第3章 第7節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


परेषां परिवादसत् ॥७॥


pareSaaM parivaadaat ॥7॥
 
 
【他の者の[1]非難によって[2]】
 
 
 
[1]pareSaaMは、para(他者、敵、反対者)の男性複数形の属格である。
[2]parivaadaatは、parivaada(非難、悪口)の男性単数従格である。parivaadaは属格か依格を取って、「~による非難・悪口」となり「他者による非難によって」となる。

 今回の記事では、次回より本格的に見ていくことになる反宇宙的世界観の元凶である二元論のグノーシス主義を理解するのに必要な補助線を四本ほど引いておくことにする。我々はまずギリシアのプラトン思想からそのイデア論とデーミウールゴスによる世界創造説を見ていく。これにより我々はヘレニズム文化特有の反省的思弁の流れを我々の論考に導き入れるであろう。続いて我々はゾロアスター教とその異端のズルワーン教から直線的時間イメージとそれに基づく終末思想の流れを導き入れる。そしてさらにその終末思想に基づく救世主信仰の流れをゾロアスター教とミトラ教から導き入れることにしたい。最後にはユダヤ教の唯一神ヤハウェの不条理性とその黙示録的志向を『ヨブ記』をもとに導き入れるであろう。かくてこの四本の支流と二元論的思考が相俟って我々はグノーシス主義という錯綜とした論理にようやく照明が当てられるようになる。
 12000年前、現在より海抜が100メートルぐらい低かった氷河期時代にジブラルタル海峡(ヘラクレスの柱)の先にアトランティスという大きな島があり、その島からアメリカ大陸などへも渡ることができた。この有名なアトランティス伝説の出所でもあるプラトン後期の作品『ティマイオス』(『プラトン全集12』種山恭子・田之頭安彦訳 岩波書店)から、アトランティス島の謎は筆者の中ではとっくに解決済なのでうっちゃっておいて、グノーシス主義に影響を与えたギリシアのプラトン哲学の宇宙観・世界観を見ていくことにする。これはグノーシス主義を理解するのに必要な補助線の第一である。



 ソクラテスの弟子であるプラトンは、イデア論で有名である。これは世界を真実在の観念的なイデアと、その現象し生成した世界とに分離して理解する理論である。プラトンのイデア論によれば、例えば真善美というイデアが存在し、実際の我々の姿は、そのイデアにある程度与った現象した姿でしかない。言い換えればイデアが原液ならば、生成した世界はその希釈されたものなのである。ここにおいて上の世界であるイデア界と下の世界の物質界とに分離するギリシア的二元論の姿がある。しかしながらこうした分離状態も決して悲観的なものではない。こうした二元論も『饗宴』で言われるところのギリシア的エロース(愛)が媒介となり、真善美のイデア界に徐々に参入しつつ、物質世界という暗い洞窟の中の囚人である我々も、真実の記憶を取り戻して、自己の明るい真実の姿に目覚めていくことになる。これが楽観的なソクラテス・プラトン主義の大筋である。


 『ティマイオス』でもこうしたイデア理論を前提として、その世界観が述べられる。ソクラテスとの対話の中でティマイオスの口を借りてプラトンが述べる世界観とは、まず全宇宙(ウラノス)或いはコスモスは、常にあったものではなく生成したものであるされる。そして生成されるものは何かの原因があって生成されるものなのでそこに宇宙万有の制作者(デーミウールゴース)が想定されねばならないと言う。またこの宇宙は優れた善き者によって、永遠を理想としながら生成されたものとされる。そしてその善き者は物惜しみすることも嫉妬心もなく自分に似せて世界を創造したと考える。「この宇宙は、神の先々への配慮によって、真実、魂を備え、理性を備えた生きものとして生まれた」(P32)。この制作者は、ピタゴラス的な数学的な均整のとれた比率と最も完結した形としての球形としてこの世界を形成する。また魂の部分は、「同」と「異」と「有」の三つの部分を混ぜ合わせてつくられる。さらに彼は永遠に似せた似像(エイコン)を作るべく、「一のうちに静止している永遠を写して、数に即して動きながら永遠らしさを保つ、その似像」(P47)である「時間」を作った。これによって「あった」と「あるだろう」という時間相ができる。すなわち時間は永遠というイデアを基に作られたこの仮象の世界のひとつの似像なのである。そして神は太陽と月と惑星という五つの星(金星、水星、土星、火星)を創造した。さらに天の種族(天体・神々)、翼を持つ空中を飛翔する種族、水棲族、歩行する陸棲族を創造する。その中で天の種族には二つの運動のみを結び付けた。それは同じ場所を一律に動く運動と前進運動とを。他の種族には上・下・左・右・後に進む運動をも結び付けた。またさらに各々の惑星に対して、魂がその運命に従ってしかるべき場所に撒かれたのであった。かくしてプラトンはさらに四大元素(土・水・火・空気)や人間の身体そしてピタゴラス的な輪廻思想などに話を広げつつその対話篇を完結させる。
 この『ティマイオス』に見られるデーミウールゴスの創造に基づく世界観は、ギリシア神話やピタゴラス、ソクラテスなどのギリシア哲学者の先行思想などを取り入れつつ、その基調にあるのはそれ自体で完結した円満自足の幸福なエロース的気分に満たされたギリシア的世界観そのものである。イデア界と生成された世界には程度による相違はあれど、それを媒介するものが善き神であってみれば、その似像とイデアの間に深い断絶はない。ここにあるのは世界と神への深い信頼である。ピタゴラスもソクラテスも哲学者である前に深い敬神家であった。プラトンはアリュキュタスに師事してピタゴラスから数えて九代目の継承者であったという説があり、ソクラテスの直弟子である。プラトン哲学にはイデア界と現象界の二元論的分離の萌芽はあっても、そこにグノーシス主義に見られるような決定的な断絶や分離がないのは、こうしたギリシア的敬神の伝統や『饗宴』に見られるエロース的な至福感を媒介としているからであろう。しかしこのような反省的で思弁的な世界創造の理論がやがてヘレニズム文化としてユダヤ文化に合流してグノーシス主義を作る上でのひとつの構成要件となっていくことになる。


 次に我々は一度ゾロアスター教に戻り、その時間論から発展したところの異端のズルワーン教と共に直線的な時間論による終末論をグノーシス主義理解の為の第二の補助線として見ていくことにしたい。そして続けてその終末論が導きだすところの第三の補助線としての救世主信仰を、ミトラ教と共に見ていく。
 一般的に古代文化の時間理解は、周期としての円環のイメージに基づく。四季が巡り、種撒きから収穫そして冬を越えれば再び種撒きをするというサイクルとしての時間は、同一物の反復として世界観に安定を与えるのであるが、こうした時間性の自足性を打ち破りゾロアスター教は、善悪二元論的対立の中で、直線的イメージを紡ぎだす。
 ザラスシュトラの教えによれば、アフラ・マズダーは霊的な「メーノーグ」という状態を発生させた後、それに形を有する物質的な「ゲーティーグ」の状態を与えて創造行為をなした。この二つの状態の創造行為は「ブンダヒシュン」と呼ばれる。そしてそこにアングラ・マインユが攻撃を仕掛けた時から時間は第二の段階に至る。それは善悪の混合の時代であり、「グメーズィシュン」と呼ぶ。そして最終期におてい徐々に善と悪は分離され歴史は終息することになるこれを「フラショー・クルティ」ないし「フラシェギルド」と呼ぶ。創造→混合→分離という直線的な時間イメージがこうして完成する。
 こうした円環の時間性に直線の時間性が導入されたことで、人々の意識は時間に思弁的に向かうようになる。こうした時間意識への反省が一部のマギ達によってズルワーン教を生む契機になった。ズルワーン教ではアフラ・マズダーとアンラ・マンユは双生であり、二つの霊として対立的に扱われる。スプタ・マンユの地位にアフラ・マズダーが降格されたことになる。そしてこの二つの霊を創造する父神こそがズルワーン(時間)であると彼らは宣言する。こうしてズルワーン教は、唯一神としての性格を有していたアフラ・マズダーをアンラ・マンユの兄弟とすることでその相対化を生み出す。シリアの資料ではズルワーンは時間の三つの相であるアショーカル(成長)・フラショーカル(成熟)・ザーローカル(衰退)に囲まれている。こうした時間理解はヒンドゥー教の創造と維持と破壊の三相を思わせる。シヴァ神の異名にマハーカーレーシュワラ(偉大なる時間主)というものがあるが、ズルワーンはこうした時間を神格化したものである。またズルワーン教において時間は単純な直線性としてではなく永劫回帰的な循環論としても語られる。「長い自立的な時間(ズルワーン・ダルゴー・クワザータ)」が「無限の時間(ズルワーン・アカラナ)」から生まれ、12000年続いた後に「無限の時間」に回帰するとされる(P151 『世界宗教史4』参照)。このズルワーン教は独立的な宗教というよりも、基本的にはオフルマズドとアフリマンの対立を中心とした信仰に付加された、あくまでも神学的思弁の結果の神であり、それはゾロアスター教の異端と見るべきであろう。


    以上のように循環的でもあり直線的でもあるこの時間性は、アンラ・マンユという悪を含む故にその悪が滅ぼされる為の目的を持った終末を目指すものとして理解されるのを特徴とする。円環的な時間性の中では反復が目的であり、それは永遠を希求するのであるが、直線的時間イメージの中では時間は目的を持ち、その目的の終局を目指して進む。例えば空間芸術であるところの絵画芸術において空間的な仕切りこそあれそこに始まりも終わりもないが、時間芸術としての演劇や音楽には必ず起承転結、序破急といった終わりがある。善悪二元論の教えでは悪の絶滅こそが目標なのであるからそこに終末を望むという気持ちが働くことになろう、何故なら終末こそが悪が滅びる時でもあるから。
 かくて直線的時間論を伴うゾロアスター教は終末を志向しつつ、そこに悪を滅ぼす為の契機である救世主信仰を発展させる余地が生まれる。前述の終末論的時間意識の中で、ザラスシュトラは最終的な善悪の対立を終わらせる為に、最後の戦いにおいて人類を率いる者としてサオシュヤントという者が現れるであろうという教えを説いたとされる。そしてこの教えは、さらに「預言者の種子によって、処女の母から生まれるという三人の救世主を待望するところまで敷衍された」(P153 メアリー・ボイス著『ゾロアスター教』山本由美子訳 講談社学術文庫)。また終末期にはサオスシュヤントとオフルマズドによって行われるハサヨースという、牡牛の終末的な犠牲によって、その牡牛の脂肪または骨髄から作られた、白い聖酒ハオマと混ぜあわされた飲み物が、蘇生した人間を不死にするということ記述がミルチア・エリアーデの『世界宗教史4』で語られている。こうした直線的な破局的終末思想とその終末の戦いで人類を導く救世主や人類の復活という観念には魅力があり、救世主信仰はやがて他宗派の間にも拡大する。ミトラ教はゾロアスターがアフラ・マズダーを主神にする際の宗教改革で、傍らに追い込まれたアーリヤ人の契約と友愛の神であるが、ミトラの太陽神的性格と共にやがて救世主信仰と深く結びつくようになる。一世紀のギリシア人プルタルコスのゾロアスター教の記述からミトラの性格を見ていこう。
 
トロヤ戦争の五千年前に生きていたといわれているマゴス僧のゾロアストレスがそうで、彼は神の方をホロマゼス、鬼神の方をアレイマニオスと呼んでおります。さらに彼は、人間の感覚で知り得たものになぞらえるなら、前者は光に似ているが、後者は反対に闇、無知に似ていると言い、両者の中間にミトラがあると言っております。なればこそペルシア人は、ミトラのことを仲介者と名づけているのです。(P88 プルタルコス著『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』柳沼重剛訳 岩波文庫)
 

 ギリシア人のプルタルコスはゾロアスター教の概説として述べているところに仲介者であるミトラの名を挙げる。彼の知識は不確かな部分も多いが、この言表はこの当時(紀元前1世紀)においてミトラが善神と悪神の二元論的対立の仲介者的位置にいるものと見なされていたことを示している。アケメネス朝ペルシアがアレクサンドロスに滅ぼされ、ギリシア系のセレウコス朝がペルシアを支配するようになったが、やがてペルシア地方はパルティア人の支配化に入りアルサケス朝が支配する。紀元前2世紀のアルサケス朝のミトラダテス1世やミトラダテス2世の名前からも分かるように、パルティア人はゾロアスター教ではなく先祖伝来の古いインド・イラン系のアーリヤ人の神々を信仰していたようである。ミトラダテスという名前はサンスクリットでは、デーヴァダッタやソーマダッタと同系列のミトラダッタであり、「ミトラによって授けられた者」という意味になる。アルサケス朝の鋳造した貨幣にはヘレニズムの影響でゼウスとアポロ(アフラ・マズダーとミトラを表す)やニケとデーメテール(アシとスプンタ・アールマイティを表す)等が印刻されていた。こうして再びミトラ信仰が勢力を取り戻し始め、その二元論的対立の仲介者的性格が救世主的性格へと統合され、東ではそれが弥勒(マイトレーヤ)信仰となり、西ではミトラ密儀となってローマ帝国の軍人にその救世的性格と共に急速に広がっていくことになる。



    ミトラ密儀についてはその全貌は未だ解明されていない。アルメニア地方では、「メヘル(ミトラ)は洞窟に閉じこもり、年に一度そこから出てくると言われている。事実、新しい王は、再び受肉し、新生したミトラであった」(P166 ミルチア・エリアーデ著『世界宗教史4』 柴田史子訳 ちくま学芸文庫)。青木健はその著『ゾロアスター教』でアルメニアのゾロアスター教的終末論では、世界の終末にヴァン湖に潜むミトラが正義の復権の為に現れると記述している(P93)。ミトラ密儀におけるミトラは、図像学的には牡牛を屠る戦士の姿として描かれる。井上文則の『西洋古代史研究』(第4号 2004年)に発表された論文『ミトラス教研究の新動向』ではこれまでの世界のミトラ教研究の動向を概括し、その占星術的解釈を紹介している。すなわちこの屠られる牡牛とは、牡牛座であり、その牡牛座を屠る者は、研究者シュパイデルによればオリオン座ということであり、研究者ウーランジィはペルセウス座と見なす。そしてウーランジィはこの牡牛座がペルセウスに屠られる姿は、ちょうど紀元前128年頃にヒッパルコスによって発見された歳差運動の知識の衝撃を伝えるものとする。すなわち紀元前128年頃に春分点は白羊宮の0度近辺にあり、牡羊座の時代から魚座の時代に、時代は移行しようとしていた。しかしここに問題もあってミトラ教の図像では屠られるのは牡牛座である。これはヒッパルコスの時代から2150年以前の時代を表していることになる。そしてここでミトラが牡羊座の象徴であるならば、それは魚座の時代に屠られた羊を象徴していることになろう。思い起こして欲しいのだが、屠られる羊の象徴や魚の象徴を使用したのは魚座の時代の宗教であるキリスト教であった。ウランジィの解釈を真とすれば、ミトラ教は既に当時でも2150年前に有効な象徴を利用していたということになろう。また研究者のベックはミトラ教のミトラは、図像の真ん中に位置し、それはしし座の位置にあると述べる。それと同時に星座のどれかに一対一対応しているものではない多義的解釈の必要性を説く。西方ミトラ教においてミトラの図像は、牡牛を屠る姿で表されている一方、他方でそれと平行してズルワーン教の主神であるズルワーンが獅子頭の蛇を巻き付ける姿でミトラ教においても崇められていた。その際に獸帯が共に描かれている所から、その図像の象徴学には深く占星術的知識が背景にあったことが推測されるのであるが、ミトラをしし座の位置にあると見なせば、獅子頭のズルワーン神崇拝との混合もある程度説明がつくであろう。このように今でもミトラ教の解釈は紛糾しているのである。ともあれその象徴の力強さと太陽神崇拝としての希望の表現がローマの軍人達に慰めを与えことは疑いない事実である。無益でいつ終わるとも知れぬ征服戦争で彼等は自分の戦いに古い時代を屠り、新しい時代を切り開く象徴的意味ををもってその希望としたかったのかもしれない。かくて未来の見えない時代において人々は未来への希望の星として正義をもたらす救世主信仰を抱く。


 最後に我々は旧約聖書の『ヨブ記』を見ていくことにしたい。これは古来より人々を悩まし続けた神の不条理性を表す問題の書ではあるが、今の我々の前に『ヨブ記』にはいかなる不可解さもないので、これより軽々しく簡単に解説する。まず日本人の宗教嫌い、唯一神嫌いを鑑みてそういう善悪の此岸に立つ意識レベルの低い人は、神を「真我」と頭の中で読み換えることをお勧めしておく。『ヨブ記』の問題とは、端的に言えば、超越神である唯一神ヤハウェの善悪の彼岸に立ったエデンの園的一元論と、知恵の実を食べたアダムとイヴの子孫である主人公義人ヨブの善悪の此岸に立った失楽園以降の二元論との争いであり葛藤である。唯一神ヤハウェは善悪二元論のマーヤーに囚われたヨブの蒙を啓き、その迷妄を打ち砕く為に恐るべき隠されたイニシエーション行うことになる。『ヨブ記』はその記録であり、これは如何にして義人がパリサイ人へと堕落する危険を回避しつつ、キリスト意識へ続く道を切り開くかという、意識進化の越え難き最初の難関を突破する方策の教えである。
 
 
ウツの地にヨブという名の人がいた。その人は全くかつ直く、神を畏れ、悪を遠ざけた。彼に七人の息子と三人の息女が生まれた。その財産は羊七千頭、駱駝三千頭、牛五百軛、雌驢馬五百頭、僕婢の数はおびただしく、その人は東の子らの中、最も大いなる者であった。(P9 『ヨブ記』 関根正雄訳 岩波文庫)
 
 
 こうして正義の人であり如何なる悪を行うこともなく正しさのみで莫大な財産を築いた人の範たる幸福なるヨブの声望は、神にまで達していた。ある時神の前に悪魔が挨拶をしにやってきた。神はヨブは義人で大したものだと悪魔に自慢をする。人間心理学の総本家の悪魔は神に告げる。彼は善行を行えば善き結果が受けられると知っているので義人なのである。それはたかだか目的倫理学的見地か結果倫理学的見地からそうするに過ぎない。善行に貴方が立派に報いると知っているから貴方を讃え信仰もするのである。もし善行に貴方が悪をもって報いれば、彼は神を呪うであろう。神は悪魔にヨブを試みることを許す、命を奪わない程度ならという条件付きで。
 悪魔はシェバ人を使ってヨブの財産の牛を全頭みな殺しにさせ、火をふらせて羊と牧者を、カルデヤ人を使って駱駝を、大風で息子と娘を殺させる。義の人であった幸福なるヨブは一瞬にして全ての財産を失う。しかし彼はかく述べる。「裸でわたしは母の胎を出た、裸でわたしはかしこに帰ろう、ヤハウェ与え、ヤハウェ取りたもう。ヤハウェのみ名をほむべきかな」(P11)、かくて彼は全財産を失ってもじっと耐え、神を呪わない。次に悪魔は、ヨブの足元から頭のてっぺんまで悪い腫れ物で攻撃する。ヨブはパーシュパタよろしく灰の上に座っていると、ヨブの奥さんがやってきて心ないことを言う。「あなたはまだ自分を全きものにしているんですか。神を呪って死んだらよいのに」(P13)、ヨブは奥さんに答える。「愚かな女のようなことを言うでない、我々は神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」、こうして全身腫瘍に包まれながらも義人ヨブは神を呪わない。


    やがて友人達がやってきてヨブと対話をする。ヨブは自己の苦悩を吐露する。神を呪うことはないが自己を呪う。「滅びよ、わたしが生まれた日、男の子がはらまれたと言ったその夜……何故苦しむ者に光を賜い、心悩める者に生命を賜うか……わが恐れた恐れがわたしに来た。わたしは安らい得ず、平かならず、安きを失い、恐怖だけが来る」(P14-17)、かくして何も悪くない義人ヨブは神が悪魔を介在させて贈与するこの禍悪の意味を問いつつその不条理性に苦しみあえぐ。友人達は、ヨブに隠された罪があったのではないか、傲慢であったのではないか、神が間違いを犯すはずがないといって非難する。ヨブは友人達にいかなる落ち度も自分にはなかったと自己の正当性を訴える。そして神の正当性をも無論のこと是認するが、その上で何故苦しめるのか、何故神は自分を殺さないのか、これはどういう意味なのかと泣き叫びながら訴える
 




人を見張る者よ、わたしがどんな罪禍を
あなたに犯したというのか。
何故わたしはあなたの的にし
あなたの重荷にされるのか。
何故わが咎を赦さず、
わが罪を見過ごしにはされないのか。
ああ、今わたしは塵に伏し
あなたがわたしを探してもわたしはいないでしょう。(P31)
 

 ヨブは、神の強制によってパーシュパタ的軽蔑探求行を強制的にさせられる。巨万の富と正義のひとであったヨブを今や誰もが軽蔑し嘲る。「もしわたしに罪があれば、わたしは災いだ。しかし義しくてもわたしは頭を上げられない。わたしは恥に満たされ、悩みに満ちているからだ」(P41)。文学史上でも最も苦しみ歎く人になった義人ヨブに匹敵するものといえば、ギリシア悲劇詩人ソポクレスの筆者の好きな戯曲『ピロクテテス』の主人公ピロクテテスぐらいなものである。この即物的な苦しみの前では神学議論も無駄であろう。ヨブはひたすら語り続けるが要するに、「俺は悪くない、神もまた悪かろうはずがない。それではこの苦しみは一体何だ!?そして俺は神を呪わないが説明を求める権利がある。抗議する権利がある。正義の人はなぜかくも苦しまねばならないのか?この世に正義はないのか?」
 

 ここでヨブの問題を挙げれば、ヨブはパリサイ人のように義を誇っているわけではないが、「私は正しい、私は苦しい、私に説明しろ」というように「我性」に執着する。ヨブは「義の砦」に立て篭もり「自己」を主張する。彼の二元論のマーヤーとは彼の「義性」そのものである。しかしこれは彼のアイデンティティであるから捨てられないのである。しかしそのアイデンティティこそが迷妄である。「義性」に包まれた「我性」こそがマーヤーそのものなのだ。彼は自分が正しい、自分が、自分がという、我を通すという一点において我執がある。これが打ち砕かれるべき一点であり、彼は義によってこの一点を手放せない。お釈迦様は「善と悪を共に捨てさる」と述べたが、ヨブは知恵の実のもたらす二元論のマーヤーの善への固執によってそれができない。彼は全面降伏、明け渡しができていないのである。正義の一点に立て篭もって、自己を譲り渡さず神に明け渡しができていないわけである。これこそが彼の問題である。神は義人をより高い「善悪の彼岸」に導く為に、相対性のマーヤーによって義人ヨブに悪を贈与する。それではこのような緊急事態において我等が聖者軍団がもしヨブだったならどう言うであろうか。ニーム・カロリ・ババなら「これはどうしたことだろう!みんな死んでしまった!私のこの身体はどうなってしまったのだろう!神は全てをなし給う!この私に執着があるとでもいうのか!執着を捨てて瞑想しよう!ラム・ダス!私は執着を捨てて瞑想する!」と驚いたふりをしながら言うかもしれない。ハイダーカーン・ババなら「ラオ博士、どうやら私は一人になって瞑想しなくてはならない時が来たようだ。」と言って洞窟に篭るかもしれないし、ソンバーリー・ババなら、何も言わずにヒマーラヤに瞑想しに行ってしまうことだろう。いずれにせよ、この三人は苦しめても物語に全然発展しない平常運転である。つまり彼らはヨブの段階をとっくに克服しているのである。結局ヨブが言うべきはシク教五代のグル・アルジュンが『グル・グラント・サーヒブ』で歌ったあの詩句である。「我はカルマを知らじ、我はダルマを知らじ、我はマーヤーを追いかくるに貪欲なり」。
 

 ヨブの話に戻ろう。ヨブと友人エリパズ、ビルダデ、ゾパル、エリフはめいめい議論を重ねるが議論は堂々巡りである。ヨブは決して譲らず、友人も慰めているのか非難しているのか、その両方なのか、全く解決の糸口が見つからない。ヨブは「君たちは口をつぐめばよいのだが。それがせめて君たちの智慧というものだ」(P49)「どうして君たちは無駄に慰めようとするのか。君たちの答えはいつわりばかりだ」とうるさい友人達に当たり散らす。そして神への怒りと共にかく述べる。「全能者よ、わたしに答えよ。わが論敵の書いた訴状、わたしはそれをわが肩に背負い。冠としてわがかしらにむすび、わが歩みの数を彼に語り、君候たる者のように彼(ヤハウェ)に近づこう」(P117)、ヨブはその一身に裁判官と検察官、弁護士、容疑者、被害者、全傍聴者を充満させて神に挑む。「何も悪くないこの俺が悪いのか?この義人の俺が、この不条理性の巨大な重しの下で理由もなく降伏すべきなのか」という巨大な謎々の松明を手に掲げて。
 


 
 そしてついにヨブの前に旧約聖書のラスボスである善悪の彼岸、一元論的エデンの園の支配者唯一神ヤハウェが暴風雨の中から満を侍して出現する。
 



 
この無知の言葉をもって
経綸(はかりごと)を暗くする者は誰か。
君は男らしく腰に帯せよ、
わたしが君にきくから、わたしに答えよ。(P142)
 
 
 
 かくてヤハウェはいきなり暴風雨の中からヨブを威嚇(おどか)しつけてヨブに問い質す。
 
 私が大地を作った時、君はどこにいたか?海を作ったとき、それを閉じ込めたのは誰か?朝日を上らせるのは誰か?海の底を君は知っているか?雪や雨、光や闇の出生の秘密を見たことがあるのか?君はプレアデスの鎖を結び、オリオンの結びを解けるのか?稲妻を走らせ、雄鶏が朝を知る知恵を与えたのは誰か?獅子や鴉に山羊、驢馬に馬、駝鳥に青鷺、鷹を養っているのは誰か?つまりヤハウェはアルジュナにクリシュナ神が自己の本性であるビシュヌ神の姿をかいま見せたのと、同じやり口でヨブの無知性を露呈させる。君は私の公の義を否定して、神を非とし自分を義しとするその絶対的根拠を示せとヨブに迫る。 自己の無知とその自己中心性の無根拠さを赤裸々に示されたヨブは恐れ入って答える。「ご覧下さい、わたしはいと卑しい者です。何といってあなたにお答えできましょう」(P153)
 ヤハウェは続いてヨブにカバ(ベヒモス)とワニ(レヴィアタン)を示す。そしてカバとワニにとりヨブのことなど知ったことではないと述べ、これらの動物は恐れ知らずで君がその前に立てば無造作に君を踏み付け食いちぎるであろうと告げる。善悪の彼岸に生きる動物にとってヨブの義人性は無意味なのである。そしてその動物を作ったのはわたしであるとヤハウェは自己の獣主性を宣言する。ここにおいてヨブの正義の余りに人間的な無能性が露呈される。






 神の全知性と対比された自己の無知性と動物の力にまで及ぶ全能性と対比されたヨブの正義の無能性とがヨブに顕示され、ヨブはその自己の中心性のマーヤーをヤハウェに奪われる。そしてヨブはヤハウェに自己を明け渡し、自己の正当感を伴った自己感情を投げ捨て答える。
 
 
わたしにはわかりました。
あなたは何事でもおできになる方、
どんな策をも実行できる方であることが。
それなのにわたしはわたしにわかりもしないことを、
知りもしない不思議について
語ったことになります。
わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、
今やわたしの眼があなたを見たのです。
それ故わたしは自分を否定し
塵灰の中で悔改めます。(P161)
 

 
 かくてヨブは塵灰の中で、神に全面降伏し善悪二元のマーヤーの衣を頭を下げてへりくだることによって脱ぎ捨てる。彼はパーシュパタの如く塵灰に塗れることでキリストの言う「己を低くする者は高められる」を実行したのである。彼は全ての失ったものを再び神より与えられる。


    ここに自己の中心性と二元論のマーヤーを打ち砕く為に必須の、善悪の彼岸の入口に立った悔改めのヨブ意識が誕生する。しかしこれは聖者への第一歩でしかない。ヨブの行った自己の明け渡しから、人類の罪を負ったキリストの秘儀までは遥かに遠いのである。ヨブ意識が到達したのは、自己一身の状況の中での完全な明け渡しである。ヨブは神に自己を最終的に捧げたのである。しかるにキリスト意識が到達したのは、人類という全体意識への自己の明け渡しである。キリストは人類に自己を明け渡す。神への自己の明け渡しが聖者の第一歩であるが、やがて神という上の者への明け渡しは、人類という下ないし、周囲への明け渡しへと発展しなくてはならない。ヨブ意識への到達に愛はいらない。しかしキリスト意識への到達には普遍的な愛が不可欠である。ヨブ意識からキリスト意識に進むことが人類の意識進化の方向性である。

 筆者には、私事で恐縮だが、ヨブの気持ちがよく分かる。筆者は30歳ぐらいで全面降伏し、人生という泥濘の道の塵灰の中でヨブのように悔い改めたのだったが、その心理劇の一部始終はすぐには詳しく思い出せない。私は人生が思うように行かず、絶望と悲しみの極点に達してにっちもさっちもいかない状況に陥ったと迷妄から信じていた、今思えば何でもないことなのだが。そして絶望の淵で、タバコだけが慰めとばかりせっせと吸いながら私は自分の失敗の数々をあげつらった。そしてその根底にいつでも変わらず、「このかわいそうな救われるべき私」という自己憐憫の情とそれ故に「これほどまでにうちひしがれたかわいそうな私に納得がいくように世界は救いをもたらさなくてはならならい」という固定観念を見出だしたのだった。本当は「救われなくてはならないこのかわいそうな自己」という観念と「このかわいそうな自己を納得がいくように世界は救うべきである」という自分本位のわがままこそが自己の首を締めている原因なのであったが。この二つの観念こそが私の場合破壊されるべきなのであった。当時の筆者は、このような自己憐憫と自分勝手自己都合の救済願望の追求が失敗に終わった以上他の手段が取られなくてはならないと考えた。そしてそれがハイダーカーン・ババのいうシヴァ神のマントラ・ジャパなのであった。筆者は破れかぶれで自分の意識の逃げ道でもあるタバコと読書を自分に禁止した。それで15歳の頃から最高の書物と認める『バガヴァッド・ギーター』の思想となら心中してもいいと思っていたので、その思想と完全に一致し、その具体的な実践でもあるマントラ・ジャパに全てを賭けることにしたのであった。筆者は自分のシナリオを捨てて、ハイダーカーン・ババの提供するシナリオに従ったのである。そして数年後にはサッドグルに会い、そして今ではこうして『ヨブ記』を楽々と解説するに至ったのである。明け渡しと全面降伏とはかくも偉大である。私は基本的にもはや何にも動じない。迷妄に駆られた自己都合のシナリオこそが、不幸の原因であり無明の原因なのである。ヨブは神のシナリオに全面降伏して善悪の彼岸に達したのであり、筆者はグルのシナリオに従ってかくて『ヨブ記』をあくびをしながら解説する現在に至る。かくてヨブ意識には達したが、正直に言えば全ての人に慈愛の雨を降らせるキリスト意識への道は遥か先である。風邪を引いて咳込む人間の苦しみをどんな人間のであれ無心で背負うことを是としたり、様々な過去のカルマを負っている人に対して、自分に余裕がない状態でもそのカルマを心良く背負ってあげられる程には至ってないからである。自分のカルマを背負うのに何の躊躇もないが、他人のカルマを背負うのには躊躇がでる。その点に於いては修業中である。私が心底から愛していると断言できる人間のカルマなら躊躇なく背負えるが、そこら辺の見ず知らずの私のことなど箸にも棒にもつかぬ馬鹿者ぐらいに思っている人のカルマは躊躇なくは背負えない。ここに於いて筆者はキリストや私のグルやダライ・ラマ(ダライ・ラマ14世の日課のトンレン瞑想で検索せよ、彼はチベット人を苦しめる中国人などにもこれを毎日行っている)には及ばないのである。私がグルや神に命じられれば、全く見ず知らずの他者のカルマを躊躇なく背負えるだろうが、そうでなきゃ嫌だと思う点では未だキリスト意識ではなくヨブ意識段階である。