桶狭間の戦いに学ぶ 最終章 | 営業改革コンサルトの活動日誌!

桶狭間の戦いに学ぶ 最終章

さて、思いのほか連載記事になってしまいました桶狭間のお話^^;


今回を最終章としますので、ちょっと長くなりますがご勘弁を!




さて善照寺砦で今川義元の居所を掴んだ信長軍は、


「今川義元の首をとることのみ」を作戦目標として明確に指示し、進軍開始します。


これは当時の戦いでは極めて異例のこと。


当時は戦いに参加した者は、それぞれ、何人敵を倒したかを、相手の耳とか鼻を斬ってその証拠とし、その数でご褒美を貰っていたりしたのですから。


今で言うところの、完全出来高制^^ 


もちろん武将クラスなど、位の高い相手を討ち取った方が報酬は高くなります。



でもそれはつまり、集団で戦っているようで、実は個の戦いの集合体。


社員に高い報酬を与えれば各々働いて成果を上げてくれると考えている経営者には、一考頂きたいところです。その考え方だと、結局は個人商店の集まりでしかないわけです。



その「足し算」で得られる成果は、限定的です。信長軍にはなれません。


信長は、人事制度でも革新的であったわけですね。


信長は、合理的に、かつ鮮明に指示を出して、この戦いに臨んだのです。


(注:私は、信長を信奉しているわけではありません。あくまで研究対象です^^)




さておき。


一昔前までは、桶狭間に向かうまでの経路については、敵の目を欺き奇襲するために、迂回したという説が多勢を占めていましたが、それはいまは否定されつつあります。


現地を歩いてみれば、その迂回説がいかに非現実的か。


善照寺砦からは、現在の旧東海道を通って、一気に桶狭間まで進軍したほうが合理的です。


ちなみにその迂回説の出所は、旧陸軍。


この悪しき机上の空論が、インパール作戦などに結びついていたとすれば、本当に悲しいことです。




さて本論に戻ります。ここで重要なことを述べます。


この桶狭間の戦い。私は、『信長の計画的犯行』とみなしています。


その犯行現場である、桶狭間。この場所には重要な意味があります。


今川義元が三河方面から進軍してきて、


すでに信長から奪った二つの城、


桶狭間は、その 「大高城」か「鳴海城」 いずれかに入るための進路の分かれ目に位置します。


(下図参照)



営業改革コンサルタントの活動日誌!  

今川義元の進軍経路(青○ が桶狭間

しかもそのいずれかの城に入られてしまうと、そこから先は


清洲城まではほぼ平野となり、義元を討つチャンスはないに等しい


のです。


(新幹線に乗ると良く分かります。東京方面から来て名古屋の手前で平野が開ける辺りがちょうど桶狭間から大高の辺りです)


だから、義元がどちらの城に入るか事前に分かっていないのであれば「そこ」で討つしかない。


もちろん「そこ」より東は、今川の勢力範囲内。



まさに桶狭間とは、義元を討つには、

「そこしかない」という地点。


(注:もちろん当時の海岸線を考慮しての話です)



まさに、そんな場所で、今川義元が小休止をしてしまったのは、信長側の間者が農民に化けて貢物を差し出し、足止めをさせたとか諸説がありますが、


今川義元にすれば、敵の領内に入り、いきなりそうした歓待を受ければ、無碍にすることも難しいでしょうから


信長がそうした仕掛けをしたことは十分に考えられます。




もちろん本当に敵の総大将の首を野戦で討ち取れるか?というと、そこはかなり難しい賭けでもあります。


事実、古今東西、そういう戦いは稀です。


信長もこの作戦のリスクの大きさは十分承知していたと思われ、以降の戦では、この戦法は一回も使っていません。


でも、敵が進軍中であれば、たとえ2万とかの軍勢が相手でも、特に当時の狭い街道を進んでくるのですから、


細長くならざるを得ません。


敵将の所在さえ分かればそこを一点突破できれば、総合計の兵力差は関係ありません



すなわち、この桶狭間で討つと決め、ここから逆算して、進軍経路や通過地点(熱田神宮、善照寺砦)、兵站(食糧など)、情報網の配備など、かなり周到に練られた”計画的犯行”だったと考えたほうが自然だと私は考えます。


そうでなければ、実現は難しい作戦でもある。


桶狭間の戦いは、リスクも承知の上で、

信長が周到な準備の上で仕掛けた作戦


それが私が、現場を踏査して得た実感を伴う結論です。


準備が8割。




ところで。


最近では今川義元のこの進軍は、上洛目的ではなかったと言われています。当たり前ですね。


(すごろくじゃないんですから、このまま京都まで勝ち進んで先に到達すれば天下がとれる、という単純な話じゃございません)


今回の目的を、「織田家に対する示威的行動だ」(脅し)とすれば、圧倒的な戦力で緒戦で主要な出城を奪い、丸裸にしてしまえば、一族内での抗争も続いているから、離反者も続々出てくるだろう。


そうなれば織田家崩壊近し。


そういう狙いだとすれば、とても合点がいきます。


そして犠牲が多く出てしまう本隊同士での正面衝突は想定していなかったのではないでしょうか。


だから油断というより、虚を突かれた感じでしょうか。


決して、義元が凡将だったわけではありません。こういう政治的な駆け引きにとても長けています。


鳴海城の奪取などでは、そういう手腕が発揮されていますしね。




ということで、今回かなり長い文章を書いてしまいましたが、


★実際にその場に行ってみること。


★そして、できるだけその当時の感覚を共感できるよう努力すること

(この場合は、実際に自分も走って行軍してみる。タクシーや電車で行ったのでは絶対に分からないものがある)


そうしないことで、現実感のない諸説がこれまで罷り通っていたと思います。



そして、★マークの部分は、私が仕事をする上での矜持でもあります。


まず、その会社に行く。肌で感じる。さらにその社員の実際行動を想像できるまで共感性を高める。


机上の空論、頭でっかちは、やがてインパール作戦に繋がる。


それくらいの”危機感”を持って、それが必須だと考えています。