここに刺客を伏せておいても確実性に欠けるな。

道中一緒に歩いて誘導したらいけるかな…

伊東さんが何回も不動堂屯所或いは近藤勇の妾宅に来ていて毎回同じ道を通っていたら…

現代の工事による通行止めみたいなことで木津屋橋通へ右折するしかなかったら…


まあ、すべて想像に過ぎず決定力のある史料が出てこない限りは判明しませんね汗


油小路と木津屋橋通の交差点から北方向を撮影しました。

やっぱり幅員は狭く伊東さんの絶命の場所までは5mくらいです。


すみません。ここが伊東さん殉難の地ですがお寺の名前を見てくるのを失念しました。

交差点からすぐの場所にあります。

ここに来るまで伊東さんがどれだけ傷を負ったかは分かりませんが、殆どの傷が深手なのでここまで移動出来ただけでも凄い気力の持ち主であったことが伺い知れます。


お寺さんの門前に案内板がありました。

これによるとこの場で藤堂平助らも討たれたように書かれていますが、藤堂らは油小路と七条通の交差点付近で討たれたようです(「茨城人の事件簿」より)。


伊東甲子太郎落命の場所です。

この石塔?のところで絶命されたようです。


石塔の横に碑がありました。

私は新選組が好きですが、中でも山南敬介が最も好きです。

なので山南さんと仲良くしてくれたであろう伊東さんも好きです。

ご冥福をお祈りさせていただきました。


前述した油小路と七条通の交差点です。

伊東さんの遺骸は籠に乗せられた状態で置かれていたようです。

今の風景では四方の視界がよく、夜とは言え奇襲にはならないかと思いますが、その分、伏兵も多く置けたのではないかと思います。


油小路の変を描いた小説などでは、藤堂平助が一番最初にあっさりやられた描写をされているのを散見します。

しかし受傷箇所が何箇所もあり小傷(接戦時に出来やすいそうです。)も数箇所あったので、背中への一太刀でほぼ即死なんてことはありません。

しっかりと応戦した結果、討ち死にしたことを藤堂平助の名誉のために付け加えさせていただきます。