第4章 第8節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


उन्मत्तो मूढो इत्येवं मन्यते इतरे जनाः ॥८॥



unmatto muuDho ityevaM manyate itare janaaH ॥8॥
 

 
【「〔彼は〕狂人[1]・愚者である[2]」とかく[3]他の人々は[4]考える[5]。】
 
 
 
[1]unmattaは狂人。[2]muuDhaは愚者。[3]iti+evamは、~と。evamは、かく、このように。[4]itare janaaHは、他の人々は。[5]manyateは動詞の考える。
 
 
 
 人々は無印の乞食である獣主派の修業者を見て、「こいつは頭がイカレてる奴か、馬鹿者なのだろう」と考え、軽蔑の目を向け食を施す。他人にはそのように思わせておくべきであるということである。しかし軽蔑されても食を施してくれるのだから人々に感謝である。獣主派は負のカルマを贈与する感覚を抱いている節があるので忘恩の徒であるが、恩によって再輪廻する可能性もあるのでそこは悩ましい限りである。

 我々は前回の記事で、現代ヨーガ史を論じる上で必要となる近現代インドの歴史区分をイギリスとの関係から設定した。それと共にインド亜大陸にコロニアリズム(植民地主義)とインペリアリズム(帝国主義)による支配体制を確立したイギリスにおける産業革命成立の様々な条件を確認した。ところで古典的な帝国主義の成立の条件は、産業革命に基づくイギリスの産業資本の発達に求められていたわけだが、近年の研究において、産業革命はイギリスの成長のエンジンであったにせよ、そのエンジンの運転手は、イギリス帝国主義の担い手である1688年の名誉革命以降の地主階級と金融業者との結び付きによって生じたジェントルマン階級に求められるようになってきた。簡単に言えば、エンゲルスの父親のようなイギリスの工場経営に勤しむ産業資本家には、政治に参画し、世界全土に巨大な帝国を形成する暇も知識も政治的野心もなかったということである。言われてみれば当然過ぎることではある。日本の高度経済成長を支えたのが中小企業や町工場の親父達であっても、彼らが日本の国家運営、財政、金融政策に大きく影響を及ぼしたわけではないのとそこは同断である。ここから帝国主義の歴史において産業革命の影響のみに限定して論じるのが一面的であるというのが分かる。従って我々は今までの古典的な見地に基づく視野から一段階高い所に飛翔し、ジェントルマン資本主義を理解することで、ようやくイギリスにおける資本主義の成立を全体的に理解できるようになるのである。故に現代ヨーガ史を論じる前に、前回の記事の補足として始めにジェントルマン資本主義について見ていくことにする。



 とは言っても、ジェントルマン資本主義の成立から終焉までの全体史を網羅しようとすれば、複数の記事を消費する必要がある。従って我々はとりあえずジェントルマン資本主義を、1688年の名誉革命から1858年のインド帝国成立までの時代に限定して簡単に見ていくことにする。



 ジェントルマン資本主義論は、90年代にイギリスのP・J・ケインとA・G・ホプキンズの共著『ジェントルマン資本主義の帝国』によって一躍知られるようになった。1688年の名誉革命以降、イギリスの地主階級が力を蓄え、大陸のユグノー資本やオランダ資本、ユダヤ資本と結びついて形成されたのがいわゆるジェントルマン資本であった。そのジェントルマン資本主義成立史の初期において重要なのは後の中央銀行となるイングランド銀行の設立とそれによるフランスとの戦争の戦費を賄う為の国債の発行であった。かくて名誉革命を起点に以下のような金融革命が波及する。

1697年における貨幣の改鋳とそれ以降の事実上の金本位制の成立、シティ内での専門分化したマーチャント・バンクの成長、抵当証券市場の拡大、国内および国際債権決済のための為替手形使用の増加、株式取引所の興隆、海上、火災保険の発展、そして金融諸新聞の発行である。(Ⅰ P46)

 こうして近代的な金融システムがイギリスに成立する。またジェントルマンは、新しいサービス業を次々に発明開拓していく。それらは主に銀行、保険、専門職、通信、流通、運輸、公的サービス、多様な個人的サービス等の諸活動などであった。また為替市場、保険料率表、輸送改良、会社法、金融新聞、海底電信ケーブルというような技術革新から生産性の上昇が生み出されたのであった。産業革命が起こる以前に、イギリスでは金融革命やサービス業の革命が生じていたのである。またコロニアリズムとインペリアリズムの本当の黒幕であるエリート集団のジェントルマン達は、マルクスやエンゲルスなどの共産主義者が産業資本家を憎むのと同程度に、搾取の被告人である産業資本家を軽蔑していた。彼等は地代や東インド会社などの海外投資から生み出される利子などの不労所得でその豊かな生活を賄っていたのである。つまり彼等は、我々が一般に抱くパブリックスクール出身のイギリス紳士のイメージそのままの人々であり、彼等の財政基盤は不労所得であった。海外植民地においてもこうしたジェントルマン階級の二男、三男などがイギリスのコロニアリズム政策を現地で推進していったわけである。
 ところでP・J・ケインとA・G・ホプキンズの論じるジェントルマン資本主義論に対して、筆者は若干の不満があると言わざるを得ない。筆者は産業革命以前のジェントルマン資本主義の成立が現代資本主義と帝国主義の成立の主要なファクターとして機能していたことを疑うつもりはない。しかし、それに対し広瀬隆の『赤い楯』を後生大事に寝る前に枕の上に置いていた小学校六年生の筆者がこう叫ぶのである。「『ジェントルマン資本主義の帝国』のどこにロスチャイルドの系譜図やフランス200家族の家系図があるのであろうか。1804年にマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの三男ネイサン・ロスチャイルドがイギリス・ロスチャイルド商会を設立したのではなかったか。そしてフランス革命からナポレオン戦争のどさくさの中でジェントルマン資本主義は、天才的な金融一族であるロスチャイルド一族によって、質的転換を得たのは疑い得ない」と。





 『ジェントルマン資本主義の帝国』を理解する上で、その裏面史としてのロスチャイルド一族を中心としたユダヤ系国際資本の膨大な系譜学の書である『赤い楯』は必読である。ジェントルマン資本主義は、始めフランスのユグノー資本や、オランダ資本などが主要な投資者であった。しかし彼らが1804年以降、天才的なユダヤ系国際金融資本と結び付きを深めたのは疑い得ない。従って1804年以前のジェントルマン資本主義と1804年以降のジェントルマン資本主義には質的な違いがあると見ていい。しかしジェントルマン資本主義論はその辺りにいささか鈍感である。
 
ロンドンがそれに代わって1790年代以降、世界の主たる金融センターとなったのであった。それはまた、対仏戦時に流入した移民金融業者達がシティの国際的な専門能力を大いに高めたことによるものであり、対仏同盟諸国の主計長官としてのイギリスの役割によるものであった。(Ⅰ P60 )
 
 『ジェントルマン資本主義の帝国』に、ロスチャイルド一族の言及はそれなりにあるのだが、広瀬隆が描いた偏執狂的系譜学、ロスチャイルドの家系図の蟻の巣のように地下に広がるジェントルマン資本家の縁戚的繋がりの理解抜きに1804年以降のイギリスの歴史を描こうとするとどうしてもその帝国主義の論理の把握が不可解になるのである。そして上記の文章にしてもその主人公は、小学校六年生の筆者でも知ってることだが、ロンドンの金融の中心シティに君臨するネイサン・ロスチャイルドなのであった。



 ネイサン・ロスチャイルドは、ロンドンに渡ると父親の金融パートナー、ドイツのヴィルヘルム9世からイギリスで貯蓄する為に委託されていた財産を元手に貴金属に投資し、自分の莫大な財産を生み出す。インド総督の兄リチャード・ウェルズリーと共同し保護同盟施策でインド植民地化を推し進め、帰国後、ナポレオンとの運命的なワーテルローの戦いを控えるウェリントン公爵ことアーサー・ウェルズリーの為に、大陸の兄弟と協力しつつ軍資金調達をした。そして伝説ではナポレオン勝利の誤報で大暴落したイギリス国債を、既にウェリントン勝利の情報を得ていたネイサンが、ひそかに買い占めてまたもや大儲けしたと言われる。またロンドンのシティにおける金塊の独占を自身の政略結婚で実現する。かくてネイサンはイングランド銀行の為に大量の金を調達する役割を手にし、以後ロスチャイルド家がイングランド銀行に大きな影響を有するようになる。
 帝国主義を把握する上で、旧来のジェントルマン資本家と国際金融資本家との合同による利権追求の構図と構造は、広瀬隆の『赤い楯』に詳しい。現実において陰謀は実在する。それでなければ、マキャヴェリズムや、マウリヤ帝国宰相のチャーナキヤことカウティリヤが『実利論』で語るところのカウティリヤイズム、そして中国の孫子の兵法もまた空想、空論、空談でしかないということになろう。


 煎じ詰めれば、資本主義の歴史とは利権追求の陰謀の歴史でしかない。産業資本によるプロレタリアートの搾取の構造の上方には、ジェントルマン達の熾烈で卑劣な国際的陰謀史がある。その別名が、畢竟インペリアリズムである。一国の国家の論理より多国籍企業の論理がそのロビー活動によって優先し国家が動くというのが1804年以降の国際的な金融資本主義の論理なのである(余談ながらこれは現代においてもサーズ・コヴィ2ワクチン騒動において顕著である。ちなみにワクチンのトレンドがあと数年の命運であるのはもはや馬鹿でない限り明白であろう。まずイスラエルがブースターの三回目の投与を決定したことが重要である。これはサーズ・コヴィ2に対してワクチンの予防効果はもって半年であり、たかだか重症化を妨げるに過ぎず、その重症化を妨げる効果も2週間に一回変異するサーズ・コヴィ2において、半年、一年後の変異体に対してあらかた効果が逓減することが予想されるということに他ならぬ。畢竟、短期的に見れば、予防効果は余りなく重症化を妨げる効果しかないということ、これが重要である。こうした中で3回目4回目5回目の接種で副反応が強まる公算は大きい。そして目下、塩野義製薬やファイザーが飲み薬を開発中である。飲み薬はインフルエンザの時のタミフルのように感染した後に飲めばいいのだからより合理的かつ経済的である。それに比してワクチンは、予防効果は短期的でしかなく、中期的には重症化を妨げる効果さえ逓減し、長期的には副反応が強まる可能性があるのだから、どう理性的に考えても合理的とは言えず、必ず感染するわけでもないサーズ・コヴィ2に予防効果の少ない短期的に重症化を妨げるワクチンを危険を侵して毎年一回以上打つというのは馬鹿げている。今ワクチンに熱くなっている連中は、目の前の短期的なメリットにしか目がいかない流行に目が眩む愚民の類いか、製薬会社から金を受け取っている連中であろう。というわけで筆者は最近、新ミニ(BMWミニ)の中古を買ってしまってあまり投資できないのであるが、塩野義製薬一点張りで数十万程度少額ながら投資予定である(これは世界がヤバい時こそ儲かるんだぞ!という『赤い盾』ネイサン・ロスチャイルドの教訓でもある)。今となっては車なんか買わないでその分も投資に回せば良かったと大後悔時代である。今後数年においてワクチンから飲み薬にトレンドが移行することは必定であるから。疑うらくはライバル会社のファイザーの妨害活動で塩野義が邪魔されないかねないということである。ワクチン市場は世界的に見れば日本の国家予算規模の売り上げが出る。そんな中でイベルメクチンのような儲けのない薬が叩き潰されるのは当然と言えば当然であり、邪魔者は資本の論理によって潰されるのである。世の中は1804年以降かかる論理で動いている。とはいえファイザーとモデルナのワクチン帝国ももってあと数年でしかない)。
 ちなみに『オリエンタリズム』の著者サイードを含むパレスチナ人を苦しめるイスラエルの建国における財政面を担ったのは、ロスチャイルド一族とその縁戚関係者であった。『赤い楯』から引用すれば、
 
 イスラエルの初代首相に就任するポーランド移民のペングリオン。彼は次のように記した。
 ――故郷にユダヤ人入植民を建設したエドモン・ロスチャイルド男爵以上の人物は、ユダヤ人二千年の“流浪の民の歴史”の中に見出だすことができないであろう――(上巻 P493)
 
 エドモン・ロスチャイルドは、イギリスのネイサン・ロスチャイルドの弟でロスチャイルド5兄弟の末弟フランスのジェームズ・ロスチャイルドの孫である。


 ヨーロッパの植民地活動において旧来のジェントルマン階級と連合した金融資本のロスチャイルド財閥の利権を追っていけば、そのモル状の歴史学的な国家的利害とは別の国際金融資本の利害による吸血体制が、ヨーロッパ帝国主義の本質であるということが『赤い楯』を読むことによって明らかになる。フランスを支配した200家族やロンドンのジェントルマン階級に代表される支配階級を一つの系図に収めることが可能であるということこそ『赤い楯』で広瀬隆が論証したものであった。
 導入部としては散漫となってしまったが、ジェントルマン資本主義テーゼとは、イギリスにおける資本主義の発展と帝国主義の原因を、従来の産業革命における産業資本の発展による工業化に求める理論を否定し、またウィリアムズ・テーゼに代表されるようなイギリス以外の周縁諸国の根本的な影響による成立をも否定して、その根幹にイギリス本国のジェントルマン階級の成立とその金融及びサービス革命にこそその原因が求められなくてはならないというものであった。そこで筆者が補足したいのは、ジェントルマン資本主義のテーゼは真であるが、1804年以前の亡命金融資本との合同したジェントルマン資本と1804年以降のユダヤ系のロスチャイルド家に代表される国際資本と合同したジェントルマン資本には質的変容があったということであり、一国的なイギリスの利害は、やがて多国籍兼無国籍の国際金融の論理に飲み込まれていったということである。しかしこの辺りの詳細については、膨大な研究と紙数を要するので、とりあえず現代ヨーガの研究に必要と判断する範囲内の言及に留める。かくて我々は現代ヨーガの歴史を論じることにしよう。





 インド亜大陸の富を求めてやってきたヨーロッパ人の見たヨーギンとは、理性に反する奇っ怪な苦行を行う集団であり、1698年に東インドを旅したジョン・フライヤーによれば、「単なる国家の禍である放浪者」、東インド会社の人々にとっては、武装し北インドの貿易ルートを支配する、経済的、軍事的な脅威となる集団であった(シングルトン 2010)。当時のインドには、カウラ派の流れを汲むゴーラクナートに端を発するシヴァ派のカーンファタ(耳環)・ヨーギンであるナート派や、シャンカラ以来のダシャナーミー・サンプラダーヤに属するスートラダーリン(文派)のサンニャーシン、同じダシャナーミー・サンプラダーヤのアストラダーリン(武派)であるダシャナーミー・ナーガー・サンニャーシン、スーフィー教団に属するイスラームのファキールやシク教の人々、ヴィシュヌ派のラーマーナンディー派に属するバイラーギーやシヴァ派の人々などが闊歩していた。こうした苦行者が俗世間を放浪し苦行に専念しつつ、彼等の一部は巡礼者と聖地の保護の為、武装化していたのだった。ダシャナーミー・サンニャーシンの武装化については、12世紀以降、イスラームの支配と共に異教徒のサードゥを殺すことを義務と考えるような過激なファキールなどからブラフマン階級のサンニャーシンを守る為に組織化されたという話がある。こうした武装する僧兵的ヨーギンの集団における軍事訓練的要素が現代ヨーガの一つの源になったのであった(日本の僧兵の歴史、鞍馬寺での源義経の修業伝説、忍術の歴史などを念頭におくべし)。
 マーク・シングルトンの『ヨガ・ボディ』の東インド会社を脅かす北インドの武装化したヨーギン集団に関する言及部分(P50~53)において、現代の研究水準から言えば若干の誤認とオリエンタリズム的視点による無批判的な記述があるのでここで指摘しておく。彼はローレンゼンの論文(1978)などを基に、ハタ・ヨーガを実践するナート派の人々が軍隊を組織した最初の宗教グループの一つであると述べているが、これはマランソンのブリル社のヒンドゥー百科辞典のナート・サンプラダーヤの記事(2011)においても否定されていることである。ナート派は集団として組織的に武装していたことはない。イギリス人の目からすれば当時も現在も武装するダシャナーミー・ナーガー・サンニャーシンや同じく武装するヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ派)のラーマーナンディー派のバイラーギーを、ハタ・ヨーギンのナート派の修業者と区別するのは困難なのである。 


ネーパール国境沿いの車で一時間の山奥の山頂に建立されたゴーラクナート寺院のナート派のヨーギン(筆者撮影)

 ここら辺は、読者にあっても大変分かり難いと思うので解説すれば、まずダシャナーミー・サンプラダーヤとは、8世紀にシャンカラが再編したアドヴァイタ・ヴェーダーンタを信奉する僧侶(スワーミー)の法統に属する人々のことである。そして彼らは全員、十の名前(ダシャナーミー)のどれかを有する。名目上、南のシュリーンゲーリーのシャーラダ・ピータム・マト(僧院)に属するとされる①「プリー」②「バーラティー」③「サラスヴァティー」、東のプリーのゴーヴァルダン・ピータム・マトに属するとされる④「バナ」⑤「アーラニヤ」、北のジョーシーマトのジョーティル・ピータム・マトに属する⑥「ギリ」⑦「パルヴァト」⑧「サーガル」、西のドゥワールカーのシャーラダー・ピータム・マトに属する⑨「テイールタ」⑩「アーシュラマ」がそれである。有名なリシケーシュのシヴァーナンダは「サラスヴァティー」であり、ユクテーシュワルやヨーガーナンダ、ソームバーリー・バーバーは「ギリ」である。ラーマクリシュナの師であるトーターは、「プリー」であり、これによってヴィヴェーカーナンダもその法統なので「プリー」である。
 またダシャナーミー・サンプラダーヤに属するスワーミーは、アカーラーと呼ばれる道場で特殊な軍事教練などを受ける。これにより彼等はアカーラーにも所属することになる。ヴァーラーナスィーに本拠地を有するダッタートレーヤ神を主神にする有名なジューナー・アカーラー、その他ヴィラーナスィーにはアタル・アカーラー、アーヴァーハン・アカーラーがあり、プラヤーグラージにはニランジャニー・アカーラー、ナーシクのタポーニディ・アーナンダ・アカーラーなどその数は多い。そしてマーク・シングルトンの述べる北インドの貿易路を制した武装するヨーギン集団として、東インド会社の人々と対立し略奪者としてのヨーギンのイメージを植え付けた人々こそ、プラヤーグラージ(イラーハーバード)に本拠地を有するラージェンドラ・ギリ・ゴーサーインやその後継者のウムラーウ・ギリ・ゴーサーインとアヌープ・ギリ・ゴーサーイン兄弟に率いられた武装するナーガー・サンニャーシンのマハーニルヴァーニー・アカーラーに所属する人々なのであった。



 例えばアヌープ・ギリ・ゴーサーインに率いられたナーガー・サンニャーシンの軍隊は、1764年にアワドのナワーブ、シュジャーウッダウラと元バンガール大守ミール・カースィム、そしてムガル皇帝シャー・アーラムⅡ世の同盟軍に加勢し、東インド会社とバクサルの戦いで戦っている。この戦いに東インド会社が勝利することで、バンガール、オーディシャー、ビハールの三州の徴税権を得たのであった。彼等武装するナーガー・サンニャーシンは言わばエルサレム巡礼を保護するテンプル騎士団のインド版であり、テンプル騎士団同様、彼等も銀行業なども営んでいた。イギリス人から見ると彼らは暴力的な略奪者であったが、聖地巡礼するヒンドゥー教徒からすれば彼等は保護者であった。そういう意味では、

イギリスへの経済的脅威であり続けたので、東インド会社の人々にとって、ヨギとは、ヒマラヤに住んでいる隠遁者のイメージではなく、放浪する略奪者といったものであった。イギリス人からは、(特に厳密な意味でのハタ・ヨガ実践者だけではない)暴力的な苦行者たち全般が恐れられていたのだが、やはり宗教的な武闘派ヨギンといえば、ハタ・ヨガ実践を行うナータ派の人々を指すことが多かった。(P51)

 ヒンドゥー教の守護者としてのヨーギンの言い分が記載されていないイギリス人のシングルトンの文章は一面的であり、自民族中心主義的かつ、オリエンタリズムとコロニアリズムが見事に融合した眼差しによって無反省的にこの一文が書かれているのが分かる(ツッコミを入れれば本物の略奪者は紳士気取りのお前らイギリス人だろが!ということ)。こうした帝国主義に邁進するイギリス紳士により、イギリスの植民地主義的インド経営における危険分子であるナーガー・サンニャーシンの非武装化の努力がなされ、彼等の脅威は徐々に減退していった。ここでシングルトンは、先程も述べたようにダシャナーミー・サンプラダーヤのナーガー・サンニャーシンの武装集団とハタ・ヨーガの行者とを同一視する誤りをおかしているわけだが、当時の実際のハタ・ヨーガの実践者は、ラーマナンディー派の人々(マランソンのハタ・ヨーガの伝系もこのラーマーナンディーのバイラーギー系統であった)やナート派の人々がその担い手であった(ダシャナーミー・サンプラダーヤの系統でも『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』等のヨーガ・ウパニシャッド文献が量産されていたことを鑑みれば、ハタ・ヨーギンと見做すことができるにせよ)。こうしたヨーガを実践する人々とシャンカラの不二一元論派に属するダシャナーミー・サンプラダーヤのサンニャーシンとは、根本的には別の背景に属する人々なのである。他方、実際の現代ヨーガの震源となったラーマーナンディー派は、地主や司祭階級に属しているので比較的、裕福な階層であったが、ナート派は、カースト制度に反対するグループであり、恐らくサバルタン集団がその母体であったと想定され、カビール派等と近しい関係にあったと思われる。
 今後詳しく論じる予定のシヴァ派において、その担い手をカーストに基づいて大雑把に分類すると、パーシュパタ(獣主派、因みに今さらながら直訳すれば実は畜主派)はブラフマン階級、シャイヴァ・シッダーンタは四姓、非シッダーンタ(タントリカ)はそれ以外のサバルタン集団がその担い手であった。それはシヴァ派のディークシャー(伝授)におけるカースト・ピラミッドへの下向きの推進の歴史とも言えるであろう。ナート派や、タントラ派、カビール派の母体はサバルタン集団であった。こうしたサバルタン集団を母体とした出家集団にこそハタ・ヨーガが広く伝播していたのである。従ってブラフマン階級から言えば、彼らは当然ダシャナーミー・サンプラダーヤのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的なサンニャーシンになるのが一般であったから、ハタ・ヨーガは当然、その有効性を度外視すれば、パタンジャリのヨーガよりもさらに下等なものと見做されたのは想像に難くない。煎じ詰めれば、ハタ・ヨーガとは、サバルタンのヨーガなのである(感覚的には、日本の一般的な侍が剣術の修業はしても、土豪的な技術である忍術の修業はしないということ)。かくてラーマクリシュナの弟子であるヴィヴェーカーナンダにおいては、その時代のハタ・ヨーギンのイメージは、だいぶ価値下落的で、パタンジャリの時代のラージャ・ヨーギンのイメージからもさらに遠く胡散臭い存在であった(日本で言えば、ヨーギンとは山伏のような存在である。山伏は村の僧侶などに比べればだいぶ怪しい存在であった)。こうした時代背景と共に、我々は1861年のクリヤー・ヨーガの伝授の年から話を始める。
 前回の記事におけるインド近現代の時代区分においてクリヤー・ヨーガがラーヒリー・マハーシャイに伝授された1861年とは、インド大反乱から4年後、インドが大英帝国の植民地となって三年後のことである。ラーヒリー・マハーシャイは、1851年以来イギリス軍の軍事工学部門に勤務していた。乱暴な言い方をすればラーヒリー・マハーシャイは、結果的にはシパーヒー(セポイ)と共にインド大反乱に立ち上がることもなかった売国奴であったわけである(ラーヒリー・マハーシャイを売国奴呼びするのは酷であるが、事実は事実であって捩曲げるわけにはいかないのでしょうがない)。




 インド大反乱の記憶の生々しい時代、イギリスの植民地として三年目にラーヒリー・マハーシャイは、マハーアヴァタール・バーバーよりクリヤー・ヨーガの伝授をクマーウーン地方のドローナギリで受けたのであった。そして我々が以前、見たようにその技術は純粋なハタ・ヨーガの技法であり、それはヴァイシュナヴァ的な土壌から生育したものと推論しうるものであった。そこには当然如何なるイギリスのコロニアリズムの影響は見られない。クリヤー・ヨーガの伝播の時代は、現代ヨーガの時代に属するが、その技法は根本において西洋のエピステーメーと技術の影響を受けていないという点で、それはインドの中世的ヨーガと近現代ヨーガを分ける分水嶺にあると言えよう。こうしてクマーウーンの高原地帯に伝わるヨーガは、ラーヒリー・マハーシャイと共にインド北部の古都ヴァーラーナスィーに伝播し、それがさらに現代のコールカーターこと当時のイギリス領インド帝国の首都カルカッタに伝わり、現代ヨーガの源流の一つであり、ホット・ヨガの産みの親、カルカッタ・ヨーガを生み出す原動力の一つとなったのは次回以降の記事で見ていく予定である。
 現代ヨーガを論じるにあたって、カルカッタ・ヨーガの名称に想を得た筆者は、幾つかの地域的分類を設けることにする。
 
①ボンベイ(ムンバイー)・ヨーガ
②カルカッタ(コールカーター)・ヨーガ
③バンガロール(ベンガルルー)・ヨーガ
④マイソール(マイスール)・ヨーガ
⑤リシケーシュ・ヨーガ
⑥アウンダー・ヨーガ(スーリヤ・ナマスカール)
⑦アムリトサル・ヨーガ(シク教ヨーガ)
 
 この中でマハーラーシュトラ州のアウンダー藩国の藩王によって世界に拡がった有名なスーリヤ・ナマスカールの技法を伝えるアウンダー・ヨーガと、日本においてシク教徒のヨーギー・バジャンによって伝えられた火の呼吸で有名なアムリトサル・ヨーガのシク教系ヨーガは、若干毛色が異なる。⑥と⑦が流派として重要性で劣るということはないが、歴史的な観点から言えば、①~⑤までが現代ヨーガのメインストリームを形成したと言ってもよいだろう。


スーリヤ・ナマスカール発祥のマハーラーシュトラ州のアウンダーのナーグナート寺院(筆者撮影)

 以上のように現代ヨーガ史において地域的な発展史としてそれぞれの流派の歴史を見ていくことが必要になる。しかし、現代ヨーガの流派の成立は殆どが1920年以降のことである。我々が始めに述べた1861年のクリヤー・ヨーガからムンバイー・ヨーガの創始者の一人であるシュリー・ヨーゲーンドラが、ヴァイシュナヴァのヨーガ行者、マーダヴァダースに弟子入りした1916年まで約55年の懸隔がある。1861年は日本で言えば幕末であり、アメリカでは南北戦争の時代である。また1916年と言えば大正時代である。この間の時代を想像しようとするなら、ラーマクリシュナ(1836~1886)の弟子のヴィヴェーカーナンダ(1863~1902)やラーヒリー・マハーシャイの弟子のスリー・ユクテーシュワル(1855~1936)の人生を想起すればよく分かる。ちなみに我がブログの二大スターの一人であるソームバーリー・バーバーは、おおよそ1860年代から1920年の人であり、ソームバーリー・バーバーとヴィヴェーカーナンダは同世代である。彼等は会ってはいないと考えられるがカーカリー・ガートでニアミスしている(ヴィヴェーカーナンダはカーカリー・ガートの菩提樹の下で大宇宙と小宇宙が一つであることを悟ったと自ら記している)。

ヴィヴェーカーナンダが瞑想し梵我一如を悟ったソームバーリー・バーバーのカーカリー・ガート・アーシュラム横のシヴァ寺院の菩提樹(筆者撮影)

 そしてそれより一個上の世代である、南インドのラーマリンガ・スワーミー(1823~1874)、ラーヒリー・マハーシャイ(1828~1895)、ラーマクリシュナ(1836~1886)、シルディー・サーイーン・バーバー(1838~1918)、ハイラーカーン・バーバー(1840~1922)などの聖者が同世代である。ラーマリンガ・スワーミーからハイラーカーン・バーバーまでのインドの時代区分で言うコロニアリズムの時代(1758~1858)生まれの聖者には、殆どオリエタリズムや西洋中心主義のモダニズム的な価値観の影響が見られない。彼らの文化基盤は中世の延長線にある。しかしそれより一つ下の世代のヴィヴェーカーナンダやユクテーシュワルなどのインペリアリズム時代初期(1858~1947)の聖者には、西洋的な懐疑主義や物質主義のエピステーメーの影響が大きいのが分かる。ユクテーシュワルは、シュリーラームプルのクリスチャン・ミッショナリー・カレッジやカルカッタ・メディカル・カレッジに通い、ヴィヴェーカーナンダはカルカッタ大学で学んでいる。ちなみに同世代のソームバーリー・バーバーは、現在のパーキスターンのピンド・ダーダン・カーンの裕福な弁護士の家に生まれ、12歳で出奔しているので西洋的な高等教育は受けていない。コロニアリズム時代の聖者は、従来のインド式教育の下で育ったの比して、インペリアリズム時代の聖者の多くは、西洋式の高等教育を受けたということが分かる。それは言うまでもなく、オリエンタリズム的な東洋観とそれを植民地化した西洋中心主義の価値観によって形成された学問であった。従って彼らはその教育の端緒より懐疑主義と物質主義の洗礼を受けた世代であり、当然、彼らにとって汚らしい放浪のヨーギンとは、哀れで惨めな過去の遺物でしかなかったわけである。かくて旧世代を代表するラーマクリシュナと新世代代表のヴィヴェーカーナンダの物語は、コロニアリズム時代とインペリアリズム時代の世代間ギャップの物語として読むことができるわけであり、それは古き悪しきオリエント(東洋)の身体‐頭脳を担う世代と新しき良きオクシデント(西洋)の価値観を移植され、西洋の代理人の役割を嘱望され、植民地化された身体‐頭脳を有する世代との葛藤の物語でもあったわけだ。このラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの凸凹子弟の物語は人口に膾炙しているが、ラーヒリー・マハーシャイとシュリー・ユクテーシュワルの師弟間にはあまりそういう葛藤の話がないのは、ラーヒリー・マハーシャイがイギリス軍の軍事工学部門に勤務し、その弟子ともども穏健な形で西洋主義(オクシデンタリズム)の洗礼を受けていたことに起因するとも考えられる。
 残念ながらラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの有名な葛藤と融和の物語をここで詳しく見ていく余裕はない。しかし一つ言えるのは、インペリアリズム時代の初期世代であるヴィヴェーカーナンダ・プリーにせよ、シュリー・ユクテーシュワル・ギリにせよ、その基本姿勢は新しい現代的なヨーガを創造するというものではなく、コロニアリズム世代の伝えた中世的な古いヨーガの、西洋文化を移植され、植民地化された身体‐頭脳によるところの受動的な受容であったということである。またこの二人に共通なのは英語で著作があり、その著作によって(ヴィヴェーカーナンダに至っては直接アメリカやヨーロッパに渡った)インドの古い文化を意識的に西洋へと輸出する嚆矢となったことである。一方で1920年に活躍するインペリアリズム時代の中期世代により、古い世代から伝わる中世的ヨーガと西洋の身体文化や科学主義を混合して新しいヨーガが生み出されたのであった。それが即ち現代ヨーガである。従ってインペリアリズム時代の初期世代のヴィヴェーカーナンダやシュリー・ユクテーシュワルと現代ヨーガの創始者達でありインペリアリズム時代の中期世代①ボンベイ・ヨーガのシュリー・ヨーゲーンドラ(1897~1989)、スワーミー・クヴァラヤーナンダ(1883~1966)、②カルカッタ・ヨーガのヨーガーナンダことムクンダ・ラール・ゴーシュ(1893~1952)、その弟ビシュヌ・チャラン・ゴーシュ(1903~1970)、ブッダ・ボース(1913~1983)、③バンガロール・ヨーガのK・V・アッヤル(1898~1980) 、S・スンダラム(1901~1994)、④マイソール・ヨーガのT・クリシュナマーチャーリヤ(1888~1989)、⑤リシケーシュ・ヨーガのシヴァーナンダ・サラスヴァティー(1887~1963)には、明瞭なヨーガへの取り組みに対する断層があるとも言えるだろう。
 ラーマクリシュナは、ラーマーナンディー派のバイラーギー・サンニャーシンに教えを受けたり、不二一元論的ダシャナーミー・サンプラダーヤのナーガー・サンニャーシンの典型である「プリー」分団に属するトーター・プリーによってディークシャーを受けている。



 その弟子のヴィヴェーカーナンダ・プリーは『ラージャヨーガ』(1896)においてサバルタン的ヨーガであるハタ・ヨーガについて以下のように述べる。
 
ヨーガのこの分派(ハタ・ヨーガ)の結果は、人を長く生きさせることです。健康がハタ・ヨーギーの理想、唯一の目標です。……バンヤンの木はときどき5000年生きますが、それはあくまでもバンヤンの木であって、それ以上のものではありません。ですから、もし人が長生きしても、彼は健康なケモノにすぎないのです。(P32~33)
 


 ハタ・ヨーガの文献を読めば、ハタ・ヨーギンが決して長生きのみを求めていたわけではないのは明らかであるが、結局彼らは、他人から見れば長生きのみを求めていると見られても仕方なかった。しかしこうした皮相的なハタ・ヨーガ観を書き付けるヴィヴェーカーナンダもラーマクリシュナの死後、腰痛に悩み1890年に弟子入りはしなかったもののヴァイシュナヴァの聖者であるガージープルのパヴハーリー・バーバー(1798~1898)にハタ・ヨーガを学ぶ寸前までいったのであった。もし仮にパヴハーリー・バーバーにハタ・ヨーガをヴィヴェーカーナンダが学んでいたなら、彼は現代ヨーガの開祖と呼ばれる存在になったかもしれない。しかしラーマクリシュナが枕元に立ち、ヴィヴェーカーナンダの弟子入りを制止し、かくてヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナ僧院の長にして、オーソドックスなアドヴァイタ・ヴェーダーンタとラージャ・ヨーガの師に留まる。かくて現代ヨーガの創始者の栄誉は、ヴィヴェーカーナンダより後の世代に冠せられることになる。
 というわけで我々は次回より現代ヨーガの源流である七つの地域ヨーガを順番に見ていく。現代ヨーガの修業者である現代日本の方々は、元を辿っていけばたいていこの地域ヨーガのどれかに自らの技法の源を辿ることができるはずである。現代ヨーガが誕生しようとする19世紀末から20世紀初頭において、ハタ・ヨーガはマイノリティーの怪しげなサバルタン的技法であった。当時のサンニャーシン界でマジョリティーを形成するアドヴァイタ(不二一元論)・ヴェーダーンタを信奉する人々は、僧院においてはスワーミーであり、放浪時においては、ナーガー・サンニャーシンとしての姿を呈していたが、彼らは知識としてはパタンジャリのヨーガを知っていても、基本的にはサーンキヤの二元論に基づくヨーガ学派とは別派の不二一元論派に属していた。シヴァ派の修業者もまた、支流のナート派のハタ・ヨーガとは別のプレ・ハタ・ヨーガの伝統の線上にあった(これがすなわちこのブログの第四章、第五章で詳しく論じようとする主要な課題である)。そしてナート派に影響を受け真面目にハタ・ヨーガの技法を保持していたラーマーナンディー派は地主階級と司祭階級からなる富裕な階層に属していた(結論先出しで言うと現代ヨーガの殆どの流派は、シヴァ派のナート派ではなくて、ヴァイシュナヴァのラーマーナンディー派に源を有する)。かくてサバルタン集団に源を発するハタ・ヨーガは、当時のインド人一般から言うと怪しいものでしかなかった。当時のインド人一般の反ハタ・ヨーガ感情とは、カースト差別に起因するものであったのだ。そうしたマイノリティーのサバルタン・ヨーガがやがて世界を席巻するようになると言うのが、言ってみれば現代ヨーガの歴史なわけである。



参考文献
 
P・J・ケイン、A・G・ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国Ⅰ&Ⅱ』 木畑洋一、旦祐介訳 名古屋大学出版会
A・アンドレアデス 『イングランド銀行史』 町田義一郎、吉田啓一訳 日本評論社
広瀬隆 『赤い楯』 集英社 
マーク・シングルトン 『ヨガ・ボディ』 喜多千草訳 大隅書店 
James Mallinson 『Nath Sampradaaya』 2011
Jadunath Sarkar  『A History of Dasnami Naga Sanyasis』 Sri Panchayati Akhara Mahanirvani
David N. Lorenzen 『Warrior Ascetics Indian History』 1978
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 『ラージャ・ヨーガ』 日本ヴェーダーンタ協会
スワーミー・ニキラーナンダ 『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』 日本ヴェーダーンタ協会