◆因果応報
何がしかの結果、現象にはすべて原因がある。
これはとても科学的な考え方です。
仏教では、さらに自因自果といって、
自分に降りかかってきたことは、
すべからく自分に因があると考えます。
「ひどい人にだまされた」とか、
「周りの人は自分を理解してくれない」とか・・・
でもそういうことは自分に因があるものです。
そういえば、以前、ブログをやめたという人がいて、
やめた理由は、
「ひどい書き込みが多いし、他人のブログを観にいっても、
適当なことしか書いていない人ばかりだったから」
だそう。
確かに、そういうブログもたくさんあるでしょうが、
そういう情報を引寄せているのは、実は自分自身だということ
をその人は気づいていませんでした。
みなさん理解されているように、ブログは使い方次第。
つまりブログを楽しめるかどうかは自分次第。
さらにいえばブログは擬似社会ですから、人生を楽しめるか
どうかは自分次第。という事に繋がっていきます。
ただし。
たとえば、普通に道を歩いていて、そこに自動車が
突っ込んできて大怪我をしてしまったなどと言う場合。
そういう場合、多くの人は、”偶然に事故に遭ってしまった”
という以上の因、たとえば、「何かの罰が当たったんだ」とか
「あんなところを歩いていた自分が悪いのか?」とか
そういうことまで、思考を巡らせてしまいます。
そんな風に自分に因を求める必要はもちろんありません。
この場合、事故にあったことは防ぎようも無い致し方ないこと。
でも、それに対して、そうやってぐちゃぐちゃと、余計なことを
考えてしまい、心まで痛んでしまうこと。
その部分は、明らかに自分が原因です。
その余計な思考をやめることができれば、痛みは、事故に
遭った身体の痛みだけで済みます。
しかし、あーだこーだと考えてしまうと、心まで痛んでしまい
ます。これだと、心と身体の二重事故に遭うようなものです。
抗いようの無い事実は、そのまま受け入れる。
そういう現状肯定的な考え方を仏教はします。
何が自因なのか。この辺りの区分けが出来るようになると、
随分と”お気楽”になれます。