桶狭間の戦いに学ぶ その3
さて、熱田神宮から最前線へ。
信長の熱田神宮からの進軍経路は、
次に記録上確かに寄ったのが、善照寺砦。
この善照寺砦。
実は、敵に奪取された鳴海城と、目と鼻の先にあります。
距離にして約600m。たいした高低差もありません。
(地図内:青い線の左端が鳴海城、右端が善照寺砦)
奇襲作戦だとすれば、この距離感はなんだか意外な感じもしますが、
まあ、ここまでの進軍経路も、この砦の様子も、地形的にみて鳴海城から捕捉される心配は
あまりないでしょう。
でも、見つからないように動こうとするのであれば、それを最優先に考えるならば、
敵の城の近くを通るのはリスクはありますよね。
でも私は、この砦が、この戦いにおいて、とても重要な位置にあったと考えてます。
つまりそうしたリスクがあったとしても、この砦に入る必然性が。
それは、この砦に行ってもらうと良く分かりますが、この近辺では最も南東方面の見晴らしが良く、
かつ行軍しやすい(つまり山のてっぺんとかでは困る=現緑高校辺りなど)場所なのです。
桶狭間方面に進もうとすれば、ここしかないな、という場所です。
実際、「信長公記」によれば、この場所で 信長は今川義元本陣の動きに関する情報を”待ち”ます。
いわば突撃前の最終拠点。(この砦を下ったところに中島砦がありますが、ここは見晴らしはゼロです)
そして、「田楽狭間で休憩中!」との知らせを受けて、そこに急行していきます。
ちなみに戦いに勝った後のご褒美で、一番手柄とされたのは、
今川義元の首を取った兵ではなく、この一報をもたらした兵でした。
このことからも、いかに信長が敵の動きを捕捉することが、この戦いに勝利する上で重要と考えていたかが分かります。
また善照寺砦は鳴海城に対する付城(=城の監視や補給路を妨害するためのもの)
というよりも、むしろ、この突撃のための最前線基地としての機能ありきだったようにも思われます。
なぜなら、こちらからも鳴海城の様子も見えないですし、道路封鎖するにもよい場所とはいえないんです。
意図的に、早い段階からこの砦のこのような使い方(=桶狭間への最終拠点)を考えていたのだとすれば、
やはりこれは思いつきでの作戦ではなく、かなり周到に準備された作戦であるような気がします。
ところで、この近辺については、実際に走ってみた、というだけではなく、私にはかなり土地勘があります。
なぜなら、鳴海城のすぐ近くに生家があり、この鳴海城跡は今は公園になっていて私の遊び場でしたので^^
ちなみに、その裏山に入って遊んでいて、たまに油皿の破片や古銭を拾ったものです。
また、中学生のときに友達と、善照寺砦から中島砦くらいまでの下り坂でダッシュの練習をしたことがありました。
そういう土地勘も踏まえてのお話です^^