今年は日記を書いてみようと思ったので、無料アプリに半月くらいは書いていたけどやめた。

何となく書かなくなってやめたのではなく、やめようと思ってやめたので三日坊主ではないと思っている。

 

私は短歌を書いていて、その世界の端っこのほうをちょろちょろしている。
「賞」とか「公募」というものにたぶん数えるほどしか応募をしたことがないが、『好きな歌人が審査員(選歌)にいるか』いうのが私の応募動機となっていることにさっき気付いた。

「賞」というよりは、その好きな歌人に読んでほしい選んでほしいという気持ちが強いんだろう。

思い返してみると、まさにその通りで例外がない。例外があるとするならそれは賞金目当てだ。

我ながらその一貫性には驚いた。


さて何回か応募したことのある賞の今年の募集が開始された。

審査員の中にS氏の名前がなかった。

『審査員が全作品を読む』すなわち、S氏が私の短歌を読んでくれるという前提。

だから応募していた。

ふざけているのかと思われそうだが、ふざけてなどいない。今ちょっと落ち込んでいる。毎年ちゃんと応募すればよかったなあ。情けない後悔である。

 

 

数日、東京の娘のところに滞在した。

台本を覚えたり、スタジオに稽古に出かけたり、舞台を観に行ったりと自分のことをする合間に私の遊びに付き合ってくれる娘を見ながらちょっと焦った。私は、私のこととして一体何をしてきたかなあと思って。

 

 

ひろこさんの写真がとても良い。最近ほんとうにぞくぞくするくらい良い。
写真のことはよく分からないけれども、ひろこさんの写真を、かなり多く真面目にしっかり見てきたガチ勢のひとりだと自負している。クジラと蛇口展やりたいなあ。ぜったいやりたい。

 

 

新聞歌壇への投稿を今年は継続しようと思っているのに、もうすっかり忘れていたりして自分に驚く。

それでも思い出した時に出してはいるのでまだギリセーフ。

誰に迷惑をかけるわけでもない自分だけのルールの典型なんだけど。

新聞歌壇は今まで毎日歌壇の選者K氏にしか出した事がなかったが、今年はじめて別の方にも出すことにした。歌人のO氏が「丁寧に短歌を読み、良い作品を見逃さない眼を有する稀有な人」とツイートされていたM氏。まったく単純なのだがそういうことだ。

 

題詠もとても良い練習になると、O氏の別のツイートにあったので、私は題詠が手放しで苦手だが十数年ぶりにやってみるかと思っている。ただ会場がFBになっていたのでどうしたものか。

FBは2回ほどチャレンジしてみたが、どうも性に合わないのでやっていないのだ。

私が題詠に参加していたころ確か「参加表明しなくていいけど題を使うなら一報くださいね」みたいなルールだったと思うしそれは礼儀だろう。むー。

 

 

そして今年は手元にある歌集(50冊に満たないくらい)をもう一度読もうと思う。

もう一度とは言わず何度も読んだものもあれば、実はまったく読めていないものもある。ぱらぱらとめくっただけのものも。読みます。読むまで新しい歌集の類は買いません、借りません。


と言いながら図書館で寺山修二全歌集を予約した。

どうしても読みたくなった。

最近読んだミステリー小説がはちゃめちゃに面白く(映画化もされている)、参考文献のページを眺めていたらシリアルキラーや猟奇殺人等の文献が並ぶ中に「寺山修二全歌集」の文字。

導かれたと思ったのでその場で予約した。歌集を読む動機としてはとても良い。

買うのではなく図書館で予約というところに私らしさが満載。

 

 

だらだらと最近のことを書きつけてみたけれど、意外に短歌関連のことになり自分で驚いている。常駐している140文字の世界で文字数が足りない部分をたまにこうして書くのも頭の整理ができていい。