僕が人生の目的を見失い、人生に苦悩しているのは、〔ふぁんそん〕の広がりである〔空の体感〕を体感できるようになって来たからかも知れない。
 〔ふぁんそん〕も〔空の体感〕も、確かに心地よいし、他に何も要らない程に執着から離れることも出来る。
 その状態を日常生活の中でも維持できるようになって来た時、ふと感じたのだ。
 この〔空の体感〕の状態と境地が僕の人生にとって何の意味があるんだろうかと考えてしまったのだ。
 しかし、それは、それ以外の何かを求める僕の〔欲〕であり、本当の意味での〔ふぁんそん〕と〔空の体感〕の領域に入っては以内のだ。
 その〔ふぁんそん〕と〔空の体感〕こそが、何物にも代えがたい人生の中での幸せであり、自由ではないか。

 坐禅には、坐禅によって何かを求めるな、坐ることのみに没頭せよ、即ち〔只管打坐〕であるという教えがある。
 とするならば、〔気功&ふぁんそんテクニック〕も、只管に〔ふぁんそん〕と〔空の体感〕に没頭していくだけで良い訳だ。
 他に何も求めるな。
 本当にその境地に達した時、量から質への飛躍が起こる訳だ。
 サナギは蝶になることも解ってはいなかっただろうし、蝶になろうとも思ってはいなかったと思う。
 サナギをし続けていたら、ある日、蝶への羽化が始まり、気づくと蝶になっていたのだ。
 苦悩は〔欲〕から始まる。
 これは釈尊が示した真理ではないか。
 苦悩するより、只管に〔気功&ふぁんそんテクニック〕の心地よさを体感し、ほこに没頭していけば良いのだ。