第2章 第23節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


कालाय नमः ॥२३॥



kaalaaya namaH ॥23॥



【カーラ(時間である方)に[1]敬礼、】




[1]kaalaayaは、kaala(時間)の与格である。シヴァ神は、時間そのものである。時間について論じようと思えば、それだけで大規模な準備が必要となるので、ここでは論じない。我々は今後第3章か第4章の解説で時間の多次元性を見ていくことになろう。




 今回は前回に引き続き人間を支配し捕食する高次元存在の実在可能性について見ていきたいと思う。これより我々が見ていくのは、カスタネダのドン・ファンシリーズの最後を飾る『無限の本質』(結城山和夫訳、二見書房)における捕食者論である。



 修業も終盤にさしかかりエネルギーを見ることができるようになりつつあるカスタネダに、ある日、ドン・ファン・マトゥスは、夕暮れの時分に、木々の葉叢に注意を向けるように促す。またその時に目の焦点は葉叢には合わせず、目の端っこで見るようにしろと指事する。するとどうだろうカスタネダの視界を横切ってさっと飛ぶ黒い影が彼には見えるようになったのである。



たしかに私は、不思議な黒い影が木々の葉叢を背景にさっと飛びすぎるのを見た。一つの影が行ったり来たりしているようにも、あるいはさまざまな影が左から右へ、右から左へ、下から上へ、素早く動いているようにも見える。私には無数の太った黒い魚のようにも見えた。まるで巨大なメカジキの群れが空中を飛んでいるようだ。私はその光景に心を奪われた。そのうちにとうとう怖くなった。(P271)


First Time I Met The Blues


「なんなの、これ、ドン・ファン?、そこらじゅうに黒い影が飛んでいるのが見えるよ」
「ああ、それこそが宇宙全体なのだ。桁違いにでかく、非直線的で、シンタックスの領域外にあるものだ。最初にこれら飛ぶ影をみたのは古代メキシコの呪術師たちで、彼らは飛ぶ影を追いかけた」このようにドン・ファンは淡々と説明した。




「彼らは何を発見したの?」カスタネダは尋ねる。


「われわれには捕食者がいる。そいつは宇宙の深奥からやってきて、われわれの生活の支配権を乗っ取った。人間はそいつの囚人だ。その捕食者は、われわれの主人であり支配者なのだ。われわれ人間を飼い馴らし、従順で無力な生き物にした。たとえわれわれが抗議しようとも、そいつが抑圧してしまう。われわれが独立して行動したいと思っても、そいつがそうするなと要求する」(P272)


Me and the Devil Blues




カスタネダは訊いた。「なんでこの捕食者は、あんたが言うようなやり方で乗っ取ってしまったんだい。ドン・ファン?論理的な説明がなければならないよ」
「説明ならあるさ」ドン・ファンが答える。「単純このうえない説明がな。やつらが乗っ取ったのは、わしらがやつらにとって餌だからだ。わしらが栄養物だからといって、やつらは無慈悲に搾り取る。われわれ人間が鶏を飼育するように、捕食者どもは人舎でわれわれを飼育する。そうしておけば食い物が手に入るってわけだ」
私は自分の頭が左右に激しく揺れるのを感じた。底知れぬ困惑と不満とを口で言い表すことはできなかったけれど、体の動きがそれらを表面へ浮かびあがらせた。そうしようとは思わないのに、私は頭のてっぺんからつま先までぶるぶる震えた。
「ちがう、ちがう」自分がそう言っているのが聞こえた。「そんなのばかげてるよ、ドン・ファン。あんたの話はまったくもってむちゃくちゃだ。本当であるはずがない、呪術師にとっても、普通の人びとにとっても、あるいはどんな人間にとってもね」
「どうしてだ?」ドン・ファンが静かに問い返した。「どうして本当でないんだ?おまえを憤慨させるからか?」
「ああ、そうだよ、そんな話を聞いて憤慨せずにいられるもんか」私は反駁した。「あんたの主張は途方もなさずぎる!」(P272-273)



 ドン・ファン・マトゥスは、弟子のカスタネダに人間には捕食者がいるという冷酷な事実をこのように告げたわけであるが、いきなりその事実を告げられたカスタネダは、自分が宇宙のブロイラー鶏でしかなかったという驚愕情報に怒りでぶるぶる震えたのは当然である。しかし我々は、ここでどこかで見たようなデジャヴ的場面に出くわしているのに気づく。我々は以前、幽体離脱の達人であったロバート・モンローが、幽体離脱中に出会ったエイリアンのBBに告げられた、人間は「ルーシュ」を製造する為の作物に過ぎないという話を思い起こさざるを得ない。またはグルジェフが弟子のウスペンスキーに告げた、人間は月の食糧であるという説も同じく思い起こさざるを得ない。そしてそこから我々は、ウパニシャッドの二道論を基に、祖道を通って月にエネルギーを供給するムーン・マトリックス的領域と、月を中継地としつつ神道経由で宇宙に愛のエネルギーである高級「ルーシュ」を提供するデーヴァ・マトリックス的領域があるのではないかという仮説を立てたておいたのだった。また前回の記事では、マイケル・ハーナーのアヤフアスカの摂取によって垣間見た太古の原初の生命である宇宙起源のDNAが、聖書の悪魔や蛇に同定しうるという、(ここで一応名付けておくが)DNAマトリックスというものを我々は見てきた。このように宇宙に愛の「ルーシュ」を搾取され、月に低次元のエネルギーを搾取され、さらにはDNAの奸策によって人間は支配されているのだという仮説をそれぞれ見てきている我々にとって、このドン・ファンの告げるような第四の搾取者や捕食者がいようがいまいが別にどうってことはないようにも思われる。そういう点では、われわれは捕食者に対して既に免疫がついていると断言して差し支えない。そしてラマナ・マハルシと共に、我々は身体の五つの層のどれかが、たとえどこかの誰かに搾り取られ捕食されようとも、アートマンにとっては問題ないというアドヴァイタ的観点から眺めることを学んでいる。アートマンは搾取しえない。何故なら不生不滅であるから。またこのような高次元の隠れた支配者や捕食者がいようとも、我々にとっては日常的な卑近のバクテリアや病原菌もすべて捕食者なのであるから、ダスカロスよろしくそんなものたいしたことないと断言できるわけである。我々は生命の循環の中にいる。食べる者はいつか食べられる者となるのは応報であるので、自分達人類だけは食べられるはずがない、我々は食物連鎖の頂点にいるのだと思うおめでたい幻想を抱くほど我々は間抜けではない。つらつら慮ってみるに鶏や牛や豚にとって我々は、悪魔よりもひどい捕食者なわけである。またどんなに多くの捕食者が我々にいようとも、総じて我々にとってエネルギーを搾取する最悪の捕食者は、長きにわたってその歴史が語るように、同族の人間たちなのである。それは今でもそうであり、そういう意味では、我々はナラ(人間)・マトリックスという恐るべき幻想の罠を超えることがまずは先決問題なのであろう。このようなナラ・マトリックスの第1回路から第4回路までの洗脳の問題は、ティモシー・リアリーの『神経政治学』で見てきたわけである。


Evil (Is Going On)




 それでは我々はドン・ファン・マトゥスの捕食者論に戻ろう。



「しばらく考えてから、事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらいいか話してみろ。呪術師たちは捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢を仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪と臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足におちいらせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ」(P274)


 蛇足だが、このカスタネダの捕食者の描写の意義を反転させれば、捕食者の対極にいる者がどういう人間なのか理解できることになる。成功や失敗を平等のものとみなすよう教え、人の幻想である期待や夢を破壊し、無欲と恬淡と勇気を与え、自己満足を粉砕し、極端な自己中心性を打ち砕く者こそが、つまり捕食者の対極にいる者としての真実のグルであると演繹できるであろう。これに当て嵌まらない教師は、ナラマトリックスを仕掛ける洗脳者であり、卑劣なエネルギーの捕食者のたぐいに過ぎないわけだ。



 カスタネダは続ける。

「だけど、どうしてやつらにそんなことができるのさ、ドン・ファン?われわれが眠っているあいだに、やつらがそういうことを全部耳のなかへささやくのかい?」
「いいや、そんなやり方はせん。そんなのくだらんにもほどがある!」ドン・ファンは微笑んで言った。「やつらはそれよりもはるかに有能で組織的だ。われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいってのは、もちろん、喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい、聞いているのか?捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、いまにも発見されてしまうのではないかという恐怖に満ちている。おそらくおまえは飢えを経験したことがないのではないかな。にもかかわらず、食料への不安を抱いているだろう。それは捕食者の不安にほかならない。捕食者はいつなんどき自分の策略が見破られて食料が得られなくなるかと心配でならんのだ。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する。そうやってある程度の安全を確保し、恐怖にたいする緩衝物とするのだ」(P275)



 カスタネダはさらに問う。
「で、やつらがわれわれを食べるのが真実だとして、いったいどんなふうに食べるんだい?」ドン・ファンは満面の笑みを浮かべた。大満悦の体だった。そしてつぎのように説明した。呪術師たちは幼児期の人間をエネルギーの不思議な輝く球として見る。それは上から下までそっくり光る上着で覆われている。エネルギーの繭にきつくかぶせたプラスチックの覆いみたいなものである。この意識の光る上着が、捕食者どもが消費する食べ物なのだ。人間が成人に達するころには、その意識の光る上着は地面から足指の上までの細いへりしか残っていない。そのへりだけで人間は生きつづけることができるものの、かろうじて生きつづけるにすぎない。(P275)


この意識のへりは内省の中心であり、人間はそこに逃れがたくとらわれているのだと〔呪術師たちは〕語ったのだ。捕食者はわれわれ人間に唯一残されている意識の部分である内省につけこみ、意識の炎をつくりだして、それを捕食者特有のやり方で冷酷に食いつくしていく。彼らはこれらの意識の炎を燃えあがらせる無意味な問題をわれわれに与える。われわれの疑似意識のエネルギーの炎を餌として食べつづけるために、そうやってわれわれを生かしつづけるのである。(P276)


Born Under A Bad Sign




 ドン・ファン・マトゥスの捕食者論において、捕食者はわれわれの本来備わっている意識の光の上着を足指のへりの部分だけを残して食べてしまい、そして残った足指の光のへりから生成させる内省の疑似的意識のエネルギーを餌に生きているのだという。つまり、われわれは本来の光る上着を食い散らされて、残った足指辺りの光のへりで、捕食者に与えられた心でもって、リアリー風に言うなら第1回路から第4回路までの地球内的回路を発動させつつ、意識のくだらないゴタゴタと内なる無益なおしゃべりに終始した内省の炎を生成し、それを「高尚な文化活動」や「天才的な芸術活動」または「人生の偉大なる苦闘」ないし「素晴らしき人生」と称して、満足気な顔で捕食者にせっせとエネルギーを供給しているというのである。これはなかなか深刻な困った事態ではある。

   それではもし、このドン・ファン・マトゥスの捕食者論が仮に一面の真実を突いているとするならば、われわれには、この貪欲な捕食者に対してなすすべはないのだろうか?その解決策をわれわれは次に見ていく。


「せいぜいわれわれにできることといえば、自分自身を鍛練して、やつらに触れさせないようにすることぐらいだ。しかしおまえは、自分の同僚にこうした過酷な鍛練をしろと要求できるか?みんな笑い飛ばして、おまえを慰み者にするだろう。なかには喧嘩っ早い者もいて、おまえを叩きのめすかもしれん。それも、その話を信じないからではない。どの人間の奥底にも、捕食者の存在についての先祖伝来の本能的な知識があるのだ。」(P276)




「古代メキシコの呪術師たちは捕食者を見た」と彼は続けた。「かれらはそいつを飛ぶ者と呼んだ。空中を飛びまわるからだ。見ていて気持ちいいものではない。なにしろ真っ黒ででかい影が空中をあちこち飛びまるんだからな。そのあと、そいつは地面へぱたりと舞い降りる。古代メキシコの呪術師たちは、そいつがいつ地上に姿を現わすのかと考えると不安でならなかった。彼らはこう推論した――人間はある時点では、今日では神話的伝説となってしまった素晴らしい洞察力と活発な意識を備えた完全な存在だったにちがいない、と。それがやがて何もかも消え去ってとみえ、いまでは醒めきった人間だけになってしまった」
私は怒りたかった。彼を妄想狂とののしりたかった。しかしどういうわけか、ふだんは私の存在のすぐ表面下にある廉直さが、そのときはそこになかった。(P278)


「わしが言っているのは、われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。不思議な存在になるよう運命づけられている人間は、もはや不思議な存在ではなくなってしまう。どこでもころがっている肉片にすぎなくなる。人間にとって夢はもうどこにも存在しない。あるのはただ肉にするために飼育された動物の夢だけだ。くだらん、ありふれた、愚かしい夢だ」(P279)



「……唯一人間に残された別の手段は修練だ。修練こそ唯一の抑止力なのだ。……呪術師たちは修練を、予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かう能力であると理解している。彼らにとって修練とは一つの技なのだ。ひるむことなく無限に立ち向かう技なのだ。といって、ひるまないのは彼らが強いからではなく、畏敬の念に満ちているからだ」
「呪術師たちの修練はどんなふうに抑止力になるっていうんだい?」私は訊いた。
「呪術師たちに言わせると、修練によって意識の光る上着を飛ぶ者の口に合わなくするのだそうだ」
ドン・ファンはそう言うと、不信の兆候を見つけようとしてか、私の顔をじろじろ見た。「その結果、捕食者どもは困惑してしまう。食用に適さない意識の光る上着は、おそらくやつらの認知の一部になっておらんのだろう。困惑したあげく、彼らとしてはふらちな作業の継続を思いとどまるしか手がなくなる。捕食者どもがしばらくでもわれわれの意識の光る上着を食べるのをやめると、意識の光る上着は成長をつづける。極端に単純な言い方をするとだな、呪術師は修練によって捕食者を遠ざけ、その間に意識の光る上着が足指の高さより上へ成長するにまかせるのだ。いったん足指のたかさを超えると、それは本来の大きさにまで成長していく。古代メキシコの呪術師たちはよく言ったものだ。意識の光る上着は木みたいなものだ、とな。剪定しないでおけば、高さも横幅も本来の大きさに成長する。意識が足指よりも高いレベルに達すると、とてつもなく素晴らしい知覚作用が当たり前のものになる。大昔の呪術師たちの並外れた策略は、飛ぶ者の心に修練の重荷を負わせることだった。彼らは発見した――飛ぶ者の心を内的沈黙で責めたててやると外来の装置は逃げ去って、それによりこの策略にかかわっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信を得られることをな」(P279-280)

Bad (Shortened Version)






 ドン・ファン・マトゥスの言及する捕食者は、人間が成人に達する頃には、足指にあたりにそのへりだけ残った光る上着と自分達の与えた不安な心の葛藤から生じる、内省という名の終わりなき心のおしゃべりによって生成されるまやかしの疑似的意識のエネルギーを食料とする。そこでこのような内的なおしゃべりである内省を、メキシコの呪術師たちは意図的に中断させることにより内的沈黙を形成し、それにより疑似的意識のエネルギーの生成をストップさせ、捕食者をまず寄せつけないようにするのだという。そしてその間も光る意識の上着は自動的に成長するのでそれが全身を覆うまで気長に待つわけである。この呪術師の戦略は、ほぼわれわれの知るところの瞑想とクンダリニーの覚醒に類似していると見てよいだろう。それは内面的にいえば七つのチャクラと基底部のムーラーダーラチャクラに眠るクンダリニー・シャクティと表現可能であり、ある種の外面性においては意識の光る上着としてそれは発現し、それは足指から全身を覆うものに発展すると想定し得る。したがってここでわれわれは背骨の基底部に眠るクンダリニー・シャクティという表現と、足指の辺りにだけ残る光る意識の上着のへりは、インドのヨーギンとメキシコの呪術師の文化的表現の差異と見做してもよいであろう。インド文化においてクンダリニー・シャクティの覚醒を阻害する、悪意を持った存在というものはあまり知られていない。その点から言えばインドは楽観的である。しかしメキシコのシャーマニズムの悲観的文化がここにおいて重要な見地を提供しているのは疑い得ない。インド文化においても無論、ダイヴァ(悪魔)やラクシャーサ(羅刹)の存在は知れているがそれがあまり注目されていないのは事実である。インド人は良くも悪くも視界に神しか見ていない民族である。マックス・シェーラーの心術論同様に、それはインド的な意識覚醒の無意識的戦略でもあるのだが。



 ここで少し寄り道をしてグルジェフのクンダリニーの見解を見ていく。このグルジェフのクンダバッファー論は、ある方面からは真理を突いているが根本的には間違っている(私が間違っていると断言できるのは、ソンバリ・ババやニーム・カロリ・ババがクンダリニー・シャクティを事実であるとして言及しているからである。誠実さの観点から試罪法にかければ、グルジェフはこのような超絶ヨーギンに比すれば、何十倍も劣っている)。しかしここでクンダリニーの空想性に関する言及は、ドン・ファン・マトゥスの捕食者が人間にもたらす意識状態と共通するものがある。


本当はクンダリニーとは真の機能にとってかわる想像の力、空想の力なのだ。人間が行動するかわりに夢を見、その夢が真実にとってかわり、自分を鷲やライオンや魔術師だと想像するのは、クンダリニーの力が働いているからだ。クンダリニーはどのセンターでもはたらくことができ、そのため全センターは真実よりも空想に満足を覚える。自分をライオンとか魔術師とか考える羊は、まさにクンダリニーの力のもとで生きているといえる。クンダリニーは、人間を現在の状態にとどめておくために体内に注入された力だ。もし人間が自分の本当の状態を知り、その恐ろしさを十分理解できれば、ほんの一瞬といえども今自分がいるところにとどまることはできないだろう。彼らは出口を捜しはじめ、すぐに見つけるにちがいない。なぜなら出口はあるからだ。しかし人間は、ただ催眠状態にあるがために出口を見つけられないでいるのだ。クンダリニーは人間を催眠状態にひきとめようとする力だ。<覚醒する>とは<催眠状態から解かれる>ということだ。ここに大きな困難があり、同時にその可能性の保証もあるのだ。というのも、眠りには本質的な理由は何もなく、人間は目覚めることができるからである。これは理論的には可能だが、実際にはほとんど不可能に近い。その理由は、人間は目覚めて目を開くやいなや、彼を眠りこませるあらゆる力が十倍のエネルギーで働きはじめ、彼はすぐにまた眠りこみ、しかもほとんどの場合、目覚めている、あるいは目覚めようとしている夢を見ているからだ。(P342-343、『奇蹟を求めて』ウスペンスキー著、浅井雅志訳、平河出版社)


  グルジェフの寓話的物語においてクンダリニーは、月を維持するために人間に現実をあべこべに知覚させて、自分達が月の食料であることを悟らせないために大天使が仕掛けた一時的な奸策なのであった。カスタネダはグルジェフを当然読んでいたであろうから、もしかしたらこの辺りに発想の源があるという嫌疑は拭いきれない。月の食料の為の一時的なクンダバッファーの植え付けと、飛ぶ者が自分達の食料にするために人間に自分達の不安な心を植え付けるというのが類似的であるから。ドン・ファンは続ける。


「修練は外来の心を際限なく責めたてるのだ」ドン・ファンは答えた。「だから呪術師たちはは修練を積むことによって、外来の装置を征服する」
私はドン・ファンの言葉に圧倒された。彼は完全に頭がいかれていると思った。(P281)


 ここにおいてドン・ファン・マトゥスは本質的なことを述べている。それは我々の心は外来のものであり、それは外からやってきた装置なのだということである。我々はインドのウパニシャッド哲学と共に、真我すなわちアートマンこそが我々の本来の自己であり、そのアートマンは五つの鞘すなわち食物鞘(アンナマヤコーシャ)、生気鞘(プラーナーマヤコーシャ)、意思鞘(マノーマヤコーシャ)、英知鞘(ヴィジュナーマヤコーシャ)、歓喜鞘(アーナンダマヤコーシャ)に覆われているというインド的身体観を度々確認してきている。しかしこの五つの鞘はいうまでもなく対象であり外来のものである。これはソンバリ・ババのいう集合的知性のプールの様々な階層から分離したものである。食物鞘を捕食するものだけが存在しているであろうと楽観する根拠はない。恐らく歓喜鞘は、ロバート・モンローのいう高級な愛の「ルーシュ」であり、それはウパニシャッド哲学における二道論で述べられていた神々の飲み物であるソーマ酒となる可能性が高い。従って残りの生気鞘や意思鞘や知性鞘を捕食する存在の可能性は当然想定しなくてはならぬであろう。そしてドン・ファンの言う捕食者は内省の擬似的エネルギーを餌にするのであった。内省の擬似的エネルギーと生気・意思・英知の領域は同じ領域であろう。

   しかし翻って考えてみるに捕食といっても、そもそもがそのエネルギーは我々の独占的所有物ではな全然なく、全体から一時的に分与されたものに過ぎないのであってみれば、それらはエコロジーの観点からもエネルギーとして様々な存在へと循環されるのは当然の摂理でもある。例えば私がグルジェフやカスタネダを事細かに引用するのも、言ってみれば英知鞘の辺りで彼らの生成物を捕食しているのだとも解釈できるわけである。ともかくもう一度カスタネダに再び戻ろう。


私はほかの文化のなかに飛ぶ者に言及したものがないかと広範な人類学的調査を行ったが、どの文化のなかにもまったく発見できなかった。この問題に関してはドン・ファンが唯一の情報源のように思われた。(P285)


 カスタネダは次にドン・ファンに会った時に自分の偏執狂的固定観念となった飛ぶ者についての質問を繰り返した。


「……いいか飛ぶ者の心には競争相手がおらんのだ。そいつは何かを提案しては、自分で自分の提案に同意する。おまえに、自分は何か価値あることをやったのだと信じこませる。飛ぶ者の心はおまえに向かって、ドン・ファンの言うことは何から何までたわごとだと言う。そしてその同じ心が自分自身の提案に同意する。“そうもちろん、それはたわごとだ”ってな調子だ。それがわれわれを征服するやつらのやり方なのだ」(P286)


「われわれ人間は宇宙によって造られたエネルギー探測装置だ。われわれは意識のあるエネルギーの所有者なので、宇宙はわれわれを道具につかって自分自身を認識する。飛ぶ者は執念深い挑戦者だ。そうとしかとりようがない。彼らをありのままに受けいれることができれば、宇宙はわれわれに存続するのをゆるしてくれる」(P287)


The World Is Yours (Remix) 




 やがてラヴクラフトの怪奇小説ばりに、主人公のカスタネダはアルジュナよろしく飛ぶ者との最後の戦いに挑むことになる。クリシュナ役は無論、師匠ドン・ファン・マトゥスである。彼らのクルクシェートラは、メキシコのどっかの谷を見下ろす高い岩棚。



「足を組んで座り、内的沈黙に入ってほしいのだ」とドン・ファンは告げる。
   やがてカスタネダは眠りたいという打ち勝ちがたい欲求と戦いながら、漆黒の闇の中で巨大な影を見た。大きさは15フィート(4.5メートル)。その巨大な影は空中を飛んで、音をたてずにどさりと着地する。


「怖がるな」ドン・ファンが命令口調で言った。「おまえの内的沈黙を保っていろ。そうすればこいつは行ってしまう」
私は足の先までぶるぶる震えていた。内的沈黙を保ち続けないと、泥の影に毛布のように覆われて窒息してしまうだろう。それがはっきりとわかった。私を包む闇を失わないようにして、声をかぎりに叫んだ。これほど怒りに駆られたこともなければ、これほどの絶望感に襲われたこともなかった。泥の影はもう一度跳躍した。谷底へ降りたにちがいない。私は足を揺すりながら叫びつづけた。何かが私を食べにくるような気がし、そいつを振り落としたかった。興奮するあまり時間の感覚がなくなった。たぶん気絶してしまったのだろう。(P291)


 ドン・ファンの家でカスタネダは、目覚める。


「あの光景は常識の範囲を超えてるよ!」ほかに何も言えず、私はそればかりを繰り返した。
ドン・ファンが語った捕食者はとても慈悲深いしろものとはいえなかった。それはひじょうに重く、粗野で、冷淡だった。私たちなどまったく眼中にないといった感じだった。たぶんはるかな昔に、それはわれわれ人間を押しつぶし、ドン・ファンが言ったように、ひ弱で、傷つきやすく、御しやすい存在にしてしまったのだろう。私はびしょ濡れの衣服を脱いで、ポンチョを羽織り、ベッドに座って身も世もなく泣いた。だが、自分のために泣いたのではない。私にはやつらに自分を食べさせないだけの激しい怒り、不屈の意図があった。泣いたのは、仲間の人間たちのためなのだ。特に父のために。その瞬間まで、父をこんなにも愛していたとはちっとも知らなかった。
「父にはチャンスが一度もなかったんだ」自分が何度もそう繰り返すのを聞いた。私自身が発した言葉ではないように聞こえた。かわいそうな父、私が知っているなかでいちばん思いやりのある人間、あまりにも感じやすく、あまりにも優しく、そしてあまりにも無力だった父。(P292)



 カスタネダの著作を解釈する上で、プラトンとソクラテスの関係を想起しておくのが分かりやすいと思う。プラトンはソクラテスを主人公に様々な対話篇を物した。初期はソクラテスの思想を大幅に反映させたものであったわけだが、徐々にソクラテスの口を借りてプラトン自身が自分の思想を語るようになっていった。カスタネダも同様に師匠のドン・ファンの口を借りて恐らく自己の思想を語っている部分が徐々にシリーズが進むに従って増えていったと考え得る。今回引用した『無限の本質』は最後の遺作である。そういう意味ではまずその真正さの割合は、初めに50パーセントぐらいにその見積りを下げておくべきであろう。そして最後の作品でどれぐらいの内容が、彼の創作なのかという比率を確定させるのは我々には困難である。従って、確率の感覚で言えばこのドン・ファン・マトゥスの捕食論の創作確率は74.9パーセントと私は計算する。従ってその真実性は、25.1パーセントということになるわけである。カスタネダは疑いなく師匠譲りの呪術師であるから、覚醒しようとしない人類に捕食者という脅迫観念を植え付けて覚醒の呪いをかけたのかもしれない。実際に内的な沈黙を保つのに、捕食者から自己を防衛するべきだと第1回路と第2回路に危険を訴えることによって、そのモチベーションは高まるのは事実であるから。


 最後にこれまで見てきた様々な捕食者の存在を、自説と共に整理しておきたい。まず私は捕食者を整理分類する為のカテゴリーとして、インドにおける三界的観点を導入する。インドにおける三界とは、ブーローカ(地界)、ブヴァローカ(空界)、スヴァローカ(天界)である。英語への翻訳事情によるヨーガーナンダ経由のユクテーシュワル説でいえば、ブーローカ(地界)はこの世界であり、ブヴァローカ(空界)は星幽界であり、スヴァローカ(天界)は観念界である。この三界においてまず上位のスヴァローカには伝統的に神々(デーヴァ)と悪魔(ダイヴァ)がいると考えうるが、これは高級「ルーシュ」の享受者であると想定しうる。従ってウパニシャッドの二道論におけるソーマ酒の享受者とは、ロバート・モンローのいう高次のルーシュの享受者であり、彼らは善悪問わずこの次元の存在者であると考えうる。次に一番低いブーローカ(地界)の捕食者を考えてみよう。当然あらゆるバクテリアや病原菌や害虫や害獣の類がここに分類される、またおそらくはマイケル・ハーナーの述べてる聖書に述べられている蛇としてのDNAとそれに類する高次元存在がここに分類できると思われる。彼らは自分たちの生存を維持する為に、あらゆる生命や人間を低次元の物質レベルに幽閉し、その結果様々な生命体は彼らの隠れみのや乗り物及びエネルギー供給者となるわけである。最後に中次のブヴァローカ(空界)の捕食者であるが、ここにドン・ファン・マトゥスの言う飛ぶ者としての捕食者、そしてマイケル・ハーナーのエネルギーを吸い取ろうとしていたガレー船に乗るアオケカスの頭を持つ鳥頭の人々が当てはまると想定しうる。もしかしたらドン・ファン・マトゥスの言う飛ぶ者とマイケル・ハーナーの垣間見た鳥頭の人々は同一存在であり、その相違は単なる観察者による、信念体系による歪みから生じた別様の知覚形態かもしれない。それではグルジェフの人間は月の食料説はどこに行ったのかとなると恐らくこの空界の
領域に当てはまると思われる。

   以上の超絶アクロバティック分類法は、単に頭の体操としてパズルでも解くように無理矢理構築したに過ぎないから、実情とは異なっているところも多分にあるであろう。しかしながらいずれにせよ、地界・空界・天界においてもエネルギーの循環の観点から、低次元の食物連鎖に相応する関係性を想定するのは、それなりに合理的理由があると私は考えるものである。


Bad and Boujee ft Lil Uzi Vert