柳家右太楼&泉水亭錦魚
『キンギョとウタロウ 其の二』
という、二人の若手落語家の噺を聴きに先日行って参りました。
ワタクシ、落語を生で聴いたのは初めて^^
まず、そのクオリティの高さに驚きました。
この二人は、世間的にはまだあまり名が売れてないかもしれませんが、
面白いですよ。いい感じです。
かえって若手だけあって、今の時代の雰囲気も上手いこと取り入れ聞きやすくなっています。
古典落語もそのままやるわけではなく、いろいろ工夫しているわけですね。
しかし、真打でなくともこのレベルですか。
日本の芸能の裾野の広さを感じます。
それと、落語を聴いて、久しぶりに不思議な感覚を味わいました。
たとえば「置き泥」という噺。
泥棒が入ったその部屋の様子が、ワタシの頭の中に、”映像”としてイメージされ、
その部屋の中で落語家が演じる人物たちが怒ったり、あきれたり、つまづいて転んだりしています。
まるで「頭の中で、お芝居をみているような感じ」とでも言いましょうか。
その登場人物のひとりは、全てを質に入れてしまっており、裸。
それはワタシの目の前にいる、着物を着ている演者とは別の存在として、
裸でワタシの「脳」の中でしゃべっています。
ちなみに受け手側(見る側)の想像力が必要な度合いは、低い順に並べると、
「映画(映像)」→「芝居」→「落語」→「朗読」→「読書」 てな順番でしょうか?
こうしてみると、人から与えられた”出来上がった映像”をそのまま受け入れていく「映画(映像)」は、
読書と比べると、ずいぶんと、自分の想像力を働かせる余地が少ないことに気付かされます。
TVも含め、映像までご丁寧に作りこまれた情報を与えられることに慣れてしまった人には、
読書で、文字の羅列の中から、自分の頭の中で映像化しながらその物語の世界観を構築して
いく作業は、かなりしんどいでしょうし、それができなければ、面白く読めないでしょう。
(あ、もちろん映画も好きですよ^^)
そして「落語」とは、それらの中間的な存在。
演者は一人、舞台装置や小道具も不要。
座ってはいるがアクションもある。
つまり演者の技量に手助けされながら、その世界観を気軽に独自で構築しながら楽しめる。
”半バーチャル”とでも言いましょうか^^
「脳」の立場からすると、かなりお手軽な娯楽であり、それが「落語」なのかなと。
みなさんも、
自分の「脳」に手軽に、想像力を働かさせてあげて、違う世界に行かせてあげてください。
「脳」にとっての慰安旅行?きっといい骨休めになると思います。
ちなみに今回は、当日券で1800円。
安いよなあ。これだけブログで語れれば(笑)。
さて、この二人に興味を持たれた方は、 『キンギョとウタロウ 其の三』 が、
神保町の「らくごカフェ」で10月15日に開催されるそうです。
其の三とかって継続できるってことは、彼ら、やはりタダモノデハナイ。
全て終了し、くつろぐお二人。(向かって左が右太楼、左が錦魚さん)