依田学海「日録」

自殺を見し話(現代語簡約)

「私が自殺を直接見た訳ではなく、自殺を直接見たと言う人が語った内容をこれに記載する。惨劇の物語ではあるが、勇敢人に優れている様子を伝えることは、読む人が勇気を出す切っ掛けになることもあるだろう。友人である松本良順、慶応の末(山南敬介は慶応改元前の元治二年二月に逝去している。また、元治二年二月に松本良順は在京していない。別人の伝か又は松本良順も又聞きである可能性はある。)在京しているとき、新選組近藤勇の配下が法(局中法度?何の法であるか不明)に触れて自刃させられるのを見た。その人は山南某とて水戸出身(大阪市東区の区史にも同様に山南を水戸出身の芹沢鴨と同系統と記載しているものがある。)の人である。自刃することが決定し、(近藤)勇をはじめ幹部が列座してこれを見守ることになった。山南は屈強の若者(当時の年齢であれば山南敬介は松本良順より4歳下であるに過ぎないので「若者」という語の使用に違和感を感じる。ただし、松本良順が中高年になってからの談話であれば山南を若者扱いしてもおかしくはない。)にして罪の意識を感じている様子はなく、短刀を抜き出し切っ先を残して白い布で巻き、まず左の脇腹に突き立てた。鮮血がサッと迸ったが何を思ったのだろうか。脇腹に刺さった短刀を抜き、布を巻き直して傍らに置いた。(※陰腹を切る。歌舞伎などで演者が刀を持ち、観客に隠れて切腹し現れる演技から、痛みを我慢しながら感情を伝える場面のこと、とあります。これを実際にやったのかも知れません。)。そして一編の書を袂(たもと)のうちより取り出して自らの前に広げ最初の箇条より読下し、「さてこの条はそれがしが預り知らぬ事である。こちらの条は知っている。」等数箇条あるのを山南は一々説明し、「自分が知らぬ罪状まで被る謂われがないので明らかにするために申し上げたのです。短刀を突き刺す前にこのことを申し上げようとは思ったけれども、命を惜しむ奴だなどと言われるのも口惜しいのでこのように刀を突き立てたのち抜き置いて申し上げたのだ。」と言う。

近藤が、「山南君が言わるることは殊勝なことである。迅く迅く。」と言えば、山南は「畏まりました。」と言って刀をまた手にもってさきほどの傷口に差し込み、「えいやっ」と声を出して引き廻そうとしたけれど刀が腹に深く入ってしまったためか引くことが出来なかった。

このとき近藤の次席に座っていた土方歳三が「やあ山南、急ぐことはない。刀を深く突き入れたので引き廻しにくくなってしまったのだ。浅く浅く」と声をかけると「心得たり」と山南は少し刀を抜き出し力を込めて引き廻したところ、バリバリと雷のように響き渡り、紅の糸を引くが如くまたサッと迸って山南は前の方に伏し大声で「介錯頼む」と言ったので、「おう」と応えて事前に用意していた配下の者が一人走り寄って短刀で山南の喉を掻き切った。

罪により処刑されたのではなく自ら悔やんで死んだ者であったので、そのような者を断首しないことは新選組の規律であると聞いたことがある。

松本良順は今に至るまで切腹したときの音と叫んだ声が耳に残って忘れることができないと言っていた。

 

岩崎鏡川「坂本龍馬関係文書 第二」

山南敬介はこの事(西本願寺への屯所移転)について近藤勇等と意見を違え、終に屠腹してしまった。

 

竹田錠三郎「幕末浪士の来書」

※「歴史研究第705号」寺川洋平先生発表

ある日仙台元浪人より加盟した三南敬介という者、市中の知り合いに金銭を為す(借りる、の意か。)とは武士道に外れると詰問された。

山南は一言の弁明もなく目前にて自刃する。

 

 

以上、三通りの山南の死を伝える記事を紹介しました。

あくまで個人的な意見(というより感想)ですが、依田学海の残した記事は臨場感があふれるものとなっていること、近藤らとのやり取りが細かく記載してあるため全くの作り事に見えないこと、切腹に際し近藤以下幹部が集合していることから信ぴょう性が高いように思えますが、山南敬介の死が元治二年二月二十三日(墓石、過去帳に記載)であるのは動かせない事実であるため、この時期に京都にいない松本良順が立ち会うことができないという大問題があります。

依田学海が聞いた相手が松本良順ではない、例えば依田学海本人が見たのであれば解決するのですが空想の域を超えません。

今後の新史料に期待をすることにします。