第4章 第10節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


 इन्द्रो वा अगरे असुरेषु पाशुपतमचरत् ॥१०॥


indro vaa agre asureSu paasutamacarat ॥10॥
 
 
【然るに、インドラ神はアスラ達の中で最初に[1]パーシュパタ〔の誓戒〕を行った[2]。】



[1]agreは最初という意味。[2]acaratは、car(行う)の直説法過去である。
 
 
 最初のパーシュパタ(畜主派教徒)が、ヴェーダの主神であるインドラ神であるという宣言である。その理由は次節で語られることになるのでここでは敢えて詳述しない。ちなみに現代ヨーガの解説が終わればいよいよ予告した遠隔透視を基にしたシャーマニズム技法の解説を行うわけであるが、その術を以って筆者は、インドラ神のダルシャンを何度も得ている。馬鹿げた話だが、最近では異次元の色々な場所に行く為の前哨基地としてインドラ神の住居をゲートとして利用させてもらっている。シャーマニズム技法をマスターしていない方々から見れば、何ともお花畑の眉唾話であるわけだが、筆者はインドラ神とお友達なんっすよ(一同失笑)。インドラ神は巨大な雷神の姿から抜け出てブラーフマナの姿で自分のヴァジュラ(金剛杵)の上で瞑想しているのが筆者によってよく目撃されている。神は疑いなく存する、何となればよく見かけるから。


 筆者は以前、現代ヨーガは徹頭徹尾、イギリスのコロニアリズム(植民地主義)とインペリアリズム(帝国主義)の所産であると述べた。現代ヨーガの成立条件として考えられるのが、知識階級の人々の意思疎通の手段がサンスクリットから英語に取って代わったこと。英語によるメディアの発達。また写真(複製技術)によって技法の伝達が可能となったこと。こうして英語を媒介に文字と写真による印刷物を通してヨーガの技法が容易に伝播可能となったのである。またイギリスによる植民地化はインド人にそのヘゲモニー(覇権主義)の反動として民族主義を目覚めさせ、日本の文明開化や欧化政策に近い、西洋の良い面を取り入れ、自己の弱点を矯正しようという姿勢が生まれた。かくて西洋式の身体トレーニング方法が取り入れられ、その受容と反省の中からインドの国民的運動法としてハタ・ヨーガが注目されるようになった。しかしハタ・ヨーガは当時でも、サバルタン的な技法であり、オーソドックスな技法ではなかった。また西洋的な肉体中心主義的発想と写真と文字でのヨーガの伝播による限界が、アーサナ中心主義を生み出した。そしてヨーガの霊的な部分はアーサナ中心主義によって周縁に追いやられたわけである。こうした現代ヨーガの大雑把な流れを念頭に置きつつ、前回に引き続き現代ヨーガについて検討していくことにしよう。


【バンガロール・ヨーガ】

 バンガロール・ヨーガの中心人物は、コーラール・ヴェーンカテーシュ・アッヤル(1897~1980)である。


 彼はカルナータカ州に生まれ、若い時からサンドウやマクファデン、マシックなどの西洋のマッスル野郎達に強く影響を受け、西洋式のボディビルディングを実践した。1922年にはバンガロールにインドで最初の商業的な西洋式ジム、ヘラクレス・ジムナジウムを開設する。アッヤルは、ボディビルとハタ・ヨーガを融合させた身体トレーニング法で有名となった。1930年には、『マッスル・カルト』を著す。後年、ニサルガダット・マハーラージの弟子としてアドヴァイタの覚者として世界的名声を得たラメーシュ・バルセーカル(1917~2009)も、身体トレーニング法においてはアッヤルの弟子である。アッヤルのハタ・ヨーガの系統は不明である。しかし、彼の弟子であり盟友であるシーターラマン・スンダラム(1901~1994)は、マハーラーシュトラ出身の女性から若い頃にハタ・ヨーガを学び、アッヤルとスンダラムの二人でデモンストレーション付きの講演ツアーに出かけていて、その時にスンダラムがハタ・ヨーガを担当していることから推論するに、アッヤルのボディビルとハタ・ヨーガの融合したトレーニング法において、ボディビルディングの技術は、主にアッヤルが、ハタ・ヨーガは弟子のスンダラムの影響によって成立した可能性が高いと筆者は考える。アッヤルは、スカンジナビア体操のリング体操は効果が少ないと考え、その代わりになるものとしてハタ・ヨーガをそのトレーニングに加えたのであった。彼はスーリヤ・ナマスカールも取り入れている。ヨーガ療法による治療でも有名で、マイスールのマハーラージャ、クリシュナ・ラージャ・オーデーヤルⅣ世(1884~1940)の卒中後の健康を回復させた功労により、ヴィヤーヤン・シャーラの建物を下賜されている。またアッヤルの高弟のアナント・ラーウによってマイソールのジャガンモーハン宮殿の中にマイソール支部が設置された。このアッヤルのマイソール支部のジムの目と鼻の先には、マイソール・ヨーガのクリシュナーマーチャリヤのヨーガ道場があった。そして若者には、アッヤルの男らしい道場の方が、古臭いクリシュナーマーチャリヤのヨーガ道場より当時、人気があったようである。アッヤルの弟子のスンダラムは、1929年にボンベイ・ヨーガのクヴァラヤーナンダなどの影響を受けつつ現代ハタ・ヨーガの教本である『Yogicm Physical Culture or The Secret of Happiness』を出版している。また彼は1930年代にバンガロールのアッヤッパ・ガーデンの近くにヨーガ・シャーラを作っている。

シーターラマン・スンダラムとその奥さん

 近代的なボディビルディングをメインとするバンガロール・ヨーガの影響が、隣に道場を構える現代の主流派となったクリシュナマーチャーリヤのマイソール・ヨーガをある程度、近代的にする刺激となったと考えられる。ちなみにマイソール・ヨーガのラメーシュ・バルセーカルは、アドヴァイタの覚者のイメージしかないが、彼の経歴はインドが生んだスーパーマンのそれであるので紹介しておく。彼は若い頃は、師匠のアッヤルの下でボディビルで鍛えて、『グレート・ブリテン』誌で「もっとも鍛え上げた10人の男」に選ばれている。1938年の全インド美男コンテストでは優勝もしている。つまりイケメンかつマッチョ野郎だったわけである。


 ならば脳筋野郎に違いなかろうと判断しがちであるが、彼はインドの民間銀行の最大手であるステート・バンク・オブ・インディアの頭取まで出世街道を上り詰めている。つまりイケメンでマッチョで銀行の頭取のスーパー・ビジネスマンだったわけである。



 世俗における富と地位と名誉、さらには美人な奥さんに可愛い子供に至るまで一切合財全てを手にして、それにも飽きたらずニサルガダット・マハーラージの下で覚醒までしているのだから、世俗、超俗両面における漫画のような人物なわけである。言わば漫画の課長島耕作が会長島耕作になって最後に座禅で覚醒し大阿闍梨島耕作になったと考えれば、その途方もない漫画を超えたスーパーマンぶりに驚き呆れるしかないわけである。




 一つだけ難癖をつけさせて頂ければ(別に嫉妬とか自分してないっすよ~あっはい)、バルセーカルの覚醒本が、内容的に覚者としては格落ちの感が否めないことだけが、筆者の如き凡人にとっては救いである。そんな覚者のバルセーカルが若い頃にハタ・ヨーガの本として出した1940年の『Stream Lines』を見るとインドの若者特有のナルチシズム満載の写真が多数掲載されていて、その我が世の春を謳歌する姿は、人をして苦笑いと失笑を起こさせるに十分である。



【アウンダー・ヨーガ】

 前回の記事の順番だと次にマイソール・ヨーガの検討に入るはずだが、順番を入れ替えてスーリヤ・ナマスカールを世に喧伝したアウンダー・ヨーガについて見ていく。アウンダーと言う地名を聞いて「ああ、あのアウンダーね~」と言える人がいるならその人はインド通である。アウンダーとはマハーラーシュトラ州の内陸に位置するど田舎の街である。筆者は、アウンダーの12のジョーティル・リンガの一つとも言われるアウンダー・ナーグナート寺院訪問の為に一度訪れたことがある。アウランガーバードからバスを乗り継いで3時間ぐらいのところだったと思う。途中のバス停留所で降りたところ、日本人がやって来た~と言ってバス停にいた数百人のインド人に囲まれてボリウッド・スターなみの扱いを受け、数百人の群衆に高々と手を挙げ、彼らの歓声に答えたことが昨日のことのように思い出される。その時、筆者は今生の有名人のカルマを全部使い果たし、こう誓ったのであった。一回の群衆の歓声でも鬱陶しいのにこんなのを毎日受けるボリウッド・スターになるなんて馬鹿げている。こんな歓声を受けたいが為にスターを目指す奴がいるなら、そいつはバカに相違ない、俺は有名人になるのは今生ではやめにしよう。それに過去世でそういうのは毀誉褒貶ふくめて散々受けたからと。つまりアウンダーの周辺は、日本人だというだけでボリウッド・スターなみの歓声を受ける大変など田舎なのである。

インド全土に散らばる12のジョーティル・リンガを祀る寺院を5ヶ月で巡る旅の途中、アウンダー・ナーグナート寺院に立ち寄った際の長髭の筆者(2012)

ナーグナート寺院の地下に鎮座するジョーティル・リンガ(筆者撮影)

 そんなど田舎を治めていたアウンダー藩国のラージャ(藩王)であったバヴァンラーウ・パント・プラティニディ(1868~1951)が、その父より幼少期の時に、身体トレーニング方法として学んだのが、スーリヤ・ナマスカールであった。


 その当時、スーリヤ・ナマスカールは、ヨーガの一種とは見なされておらず、軍事教練やレスリングの準備体操として、マラーター族の戦士の間に伝わっていたのであった。ムンバイー・ヨーガのヨーゲーンドラも、スーリヤ・ナマスカールは、ヨーギンの間では禁止されていると述べていて、そもそもハタ・ヨーガという認識では全然なかった。アウンダーの藩王バヴァンラーウ・パント・プラティニディは、始めサンドウの西洋式のトレーニングに励んでいたのだが、レスラー型のゴツい身体になるのに嫌気が差して、痩せマッチョな身体造りを目的に自分の父親から学んだスーリヤ・ナマスカールを再び日課にするようになった。


 インドは当時、英国の植民地であり、その原因の一端がインド人の貧弱な身体性にあると考えた多くの体育家同様に、バヴァンラーウ・パント・プラティニディも自分の臣民の体力作りと健康増進の為に広く推奨したのがこのスーリヤ・ナマスカールであった。


 バヴァンラーウ・パント・プラティニディの古式のスーリヤ・ナマスカールは、第2ステップでの後ろに身体を反らせる動きがない。その後ろに反らせる動きをスーリヤ・ナマスカールに導入したのがバンガロール・ヨーガのK・V・アッヤルであった。


 もしこのブログの読者でスーリヤ・ナマスカールをする時、第2ステップで身体を後ろに反らせるなら、それはバンガロール・ヨーガのK・V・アッヤルの遺伝子を受け継いでいるのであり、「あ~いやいや、俺のスーリヤ・ナマスカールは金輪際、後ろに身体をのけ反らせたりはせぬわい」と言われる方がいるなら、それはバヴァンラーウ・パント・プラティニディの古式のアウンダー・ラージャ式スーリヤ・ナマスカールを受け継ぐ貴重な技術の相伝者ということになる。


 K・V・アッヤルの後ろにのけ反らせる式のスーリヤ・ナマスカールは、アナント・ラーウが運営を任せられていたマイソールのアッヤルのジムに隣接した、マイソール・ヨーガのクリシュナマーチャーリヤのヨーガ・シャーラでも取り入れられる。またバヴァンラーウ・パント・プラティニディの息子のアーパー・パント(1912~1992)によってシヴァーナンダ・サラズヴァティー(1887~1963)率いるリシケーシュ・ヨーガにもその技法が伝えられ、取り入れられたのであった。


 マハーラーシュトラ州の田舎の藩王バヴァンラーウ・パント・プラティニディによって世に弘められたスーリヤ・ナマスカールは、もともとはマラーター族の戦士の肉体トレーニングの方法であって、それは腕立て(ダンド)とヒンドゥー・スクワット(バイタク)を組み合わせたものであり、ハタ・ヨーガとは全く性質の異なる戦士育成のトレーニング思想の下に発達したものであった。それが現代ヨーガでは、基本中の基本となったのはバヴァンラーウ・パント・プラティニディとアーパー・パント親子の貢献によるものである。


【マイソール・ヨーガ】

 次は真打ちマイソール・ヨーガである。マイソール・ヨーガについてはドキュメント映画の『聖なる呼吸』に詳しい。マイソール・ヨーガはティルマライ・クリシュナマーチャーリヤ (1888~1989)によって作られた。




 クリシュナマーチャーリヤの祖父は、マイスール(マイソール)のヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ派)のパラカラー僧院の長であった。彼はパラカラー僧院でヴェーダーンタを、ヴァーラーナスィーの大学でサンスクリットと論理学を、パトナ大学で六派哲学を学んだ。彼のヨーガの師は、詳細不明のヨーギン、チベットに住むラームモーハン・ブラフマチャーリーであると述べられているが、後年の彼の弟子達によるクリシュナマーチャーリヤのヨーガには霊的な方面への関心が欠けていたという証言を基に検討すれば、偉大な霊的グルが彼にヨーガを教えたとは到底考え難いので、よくある自らの教えに箔を付ける為の虚飾された伝承の創作と考えられる。彼は遊学を終え1924年にマイスールに戻る。そして36才の時に結婚したのがベーッルール・クリシュナマチャーリー・スンダルラージ・アヤンガールの12才になる姉であった(幼児婚!)。かくて『ハタヨーガの真髄』で有名なB・K・S・アヤンガール(1918~2014)は、6歳にしてクリシュナマーチャーリヤの義理の弟となったのである。


 1931年には、ヨーガとミーマーンサーの教師としてマイスールのジャガンモーハン宮殿に出仕する。当時のマイスールのジャガンモーハン宮殿には、K・V・アッヤルのボディビルを教えるジムがあり、当時のインドの子弟には古臭いヨーガを教えるクリシュナマーチャーリヤのヨーガ・シャーラより、アナント・ラーウのジムの方が人気があった(『ヨガ・ボディ』  P249)。1934年には、ボンベイ・ヨーガのクヴァラヤーナンダのカイヴァリヤ・ダームに三日間滞在し、ボンベイ・ヨーガの科学的手法を取り入れた先進的なヨーガのトレーニングを見学している。クリシュナマーチャーリヤは、当時出版されていたボンベイ・ヨーガのクヴァラヤーナンダの『ヨーガ・ミーマーンサー』(1924年)やバンガロール・ヨーガのスンダラムの『ヨーガ的身体文化』(1929年)に続き、『ヨーガ・マカランダ』(1934年)を出版している。かくてボンベイ・ヨーガの現代的な取り組みや、隣接するバンガロール・ヨーガのアッヤルの道場からスーリヤ・ナマスカールを吸収し、またカルカッタ・ヨーガのゴーシュ兄弟の訪問を受けたりなど主要な現代ヨーガの少なからぬ影響の下でマイソール・ヨーガが成立したのであった。しかし、隣接するバンガロール・ヨーガの道場主アナントラーウは、クリシュナマーチャーリヤのヨーガは、サーカスの技術をヨーガとして教えている(『ヨガ・ボディ』 P254)と批判している。クリシュナマーチャーリヤのマイソール・ヨーガではほとんど瞑想は重視されていなかった。彼の下からアシュターンガ・ヴィンヤーサ・ヨーガのクリシュン・パッタービ・ジョーイース(1915~2009)、義理の弟、B・K・S・アヤンガール(1918~2014)、ロシア女性のインドラー・デーヴィー(1899~2002)、息子のティルマライ・クリシュナマーチャーリヤ・ヴェーンカト・デーシカーチャール(1938~2016)等が育ち、現在に至るマイソール・ヨーガの盛況の因となったのであった。現代ヨーガの試金石がマイソール・ヨーガと思えば間違いないだろう。そしてマイソール・ヨーガの系譜から現代において全米ヨーガ・アライアンスが成立したのであった。


【リシケーシュ・ヨーガ】

 続いて現代ヨーガとしては後発のリシケーシュ・ヨーガについて。ヨーガの本場と言えば、ビートルズもやって来たリシケーシュを思い浮かべる人も多いだろうが、スワーミー・シヴァーナンダ・サラスヴァティー(1887~1963)率いるリシケーシュ・ヨーガは、様々な先発の現代ヨーガを綜合したものであると考えられる。


 シヴァーナンダはもともと医師であり、当然、知識人として英語文献に触れる機会が多かった。彼はヴィシュワーナンダ・サラスヴァティーの弟子であるが、その『Yogic Home Exercises』(1938年)を見る限り、既に出版されていたヨーガの書物からの影響が顕著に見受けられる。もし仮に彼にヨーガのグルがいるなら、当然その修業時代を含めてそうした話が随所に思い出話として盛り込まれると考えられるが、そうした話題は皆無である。現代ヨーガの愛好家同様に彼も多くの先行の英語文献による文字や写真を通した独習とサンスクリットのハタ・ヨーガ文献の研究によってリシケーシュ・シークエンスとして有名なハタ・ヨーガの体系を成立させたと考えられる。彼の弟子は多いが、その中でサティヤーナンダ・サラスヴァティーは、ビハール・ヨーガを創始した。また前述のアウンダー・ヨーガのアーパー・パントよりスーリヤ・ナマスカールが伝えられているので、リシケーシュ・ヨーガは現代ヨーガの基本的体系を具えたものとなっている。


【アムリトサル・ヨーガ】

 最後はシク教アムリトサル・ヨーガである。筆者が初めてインドに16才で一人旅をした時に、ディッリーから最初に向かったのがシク教徒の聖地アムリトサルであった。一応便宜上、アムリトサル・ヨーガとは名付けているが、アムリトサルにシク教ヨーガの中心地があるというわけではない。とは言え、シク教の成立は、カビールやナート派のヨーギーの影響があるのでシク教徒にヨーガが伝わっていてもおかしくはないと考えたくもなるのも人情である。しかしシク教の教えの体系にハタ・ヨーガが取り込まれているということはなく、むしろヨーガの修行は否定されている。どういう経緯で近代のシク教の人々がヨーガをマスターしたのかは、興味ある問題ではある。ちなみにシク教の人々の識別方法は簡単で、必ず副名がシンである。ゴーヴィンド・シンだとか、タイガー・ジート・シン等。アムリトサル・ヨーガは、アメリカにおいて活躍した人々によって知られるようになった。ワッサーン・シン(1882~1942)は、香港を経由して1906年にサンフランシスコにやって来た。1922年よりニューソート思想的なヨーガを教え始め、『健康とプラーナの秘密の鍵』を出版している。


 バグヴァーン・シン・ギャーニー(1884~1962)は、国粋主義者で、インド独立を目指すガダル党に所属していた。彼も主にニューソート思想を基にしてヨーガを教えたようである。


 リシ・シン・ゲールワール(1889~1964)は、ケヴァラヤーナンダの『ヨーガ・ミーマーンサー』の影響を受け、ハタ・ヨーガの教本『実践ハタ・ヨーガ』(1926年)を出版した。彼もニューソート的な思想を基にヨーガを説き、通信講座を開講した。


 他に有名なヨーギンとして、アメリカ軍に入隊し、インド人のアメリカ市民権闘争で知られるバガト・シン・ティンド(1892~1967)がいる。彼はナーダ・ヨーガの系統であるスラト・シャブド・ヨーガによる瞑想法を教えた。


 また彼の友人のサードゥ・バルワント・シン・グレーワール(1899~1985)もバガト・シン・ティンドの影響の下でヨーガを教えた。
 こうしてアメリカの歴史を彩るシク教アムリトサル・ヨーガを見ると彼らが故郷でヨーガの専門的なトレーニングを受けた形跡はほとんど見られず、ニューソート的ヨーガを教授していたのが分かる。アメリカに移民してきた彼らは、当時のアメリカのニューソート思想のブームに乗ってアメリカ人のニーズに従い、オリエントの神秘的グルを演じ、異国での生計を立てる為にシク教徒の商魂に従いヨーガを講じていたように見受けられる。そもそもシク教の教えそのものが、ヨーガによるエリート的な救済論を否定しているのであるから、ターバンを巻いたシク教徒のインド人がヨーガをマスターしているだろうという期待は、日本人がみんな忍術や空手の達人だと期待されるに等しい。とは言え、日本人ならちょっと空手をかじってたりするので案外、海外でそういうニーズに応えることができる場合もある(筆者も十年ぐらい大東流を修業しているので、インドで誤魔化しの合気道の道場ぐらいならやろうと思えばできるはずである)。アメリカのシク教アムリトサル・ヨーガは、どちらかと言えば紛い物に近いと言えよう。ついでに時代は下ってシク教アムリトサル・ヨーガのスターであるヨーギー・バジャン (1929~2004)についても触れておく。


 火の呼吸(バストリカー・プラーナーヤーマ)として知られるクンダリニー・ヨーガを世界に弘めた彼は、後年、シク教の聖者サント・ハザーラー・シン (1908~1981)に若い頃にそのヨーガの教えを受けたと語っているが、シク教の教えに反するヨーガをシク教の聖者に教わるというのは矛盾でしかない。


 初期の発言を基にした近年のフィリップ・デスリップの研究(2013)によれば、実際のところそのハタ・ヨーガの師は、インディラー・ガーンディーのヨーガの師であったスワーミー・ディーレーンドラ・ブラフマチャーリー (1924~1994)であり、シク教の霊的な教えは、マハーラージ・ヴィルサー・シン (1934~2007)に受けたとされる。



 彼のクンダリニー・ヨーガの教えは、スワーミー・ディーレーンドラ・ブラフマチャーリーのスークシュマ・ヴィヤーヤーマにおいて重視されたバストリカー・プラーナーヤーマや、ウッターナパーダ・アーサナを用いたものである。これにシク教徒のマハーラージ・ヴィルサー・シンの霊的な教え(彼はハタ・ヨーガを教えてはいなかった)を加えれば完全に再構成可能なものである。従ってヨーギー・バジャンのクンダリニー・ヨーガは、シク教徒に古くから伝わるヨーガの教えではなくて、現代ヨーガの定義に当て嵌まる、ヨーギー・バジャンによって再編されたものでしかない。ちなみに2019年には、ご多分に漏れず彼は、複数の白人の女弟子と不適切な性的関係があったと暴露本が出ている。現代日本において彼の直接の弟子や孫弟子(時任三郎の奥さん)などが活躍している。



 こうして我々は、①ボンベイ・ヨーガ②カルカッタ・ヨーガ③バンガロール・ヨーガ④マイソール・ヨーガ⑤リシケーシュ・ヨーガ⑥アウンダー・ヨーガ⑦アムリトサル・ヨーガと順番は多少予定と違ったが一通り見てきた。起源から言うと、ボンベイ・ヨーガは、インド北東部のヴァイシュナヴァ系統、カルカッタ・ヨーガは、インド北部のラーヒリー・マハーシャイ系統と北東のダシャナーミー・サンプラダーヤ系統、バンガロール・ヨーガは、半分はインド中部のマハーラーシュトラ州系統、マイソール・ヨーガは、クリシュナマーチャーリヤがヴァイシュナヴァであり、インド北部のヴァイシュナヴァ系統と見做してよいだろう。リシケーシュ・ヨーガは、先行の現代ヨーガの影響の下に成立した。アウンダー・ヨーガは、マハーラーシュトラ州の戦士階級の体操法由来。アムリトサル・ヨーガは、先行のヨーガ文献の影響の下か、北部インドのヨーガの影響の下での成立。こうして見ると現代ヨーガに、ナート派が直接影響を与えた形跡は皆無である。また現代ヨーガの本拠地は南インドが多いが、実際にはバンガール地方や北部インド、或いはマハーラーシュトラ州由来がほとんどである。そしてシヴァ派は、恐らく葉っぱを吸うのに忙しいので規則的なヨーガの修練などすることもなかったとみえ、現代ヨーガに対してほとんど影響を及ぼしていないということが分かるのである。かくてほぼほぼヴァイシュナヴァ由来の現代ヨーガは、インド独立後にヒッピームーブメントと共にさらに世界に広く伝播されることになったのである。
 ここにおいて何故、現代の日本においてヨーガ教師を名乗るのに本場のインド人ではなくてアメリカ人に資格認定して貰わなくてはならないのか?という素朴な疑問が生まれるわけである。これは日本人が忍者を名乗るのに全米忍術協会の資格の取得が絶対的に必要であるという主張ぐらい馬鹿げたことである(戸隠流宗家の初見良昭にでも習いに行けよということ)。ことは1975年にヨーガ・ジャーナルがカリフォルニアで創刊されたことに始まる。創刊者は、J・クリシュナムールティの助言で、クリシュナマーチャーリヤの息子のデーシカーチャールに弟子入りしたアメリカ人のウィリアム・ゴールデン(1941~2018)と、母親がヨーガーナンダの弟子で、自らもB・K・S・アヤンガールの弟子であるラーマー・ジョーティー・ヴァーノン女史(1941~2020)である。





 つまりマイソール・ヨーガの系統の二人によって、ヨーガ・ジャーナルは創刊されたのであった。その後、ラーマー・ジョーティー・ヴァーノンは、ユニティ・イン・ヨーガという団体を作り、その団体とアメリカ人のヨーガ教師のレベルを一定水準に保つ為の基準を作ったAd・Hoc・ヨーガ・アライアンスという団体が合同で1997年に作りあげたのが、全米ヨーガ・アライアンスなのである。その設立地は、「ヨーガと健康の為のクリパル・センター」といい、グジャラート出身でダーダージーと云うグルからパーシュパタ・ヨーガの伝授を受けたとされるスワーミー・クリパラヴァーナンダ(1913~1981)の弟子のインド人アムリト・デーサーイー(1932~)が創立したヨーガの教育施設でのことであった。




 ともかくこうして全米ヨガアライアンスが勝手に作ったハタ・ヨーガの基準の下で現代ヨーガの覇権がアメリカ人に握られたわけである。かくて全米ヨガアライアンスに30万から50万円ぐらいを献金すれば祝福されたる立派なヨガ教師が誕生する、全米ヨーガ教師生産ラインが出来上がったのであった。めでたしめでたし。

 我々は現代ヨーガの大雑把な歴史の大筋を駆け足で検討してきた。現代ヨーガの各地域ごとの創立者は、インペリアル時代(1858~1947)の第二世代に属する人々であった。彼等はイギリスの植民地主義と帝国主義の下で否応なく西洋との対決に迫られ、葛藤し、そしてそれを文化的に吸収しつつ現代ヨーガを確立したのだった。しかしその伝承形式における写真という複製技術及び英語に潜むオリエンタリズムとその背後の西洋中心主義の思想の浸蝕によって、ヨーガのモークシャ(解脱)という本来の目的は脱落し、それはフィットネス志向の世俗的身体文化に限定されることになった。目的が健身や美容にある以上、それはヨーガの本来の目的である超越体験を排除するものとならざるを得なかったわけである。ヨーガのオカルト的側面や、宗教的側面はその商業目的により排除された。そもそも現代ヨーガの創立者が既にそういう超俗的側面に対して余り比重をおいていない人々が多かった。我々はここでニーチェの言葉を思い起こさずにはいられない。「怪物と戦う者は、その際に自分が怪物にならぬよう気をつなくてはならない」。言い換えよう。「西洋人に対抗する者は、その際に自分が西洋人にならぬよう気をつけなくてはならなかった」のだ。しかし彼等は西洋のエピステーメーに誘惑され、搦め捕られ、そして屈服したのであった。傲然たるヨーガの本来の目的は世俗の超越であるが、現代ヨーガは世俗に身を屈めて額ずく。ヨーガは、西欧化し、商品化し、商業化したのである。こうした状況の中で、現代ヨーガは、ポスト・コロニアリズム期(1947~)に世界に大規模に輸出され、世界を席巻し、そして世界を征服した。しかるにポスト・コロニアリズム期においてもコロニアリズム期とインペリアリズム期に醸成された被植民者のルサンチマンは、世界を席巻した後もその苦い記憶と共にインド人グルの脳裏に残存していたようなのである。なぜインド人の男性グルは、執拗に白人の女弟子に手を出すのか?被植民地の男性の精神において、宗主国の女性を性的に、文字通り「征服」することは、宗主国のおめでたい人間には理解し難いルサンチマンの発散が生じるのだということを思い起こすべきである。つまりインド人のグルの執拗な白人女性との性的スキャンダル問題は、かかるコロニアリズムにおけるルサンチマンの再生産の構造に由来するのである。彼らはアメリカを発見したコロンブスの歓喜を追体験し、ピサロやコルテスの如く自らのアメリカ征服に陶酔するのである(つまり所詮ヨーガなどやっても馬鹿者は馬鹿者ということだ)。しかしながら彼らは、白人の女弟子を征服しても、やんぬるかな!白人の思想的エピステーメーを打破するどころか、それに対しては従順な飼い犬のそぶりしか見せない。飼い犬は飼い主の手を噛まぬものである。ここにおいてヨーガは西欧的な基準における安全さを遵守し、その価値観を揺さぶることもせず、宗教的でもなければオカルトでもないと主張するのである。断言しよう。ヨーガとは宗教であり、オカルトである。宗教とオカルトを恐れて、安全な浅瀬でちゃぷちゃぷするばかりがヨーガでは断じてない。ヨーガとは危険な荒波を泳いで渡るということに他ならぬ。かくて我々は、二者択一の問いに逢着するのだ。オカルトと宗教を恐れて世俗主義の価値観に基づく安全な島の牢獄に引きこもるか、オカルトと宗教の統合失調症的危険な荒波を越えて前進するかという問いに。そしてその荒波の先にのみ超宗教、超オカルトとしての真実のヨーガがある。
 
 というわけであるからして我々は次回から現代の資本主義を検討した上で、いよいよ荒波を渡る為の補助としてシャーマニズム技法を見ていくことにしよう。



参考文献
 
 
Elliott Goldberg 『The Path of Modern Yoga:The History of an Embodied Spritual Practice』 Inner Traditions 2016
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