第3章 第15節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


शृड्गारेत वा ॥१५॥


zRGgaareta vaa ॥15॥
 
 
【或いは媚態を示すべきである[1]。】
 
 
[1]名詞zRGgaaraは「求愛」を意味し、名詞起源の動詞である。あたかも求愛者の如く振る舞うべきであるということである。
 
 狸寝入りをし、震え、足を引きずる獣主派の修行者は、つづいてギリシアのアドーニスよろしくめかしこんで異性に求愛すべきであるということである。我々は第1章で、獣主派の修業者は女性と話してはならないという規定を見ている。しかし放浪期に入った獣主派の修業者は、獣主派の印を捨てて軽蔑探求の行に進む必要があり、今度は一転して女性に媚態を振り撒くべきとされる。女性と断じて話すな、目も合わせるなとか、いやむしろ積極的に女性に媚びを振りまくって求愛せよだとか、なかなか獣主派も苦労が絶えない。クマーウーン三大聖者の一人であるソーンバーリー・マハーラージは、女性と話し、女性を見ることさえも自身に禁じて現代においても獣主派的な禁欲生活を送っていたことが知られている。しかしそうした禁欲的な聖者がいる一方、女好きということが周囲にバレてしまうと、厳めしい聖者様の信用はガタ落ちともなるであろう。ここでは敢えて信用をがた落ちさせよというのである。今回の内容で注意すべきは女性に実際に手を出せと指示しているわけではないということである。聖者と言われる人々が不倫をしたり隠し子を作ったりと女性問題を取り沙汰されることは多い。口では神や人類への無条件の愛を説き、外見は謹厳実直、人の良さと人徳を表現しながら裏では自分に寄ってきた女性に手当たり次第に手を出すというのでは甚だダメである。逆に言えば見るからにチャラそうに女の子に言い寄り、回りからは軽蔑されても我関せずとばかりに尊敬と軽蔑を平等に見、実際は禁欲的生活を送るというのもまた修業と言い得る。女性に媚びを売るというのは、命令されなくとも筆者も非常に得意とするところであるが、筆者の場合は修業でやってるわけでなく、好きだからやっているのである。筆者はよく会社の同僚の二十歳ぐらいの女の子達と仕事中、暇だとキャッキャ騒いでいるが、こいつらどんな話で盛り上がってるんだろうと不思議に思って聞き耳をたてた他の同僚達から、よくあれほどまでに内容のないしょうもない話で毎日毎日何時間も楽しそうに話が続くものだと感心され誉められるものである。このブログのような内容は、さすがに普段一切話そうとも思わないし、話せないのだが、高田純次ばりに女の子をただ笑わせるだけの、内容のない面白い話であれば永遠に続ける自信がある(過ぎたるは及ばざるが如しで実際は面白い話をし過ぎるのはよくないと思う)。しかし実際に獣主派の如く手出しする機会もなく指をくわえてばかりいるのは、一体何の苦行であり過去世の呪いなのであろうか?それは神のみぞ知るである。



 今回も前回に引き続き『黄庭外景経』の現代語訳を載せていく。詳しい説明や補足、まとめは全て次回するので今回は現代語訳のみで記事は終わりである。






子不死を欲すれば崑崙(頭部)を脩めよ。絳宮(中丹田)は樓を重ねて十二宮なり。宮室(心臓)の中には五采の集い。赤神の子は、中池(胆)に立つ。下に長城(小腸)、玄谷の邑(腎臓)あり。
 
【もし不死を望むならば身体の頭部へと続く崑崙山を支配せよ。胸のところの絳宮は肋骨の十二本よりなり、それが崑崙山の神々しい樓を重ねて十二宮よりなると観念せよ。その中には心臓の宮室があり五色に輝いていると瞑想せよ。そしてその下には黄庭があり、前述の黄庭に住む赤神の子が胃よりなる中間の池の前に佇んでいる。その下には長い城壁の如く小腸が続き、そして背中の裏側、命門の両脇には二つの村のように腎臓があると瞑想せよ。】
 

 
長生は房中の急を眇するを要す。淫欲を棄捐し君が精を専らにせよ。寸田の尺宅(下丹田)に生を治むべし。子が長流するを繋げば、志は安寧なり。志を観て神を流すは三奇霊(舌・臍・性巣)。閑暇無事にして心は太平。
 
【長生きをしたければ、寝室での営みは慎まなくてはならない。淫らな卑猥なるものへの欲求を捨てて君の精力を保持せよ。臍と命門の中間、上下の黄庭と関元(スヴァーディシュターナ)の間の第三のマニプーラチャクラ付近の方寸に生命を充実させよ。君が物事に流さていくのを丹田の中心の方寸に繋げば、君の希望である長生の志は安寧である。その志を保持し精神を舌と臍と精巣に住む三つの霊へと繋ぎとめよ。そうすれば心は波風もなく泰平である。】
 
 

常に玉房(関元、女性の子宮の位置)を存すれば、視は明達す。時に大倉(胃)を念ずれば、飢え渇かず。六丁(丁卯・丁巳・丁未・丁酉・丁亥・丁丑で陰神の女神)を役使して神女に謁える。子の精の路を閉ざさば、長く活するべし。正室(関元)の中は神の居る所。洗心して自ら治めて敢えて汚るる無し。五臓を歴観し節度を視、六府の修治するに、潔きこと素(白ぎぬ)の如し。
 
【常に意識を関元におけば、視力が良くなる。胃に意識を向けて念想し気を送れば、渇きと飢えの感覚がなくなる。身体の前面部の六つのチャクラに対応する部分に念想をして六丁の女神達に会見せよ(意味不明だが恐らくこのような意味である)。君の精を漏れさせる道を閉ざせば長く生きることができるのだ。正室とも呼ばれる関元部分には神(クンダリー)がいる。心を洗い清めて自らを制御すればどうして外界のカルマに汚されることがあろうか?五臓を瞑想しそこに気(プラーナ)を送りこみ、自己の状態を常に把握せよ、そして六府に対しても同様でそれにより白絹のごとき自己の清浄を保つことができる。】
 


虚無は自然の道の故にして、物に自ら然るる事有りて煩ならず。垂拱して無為なれば心は自ら安なり。虚無の居は廉間に在り。寂寞曠然として口は言わず。恬澹無為にして徳園に遊び、精を積み香潔ければ玉女は存す。
 
【道学における虚無とは、自ら然りたる本来の自然の道である。物事にはそれ自体の自ら然りたる自然というものがあるので難しいことではない。手をこまねいて何もしないでいれば心はやがて自ずから平安に達する。虚無とは家の中にある。寂寞として心を広く持ち沈黙を保ち、心は恬澹にし、何もしなければ、道の本来の在り方である徳園に遊ぶことができる。精を保てば身体からは芳香が漂い、自らに玉女が住むようになる。】
 


中巻


道を憂柔に作して、身は獨り居り、性命を扶養して、虚無を守る。恬澹無為にして何ぞ思い慮らんや。羽翼以って正に扶疏と成さば、長生久視して乃ち飛去せん。
 
【道において柔らかく物憂いほどにのんびりとして、一人居て、自らの性命を養い、あくせくせずに虚無を守る。心が恬澹で何もしないでいればどんな心配が生まれようか。羽や翼を広げて広がる枝のように伸び伸びと長生きして時期が来たら仙界へと飛び立とう。】
 

 
五行(水・火・木・金・土)は参差なるも根節を同じうす。三五は気を合するも本は一なるを要す。誰が與にしてこれらと共に日月に升らんや。珠を抱き玉を懐にして子が室に和す。子自ら之を有して持すも失う無かれ。
 
【一水・二火・三木・四金・五土よりなる五行は互いにばらばらのように見えても根は一つである。水の一と火の二を合わせた三という数の理と土の五の数字の理を合わせて本の一に帰するを要す。五行よりなる身体のままどうして太陽や月に飛翔することができようか?真珠貝が真珠を抱くがごと、この内丹の大切な玉石を懐に後生大事に入れて君の部屋に引き篭れ(ニートと笑われようが知れたこと)、大切なものは君の内にあるのだからそれを持っていると知りながら失うような真似だけはするな。】
 



 
即ち不死を得んとすれば金室(神室)に藏せよ。月を出だして日に入るるは是、吾が道なり。天は七たび、地は三たび回って相い守り。五行に升降して一(純陽)は九(後天老陽の数)に合する(任脈と督脈のことか)。玉石の落落(まばら)たるは是吾が寳なり。子、自ら之有るも何ぞ守らざる。心は根帶を曉(さと)りて、華采を養う。天に服して地に順じ合(ま)さに精を藏すべし。七日の内に回りて相合すれば、崑崙の性は迷誤せじ。
 
【不死になりたければ、上述の方寸の金室に精・気・神を集めて隠せ。左半身の月(イダー気道)の気の流れを右半身の日(ピンガラー気道)の流れに中央脈管を通じて合わせよ、これが我々の行くべき道である。天上の気の流れを七度巡らせ、地上の気の流れを三度巡らして、五行よりなる身体を通じて気のエネルギーを昇降させ、先天の一なる純陽の気と後天の九なる老陽の気を合わせよ。石の中に玉石のばらばらとあるのも我が宝である。どうしてそれが既に君の手中にありながら守らないでいられようか。心はまず根っことなる部分を養い認識してこそ、葉も花も広がるとういうものだ。天地の理に合わせ精を内なる丹として構築せよ。七日間に渡り精・気・神を煉成すれば崑崙山であるこの身体の性は誤ることがなくなる。】
 

 
九源(九液)の山の何ぞ亭亭たる。中に眞人ありて使令す可べし。蔽うに紫宮丹城の樓を以ってし、侠むに日月の明珠如くなるを以ってす。萬歳に昭昭として期有るに非ず。外に三陽(精・気・神)に本づけば、物は自ずから来る。内に三神(三陰)を養えば、長生す可し。
 
【九つの体液が流れるこの身体という崑崙山は、何と高く聳え立つことか!その中には真人が住んでいるのだから指令すべきである。紫の気の雲がたなびくこの赤い色の楼宮を以って彼は守られている。そして両眼の太陽(ピンガラー)と月(イダー)がそれを挟み、まるで明るい真珠のようである。一万年に渡り輝くそれは限りがない。腎臓の気と心臓の気と丹田の気の三陽を養えば外側の物は思いのままである。内なる元神・識神・真神を養れば長生きするであろう。】
 

 
魂は天に上らんと欲して、魄は淵に入らんとす。還魂反魄は道の自然なり。を旋して珠を懸け、環に端なし。石戸(石の扉)、金龠(金の錠)の身は完堅なり。
 
【天上に由来する魂は天上へと上りたがり、地上に由来する魄は深き淵へと沈みたがる。このような還魂反魄は道の自然である。真珠などで作った円環には端というものはない。身体のエネルギーの漏れるところに石の扉と錠前で鍵をかければ堅固となるのだ。】
 

 
地を載する玄天は乾坤を廻り、象るに四時を以ってすれば赤きこと丹の如し。前を仰ぎて後ろを卑くし各おの門を異とし、送るに還丹と玄泉(唾)を以ってす。龜の気を引きて霊根を致すを象り、中に眞人ありて金巾を巾す。甲を負いて符を持して七門を開く。此は枝葉に非ずして實に是根なり。昼夜これを思えば長く存すべし。
 
【地を頭に冠の如く載せた玄天のように、天と地を廻るが如くエネルギーを昇降させ回転させよ。12月に渡る四つの季節を身体に分配すれば赤い丹の如くにエネルギーは集中する。前方を仰ぎ見る頭部でのやり方と、背後の低いところでのエネルギーを流すやり方は自ずから異なっている。身体下部において前方から背後にエネルギーを送るのに丹田を通じて行い、頭部において背後から前方にエネルギーを送るには唾を飲むことを以ってする。そして亀が気を吸い込むが如く舌を以ってするのである。この身体の中の真人は金のスカーフを頭に巻いている。彼は兜を被り、お札を以って次々と身体の七門である頭部の天門、眉間の明堂である前門、喉の重樓である樓門、心臓の絳宮である房門、尾てい骨の地門、背中の夾脊である後門、後頭部の玉枕である後門を開けて行く。このことは枝葉末節ではなく根本的なことである。昼夜この小周天の技法を行えば、長く存するであろう。】
 



 
仙人、道士は神とすべきに非ず。精を積みて致す所は専らに年と為す。人皆穀と五味を食う。獨り大和陰陽の気を食う。故に能く不死にして天相の既るなり。心は国主にして五蔵の王と為し。意を受けて動静の気は行くを得る。道に自ら我を守り、精神は光く。晝日は昭昭として夜に自ら守る。渇きて自ら飲むを得て、飢えて自ら飽く。
 
 【仙人や道士、シッダ、マハートマー、ブッダボーイと言っても自分達と掛け離れた神ではない。精を保ち年単位でこうしたことを実践しているに過ぎない。人間は皆、穀物と五つの味の食べ物を様々に食べる。しかし彼らは一人こうして大いなる陰陽と調和した気を吸収しているのである。それ故に不死であり、天が決めた寿命も無視できるのである。心臓は国の王のようなもので五臓の王者である。人の意思を経由して動と静の性質を有する気は行き渡るのである。道というものに自己の避難所を求め自己を守り、精と神が合わさって精神は光り輝く。日中は明るく照り輝き、夜中でもそれを守り続ける。渇いた時も飢えた時も気を吸収することで満足する。】
 


六府を経歴して卯酉(子午が会陰と頭頂)に藏す。陽を轉じて陰に之きて九(初九、地)に藏す。常に能く之を行かしめば老いを知らざるなり。

【六府(大腸・小腸・胆・胃・膀胱・三焦)を一つ一つ念想していき、そこに順次、意思を用いて気を送り、命門と臍のところの方寸の丹田へとエネルギーを集約する。背中の陽の督脈から腹部の陰の任脈へと気を周天させる、やがて大地に近い丹田に集約していく。このように五臓六府に気を順次送り活性化させ、督脈から任脈へと気を周回させて丹田に気を貯めていくことで老いを除くことができるのだ。】
 




 
肝の気を為すや調のえ且つ長くし。五藏を羅列し三光(星・日・月の光)を生ぜしむ。上に三焦(上焦、中焦、下焦)に合して道に漿を飲む。我が神、魂、魄は中央に在り、鼻に随いて上下して肥香を知り。懸雍(口蓋垂れ)に立ちて明堂(眉間)に通じる。
 
【肝臓の気を調節し長くし、五臓へと送り、スシュムナー(星)、ピンガラー(日)、イダー(月)に三つの光を生じさせる。三焦のところの経路で漿を飲み。神と魂と魄を中央に集め鼻に従い上下に昇降させ、口蓋垂れから眉間の明堂(アージュナーチャクラ)に通じさせるのである。】



下巻


玄門(丹田)に伏して天道(星辰)を候い、近くは身に在りて還た自ら守る。精、神、上下し文理を開く。利を天地に通すは長生の道。

【玄妙の門である丹田に伏しつつ、天上の星辰を窺い、自らのもっとも近き身体において自らを保持する。精と神は会陰から頭頂部に上下に昇降することで物事の道理が開けてくる。成長する力を身体を通じて大地から天上に通していくのが長生の道である。】
 

 
七孔已に通ずれば老いを知らず。還た天門(頭頂部)に坐し陰陽を候う。喉に下りて神明に通じ、華蓋(胸と喉の間、肺)の下を過ぎて清く且つ涼し。清冷の淵(恐らく鳩尾)に入りて吾が形を見、期して還丹を成さば長生すべし。

【七つの門が通じれば老いは避けることができる。頭頂のサハスラーラ・チャクラのある百会に座り宇宙の陰と陽を探求する。喉のところにおいて上丹田の神明に通じさせ、中丹田の胸部前面に降りて清涼の気を貯え、中丹田と下丹田の間の清く冷たい淵である黄庭のある鳩尾の辺りに入りて自己を知る。かくてその下部の下丹田に意識とエネルギーを帰還させるのである。】
 



 
還りて華池(舌頭の下位)を過ぎて腎の精を動かし、明堂(眉間)に立ちて丹田を臨む。将に諸神をして命門を開かしめ、利を天道(頭頂か星辰)に通して霊根(舌)に至る。陰陽列布すること流星の如し。肺の気を為して三焦(リンパ系)を起こす。上に天門(百会)に伏して故道を候い。
 
【もう一度、舌を意識して口中に唾液を貯めて、腎臓にある精気を活性化させる。眉間のアージュナーチャクラの明堂に立って下丹田を意識する。まさに身体の五臓六腑に潜む神々を召喚し、下丹田のマニプーラチャクラの裏側の命門を開かせる。そして上りゆく生命エネルギーを頭頂部に通してもう一度、舌の部分に貯める。陰と陽の気を流星のように広げるのである。肺を意識しそれにより膵臓のある三焦を刺激する。頭頂部を意識して古き道を知るのだ。】
 
 
 
天地を久視して童子を存す。精華を調和して髪歯を理え、顔色潤沢にして復た白からず。喉に下りて何ぞ落落たる。諸神皆会して相い求索す。
 
【天地をこのように身体を通じて観念すれば自らの中に老いを知らない童子を見るであろう。身体の精華を通じて白髪となり抜け落ちた歯を再び調える。顔色をは艶を得て白髪はなくなる。喉のヴィシュッダ・チャクラのところを意識すれば、どうしてエネルギーがまばらになったりしようか。身体に住まう五臓六腑の神々はそれぞれ連絡しあい一つとなるであろう。】


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