【〔気功&ふぁんそんテクニック〕は禅である】

 僕は「気功は禅の一種である」と言ってきた。
 ここで言う〔禅〕とは、坐禅のことでも厳しい修行のことでもない。
 〔禅〕の原語であるディヤーナというサンスクリットの意味である〔心身を統一する〕という意味だ。
 心と体を一つにする、即ち、今していることのみに心を向けて没頭していくという意味だ。
 坐禅は、坐ることのみに没頭していく禅の修行の一つなのだ。
 歩く時は歩くことのみに、食べる時は食べることのみに、掃除をする時は掃除することのみに、労働の現場ならば、その労働の作業のみに心を向け、没頭していく、それが〔禅〕なのだ。
 臥位であれ坐位であれ立位であれ、一日の生活の一つ一つの行ないに心を向け、そのことのみに没頭しテいく訳だ。
 気功の習練も同じである。
 貫気法であるならば、気が体内の何処を巡っているのか、採気法ならば、外界の気が何処から何処に染みこんで来ているのか等々、習練の中での気の感覚に没頭していく訳だ。
 勿論、〔ふぁんそんテクニック〕も同じである。
 体内の〔ふぁんそん感覚〕、皮膚から染み出て行っている〔ふぁんそん感覚〕と体内の〔ふぁんそん感覚〕との一体感など、空一杯に広がる〔ふぁんそん感覚〕まで、その感覚に没頭していく訳だ。
 〔気功&ふぁんそんテクニック〕は禅の一種であるというより、〔禅そのもの〕なのである。