さくらの勤める銀行では部署により多少の違いはあるが概ね19時を過ぎ、日報を書き終えた者から退社していく。主任の植草から2枚目のメモを受け取っていたさくらは指示通り、会社から少し離れたドトールに急いだ。植草は報告事項も少なかった為、先に会社を出てさくらが着くころには既にサンドイッチを食べ終わっていた。

さくらは植草を見つけると

「お疲れ様です。ちょっとお聞きしたいのですが。」と気になることをストレートにぶつけようとした。
「わかってるよ。順を追って説明するから先ずはコーヒー」

植草の柔和な表情で緊張が緩んださくらは、小さく頷き漸く、植草の対面の座席に座った。植草はさくらが落ち着くのを待って、今日、上席者面談に行ったNS商事の件について話し始めた。久保田課長の理不尽な扱い者変更に対する課員の反応や植草自身の考えをゆっくりと丁寧に語った。

内容はさくらの気持ちを正に代弁するものだった。さくらは「新井さんは?」とずっと気になっていたことを確認した。植草は「俺、新井さん、好きだな」と。

さくらは「そうじゃなくて、帰り際会社にいなかったと思うのですが。」と、的確な回答をもらえるよう改めて聞いてみた。

主任の植草の話では、新井はさくらが外出した直後に久保田課長に歩み寄りその場で抗議してくれたみたいだった。そしてそれは周りにも聞こえるくらいの口論になっていたのだ。


「課長、おかしいですよ。東山の頑張ってる姿、ずっと見てましたよね。先程の担当者変更は明らかにやりすぎです。提案のサポートは私がやります。担当者変更は撤回してください。」


「新井課長代理、お前は何も分かっていない。NS商事だぞ。NS商事の山本社長から ”期待しているから宜しく頼む”と言われたんだぞ。東山の薄っぺらい提案で期待に応えられるのか。」

「ですから、提案については私がサポートします。」そう言って譲らない新井に対して久保田はキレ気味に言った

「何を偉そうに言ってる。調子の乗るんじゃない。自分の仕事をキッチリこなしてから言え。」



実は、新井は本店営業部では勿論、全店の課長代理級では非常に優秀な者の一人であり、来期には同期の中でもトップで課長への昇格が確実視されていた。


そんな新井は乱暴な久保田の言葉に対し、「私の仕事についてのご指導は別途受けます。東山の扱い者変更について撤回の検討をお願いします。これは課内の問題ではありません。全店営業員の士気に関わる問題です。」

「何度も言わせるな。何を偉そうに言ってる。課の運営は課長である私に責任の所在がある。会社として最大パフォーマンスを考えた場合、お前の主張する結論にはならない。」


全く、譲ろうとしない久保田に対し新井は空気が凍るような一言を放つ。課長代理の新井は、冷静にしかしこれまでとは違う厳しい口調で声を張った。

「久保田課長、詭弁が過ぎます。頑張ってる部下をサポートして育てるのがチームリーダーである課長の責務ではないですか。部下の手柄を横取りしてまで自分の成績に拘るあなたの品格を疑います。」

響き渡った。二課だけではなく本店営業部の隅々まで。二課の課員は固まったまま身動きが出来ずにいた。課長の久保田は冷静さを装う為か、意識して小さめの声で

「新井君、何を言っているか分かっているのか。」と、言いながら新井課長代理の靴のつま先から頭頂部までをゆっくりと視線で刺した。新井もまた落ち着きはらって、小さな声で

「私の発言に不適切な箇所はないはずだ。問題にするのなら喜んで応じます。」久保田もこれ以上大袈裟にすることは損だと判断したようで「新井の意見は参考に預かっておく。今日のところはこの議論の結論は持ち越すことにする。しかし結論は課長である私が出す。」


言い切ってこの不味い状況の幕引きを図った。しかし、そんな久保田の言い回しに新井は納得するはずもなく声を荒げた。

「もう一度言いますが、NS商事と取引が出来るのは東山のひたむきな努力があったからです。それを自分に扱い者変更する課長がどこにいるのですか。」

さくらが荒川の小さな支流に架かる橋の上で涙ぐんでいた頃社内での自身の立ち位置を顧みず、少し背伸びしながら頑張るさくらを守ろうとする新井の姿が本店営業部のそこにあった。植草は急に残念そうな表情になって

「ここまでは俺も机の下で拳を握りガッツポーズしながら心の中で新井さんを応援してたんだ。」

さくらは大事な時期にリスクを顧みず自分を庇ってくれた新井課長代理のことが心配で既に課長に叱責されたことなどどうでもよくなっていた。「植草さん、それで新井さんはどうしていなかったのですか。」
植草は本当に悔しいそうに

「帰らされたんだ。樋口部長に。新井さんは是々非々の人だから、あの後、結論を先延ばししようとした課長に。」そう言って頭を抱えた。

「それで、それで、どうなったんですか。」さくらは懇願するように言った。

新井は課長に向かって「課長の私が判断する?そんな理不尽なことが認められるのならこの会社に未来はない。久保田さん、あなたは間違っている。」冷静なのか、熱くなっているのか見た目では判断できないがこの時の新井は口論が始まってから最も張りのある声で言い放った。

ついに奥まったデスクで一部始終を聞いていた部長の樋口が重い腰を上げ近づいてきた。樋口は両者が視線で迎え入れたことを確認し、静かな口調で「今日のことは久保田ではなく私が預かる。新井はデスクを片付け速やかに帰れ。」と指示した。

新井は部長の言葉に従い退社し、久保田はその後部長席付近でなにやら少し話した後課長席に戻ってきた。さくらは橋の上で悔しくて涙ぐんだのとは違う、そう、有難さ、が込み上げ目頭を熱くした。サラリーマンとして大事な時期、課長昇進を目の前にした新井さんが新人の私なんかの為に、立ち位置を顧みず私の気持ちを代弁してくれた。


熱くなった目頭からは、ぽとぽとと感謝の粒が流れ落ちた。植草はそんなさくらをみながら「東山、新井さんみたいな人がいるから俺たちは頑張れるし、落ち込んだり、腐ったりしてる暇なんてないんだよな。」さくらは頷きながら

「頑張ったらいいことある。」と小さな声で呟いた。「明日、何らかの結論が出されると思うけど、
大丈夫だよな。東山。」「はい、どんな結論でも今まで以上に頑張れます。」

さくらは新井課長代理に感謝しながら、もう無理しないで欲しいと、素直に思った。「新井さん、カッコよかったな。俺たち幸せだよ。」

植草の子供のような笑顔につられ、いつしかさくらも柔和な表情になり、自然に前向きな明るい気持ちになっていた。そんなさくらは、翌日NS商事の担当に関して部長の樋口から直々に呼び出されることになるのだ。